パンプキン・パーシュート
随分と凝ったカボチャランタンが店先でこちらに睨みを効かせていた。
霧吹きみたいな雨粒がもうすっかり暗くなった街角を染めている。
街灯はオレンジ色に染まり、光は丸く雨の形を模った。
そこいら中に開かれた店らのショーケースには各々ランタンや魔女の飾り付けがされ、それをコスプレした人達が笑い合いながら見ている。
ぼーっとそんな様子を見ていた私は、前の人にぶつかって尻餅をついた。
痛む腰を摩りつつ起き上がってまた周りを見回した。
辺り一面人だらけ。
溢れんばかりの異形達を模した集団は歩みを進めるごとに増加していく。
太陽が短くなってきたとはいえ、それでもまだ夜というには早い時間だろうに、早速路上に腰を落ち着かせて缶ビールを煽っている奴がいる。
キョンシーと吸血鬼のコスプレをした女がメイド服と海賊のコスプレをした男にナンパされてると思ったら、その逆もいた。
宇宙人に抱えられてる集団が15人くらいでカフェテリアに座っているかと思ったら、やたら顔面のでかいウェイトレスみたいな格好をした3人組がベッドを運んでいた。
まさにバカ騒ぎだ。
そんでまた11/1の朝のニュースでこの街の有様が特集されるんだろうななんて思いながら、私の足は駅前の電子時計の前に来ていた。
時刻は20:21分32秒。
…。
20、21、32
20、21、32
20、21、32
20、21、32
変わりやしない。
電光掲示板はここ何年もずっと変わらない直線と直角の赤光を灯し続けている。
この霧みたいな雨粒には温度も感覚も感じられない。
さっき転んだ拍子に水溜りに入ったはずの赤いワンピースは濡れてすらいない。
街路樹に垂れる水滴は球になって木の葉の5cm下で静止していた。
10月31日、午後8時21分32秒56。
私、久留崎 絢音は、止まった世界に閉じ込められていた。
…。
10月31日。ハロウィンだ。
あれは…何年か前のこと。
何十年も前だっただろうか。
あの日、もう思い出せないくらい前の今日、この世界は私を残して完全に活動を停止してしまった。
いや、完全にっていうのはちがう。
ほとんど、ほとんど完全にってことにしよう。
ほとんど完全に活動を停止してしまった。
ほとんどっていうのは…それはそろそろ分かるはず。
体感1月前に見た時に液晶が歪んでた。
あの人は…あそこら辺だったかな。
交差点付近。
人工密集にしたって度がすぎてるレベルの人混みを遠回りで避け、路上で吐き散らしてるモンスターエナジーから見て三番目のベンチを右に曲がった所にいるサイレンな頭をしたスーツの男。
スマートウォッチのタイマーが01:26:05から01:26:06に切り変わっていた。
それを確認した私は、ひとしきりため息をつき、近くのベンチに座った。
あたりは驚くほど静寂に包まれている。
そこら中にいるモンスター達や嫌そうにそれを見るスーツ姿のサラリーマン、張り付いた様な笑顔で呼び込みをする店員はいれども、それらから発せられる音は何一つない。
「あーーーーーー。」
私が声を発そうとも、周りの空気が振動していないのか、それは一切周りに響くことなく終わる。
おかげで私が声を出せているのか、それともそう思い込んでいるだけなのか、判別がつかない。
だけど、この世界は確かにものすごくゆっくり動いている。
ベンチから立ち上がった。
近くにもう二人いたはずだ。
開けっぱなしのデパートの入り口。
右手に入った所の、スイーツ売り場でどうかと思うデザインのショートケーキを指さしている初老の女と、そこから反対にあるチョコの箱をカゴに入れているOLのそれぞれの腕時計だ。
大体1ヶ月前に来た時と全く変わらない状態の二人の時計を覗き込む。
8:21 32 57
20:21 32 57
この前見た時この時計は20時21分32秒56を指していた筈だ。
0.01秒。
100分の1秒を記録してる時計だけがこの世界が確かに動いていることを示していた。
…帰ろ。
…。
街を出た。
辺りは途端に閑散として、目の奥が痛むほどの電飾はまばらに変わった。
青信号の前で固まった車のヘッドライトが道を照らしている。
牛丼チェーン店の自動ドアの先で何人かの人間が牛丼をがっついていた。
とはいえ、自動ドアは私に反応しない。
