浦島太郎はどう生きるか
起こったことを理解するのに時間はかからなかった。体は突如軋みを上げ始め、髪は伸び、視界はぼやけ焦点を見失った。何が起こったのかはだいたい予想できた。それでも確信を求め、玉手箱に顔を近づける。玉手箱を覆っている漆の光沢の中に、自分の姿を見ようとしたのだ。それは暗闇に灯る一つのろうそくのようなものだったが、自分が何者であるかを分からせるのに、それは明るすぎた。その姿は自分が人生の大部分を、失ったことを示していた。長い、長い時間。酸いも甘いも経験するにはもう遅すぎる。全ては灰燼に帰してしまったのだ。
もう戻ることのない悠久の時に思いを馳せ、一人の老人は人生の持つ意味について考えた。
かつて自分が暮らし、自分を作った村は無くなっていた。代わりに浦島は巨大な壁を見た。その壁は至るところに乱立し、その合間を縫って多くの人が歩いていた。その光景は彼の視野をはみ出しどこまでも続いていた。
しばらくその場に立ちつくしていると、その壁が何なのか分かった気がした。人が出たり入ったりしていることから、家のようなものだと浦島は思った。でも、それ以上知ろうとは思わなかった。この世界の生活がどう変わり、世の中がどう回っているのか。彼には分かっていた。知ったところで、合わせようとしたところで、何も変わりはしない。
立ち尽くし壁を眺めているとき、何人かの人が浦島を通り過ぎて行った。その人の多くは浦島を見ると驚き、困惑を顔に浮かべた。足を止め、浦島に手を貸そうという者は現れない。彼はその様子を横目で見ながら、自分が海に浮かぶ孤島のようなものだと感じた。少し前まで潮は確かに引いていて、人と人のつながりは存在していた。しかし彼の知らぬところで潮は満ち、長い夜が訪れ世界を包んだ。
それから浦島はしばらく辺りを歩いたが、居心地が悪くなり、自然と足取りは海に向かっていた。さえぎるもののない風は体を突き刺したが、ここ以外に行く場所を彼は知らない。砂浜に座り彼は思い出に浸った。それは彼に安らぎを与え、この世界に留まらせる重りの役目を果たした。村でのこと、そして竜宮城での日々、そんなことを彼は思い出していた。
浦島には妹がいた。年はいくつか離れていたが、自分をよく慕ってくれた。妹はこの世界に生きているだろうか、そうだとしたら順応できているだろうか、時代の流れに振り落とされることなく。自分のように取り残されていてほしくはなかった。
次に父と母の深い愛情を彼は思い出す。無償の愛。もう感じることの出来ないその温もりが時間を超えて、浦島を暖める。竜宮城での多幸感を煮詰めたような日々も、同じように彼を暖めた。砂浜には浦島一人、海岸線に人の姿はない。不思議と寒さは感じなかった。
浦島は長い時間を砂浜で過ごしたが、時々町の中にあるひらけた場所に行った。その場所は町のどの場所とも雰囲気が異なり、そこでは草や木が自由に生えていた。自由なのは人も同じで、人々は思い思いの時間を過ごしている。彼らを眺めていると、だんだんその姿が村にいた人々と重なった。そうなると毎回浦島は、暖かい懐かしさ、冷たい喪失感を感じる。その二つが混ざりあい常温になることはなく、痛みを伴ったが、彼にはそれすらも心地よかった。
定期的にその場所では食料が配られる。そのか細い糸に浦島は生かされていた。服と呼ぶにはお粗末なものを身に着けた人たちが、そこには集まってくる。洗われず、生えているだけの髪の毛は無骨で、反骨心を感じさせる。そんな人達に浦島は、親近感を抱かずにはいられなかった。自分と同じだ、彼らも時代の流れに乗ることが出来なかったのだと、浦島は思った。責めることはできない。話したかった。自分も同じだと、そう言いたかった。でもそれを肉体の衰えは許さなかった。肉体は失った時間を体現し、声帯は音を灯すことを忘れていた。喉元まで上った言葉は行き場所を失い、腹の底に落ちていった。
それはやけに風の強い日のことだった。いつものように浦島が食料を求めに行くと、どこか様子が違っていた。あるべき所にあるべきものがなく、世