アレにありつくことはできないだろう。
というかそもそも、時間が止まった時から私のありとあらゆる生物的な欲求は鳴りを潜めていた。
お腹は空かないし、眠気も来ない。いくら歩いても疲れないどころか、肉体的な損傷すら起こりえない様だった。
と、突然足が何かに引っ掛かる。
特に何の用意もしていなかった私はそのまま顔面から地面にすっ転んだ。
「うぅ…。」
痛い。
うめき声を上げながら立ち上がる。
…憎らしいことに、物理的損傷はないくせに感覚神経だけは働いている。
足元を見やると、そこにあったのは少し長めの雑草だった。
忌々しげにそいつを睨み、結果は分かりきってるだろうにそいつを蹴った。
少し長めの雑草は私の足裏に対し垂直にそのベクトルを受け、本来の柔さならば容易にしなだれるであろう状況でも一切容形を変えず直立したままだった。
反対に私はその反作用をくらい、少しバランスを崩した。
よろよろと体勢を立て直した私は膝に手をついて再度ため息を吐いた。
「…はぁ。」
この世界にある物体に私は干渉できない。
物を見る事も触ることもできるのだが、それは私からどんな影響を受けても変わらずそのままだった。
だから私にとってはどんな草花も剣山に変わり、舞うビニール袋はまるでレンガブロックだった。
世界は時間停止者に対して優しくない。
道路の安全基準は私からしてはるかに下だった。
…。
ハロウィンで大盛況の街から歩いて7駅。
ほの暗い道を歩き続けた先に私の帰る場所がある。
少し広めの道。
少し低めの家が所狭しと並べられた区間。
街灯は等間隔で並べられ、その下を何台かの車が並んでいる。
私のものは、左車線、横断歩道を渡って15台目。
そこにそれはあった。
街灯は妙な方向を向き、その家の2階の、勉強机に向かっている少年の顔を照らしている。
車道には歪なタイヤ痕が残り、その先にある存在の行き先を明示していた。
…それはブロック塀に突き刺さっていた。
全面は完全にひしゃげ、見る影もない。
過程で一度電柱を折ったのか、散らばる車の破片と一緒に円柱のブロックが空に浮いている。
空中に浮かぶガラス片を上手いこと避けつつ、追突した車の車内に入り込む。
車内は急激に圧縮されていた。
床に溜まっていた空き缶や包装が舞い、灰皿からは吸い殻が撒き散らされている。
前座席で運転していたお父さんは潰れた車体に巻き込まれ、7年くらい前、脳天にボルトが突き刺さったのを確認した。
後部座席にはお母さんが居る。
顔を引き攣らせ、口を大きく開けている。
シートベルトを握りしめる手に血が滲んでいるのを3年前に発見した。
そして、その横に座っている女の子。
年齢は5歳くらい。
赤いワンピースを着ていて、目をギュッと瞑っている。
名前は、久留崎絢音。
私の、肉体だ。
…。
時間が止まる前。
10月31日、その日は妙に機嫌の良かったお母さんが、何かをのんでいたお父さんに外食をねだった事で、私たちは外食に出かけることになった。
当時の私は機嫌の良さそうなお母さんの様子が嬉しくて、それでも顔には出さない様にお気に入りのワンピースをタンスから取り出して着ていた。
今考えると、私の家は異常だったんだろう。
私の当時の記憶はゴミとタバコと饐えた臭いで構成されていた。
何か私が悪い事をすればそれには必ず暴力と暴言がついて回った。
それは時に手のひらであり、拳であり、炎だった。
それらに対し全てを理解できないまでも私は小さいなりに苦痛を忌避するためいろんな努力をした。
悲哀と喜びの感情は両親をイラつかせるだけだった。
曰く何もないのに笑うなんてアホみたいな事らしい。
頑張って助けになろうにもそれは鬱陶しいだけで、私が生きているせいで二人はうざったく思う様だった。
もうどうにもならなかった。
私は二人の気分がその日いいことを願って生きているだけだった。
その日も二人の視界に入らない様に足音を立てず後ろについていき、ドアが閉められない様に急いで後ろに乗り込んだ。
後部座席のさらに後ろにある小さな座席に潜り込もうとしたが、それが鬱陶しかったのかお母さんは私を自身の横に縛りつけた。
初めの方は比較的穏やかに過ごせた。
だが、次第に雲行きは怪しくなっていった。
始まりは私の言葉だった。
「きもちわるい…」
「あ?」
「…う」
その日のお父さんの運転は若干怪しかった。
今思えば、最初に飲んでいたものは酒だったのだろう。
少々荒い運転は私の三半規管を崩すのに大した時間を要さなかった。
「うぇ…う…ぅぇぇ」
「こいつっ!」
「あん?」
「こいつ吐きやがった!」
「はぁ!?」
「クソがっ!そうやって!私に迷惑ばっか!」
「ぅ…ごめんなさっ…ごめんなさいっ…ぅぅ」
お母さんは吐いて俯く私の背中を転がっていたビール瓶で滅多打ちにした。
車内は饐えた匂いで充満し、お母さんは半狂乱になった。
ヒステリックな叫び声にさらにお父さんが共鳴し、酔っているせいか言葉も過激になっていった。
二人は言い争いを始め、私をダシにして口論はヒートアップしていった。
そしてその時は起こった。
お母さんが後ろからお父さんの首を絞め、お父さんはそれに抵抗しようとハンドルから手を離した。
そのままお父さんはハンドルを足場に後ろに乗り込もうとし、足蹴にされたハンドルは反抗するかの様に車を思いっきり左に逸らした。
そして私たちを迎え入れたのは衝撃だった。
壁が急速に迫り、全てが暗転して、そして気づけば私は世界から取り残されていた。
車はひしゃげて止まり、口論をしていた二人は寸前の言葉のままで固まっていた。
そしてなぜか、私は体から抜け出てしまっていた。
…。
…ここに帰ってくるのは大体2年ぶりだった。
目を瞑っている私の体を避けつつ、固まったままのお母さんの口を覗き込む。
今回帰ってきたのはお母さんの最期の言葉を確認するためだった。
この世界は止まってはいるが、それは完全じゃない。
年単位で待てば言葉を認識することも可能だった。
お父さんは死ぬ時まで目を見開いて固まっていたから言葉を認識することはできなかったが、お母さんは年単位で見てみると確かに何かを話している事がわかった。
これまで何年かにわたり、私はどうにかお母さんの言葉を読み取ろうとしてきた。
今確認できている言葉は八文字目。
そして、これがおそらく最後になるのは、お母さんの目の前に飛来しているひしゃげた鉄板の先端を見れば明らかだろう。
…別に何かを期待しているわけじゃない。
お母さんはお父さんと口論の最中だったし、いきなり最期のものが何か意味のある言葉に変わるなんて考えてるわけじゃない。
只知りたいだけだった。
私には大して愛情を持てなかったのかもしれないが、それでも彼女は私のお母さんだった。
少しでもお母さんのことを知りたいだけだったのだ。
「…。」
なんとなく唇の位置と舌ベロの形で母音を判別できる。
これによって8文字分の単語を獲得する事ができた。
ここから、なんとなくでその単語を類推する。
…
……
………
…………
……………
…母親の言葉はどう足掻いても暴言以外の何かに変わることはなかった。
…まぁ知ってたことだ。
…わかってた。
…。
車から抜け出し、少し歩く。
何年も前から変わらない配置の雲の隙間から、相変わらず月が半分だけ見えている。
霧雨は3駅手前の時点で止んでいた。
かなり前にあらかた見て回ったおかげでここら辺の地図は完全に把握できている。
もう数分歩けば公園に行けるはずだ。
…。
まだそこまで夜がふけていないからか、たどり着いた公園には人一人いなかった。
草木に足をやられない様に慎重に歩き、真ん中あたりにあるブランコに座った。
ブランコは私が座ろうとも変わりない形状で固着し、ベンチと大して変わらない座り心地を私に提供した。
…私は二人に何を求めていたんだろうか。
優しさ?
愛情?
少なくとも二人は私のことが好きではなかったんだろうが、私はまだ二人のことが好きなつもりだった。
心うちに巣食う恐怖感も、たまの笑顔があれば忘れられた。
好きだった。
好きだった…けど。
何かが急速に冷え込んでいくのを感じる。
私の心を中心に周囲の気温が一段下がる。
と。
「寒。」
一陣の風が吹いた。
それに共鳴する様に草木がざわめき、同時に風に煽られた私がブランコごと揺れた。
「…!」
それと同時に、何か遠くで轟音が鳴り響いた。
しばらくしてパトカーのサイレンの音も鳴り出したが、それはより強く吹いた北風にかき消された。
もう冬が来るのだろう。
鼻がむずつく。
「ーっくしゅんっ」
…
誰もいない公園で、揺れるブランコだけがあった。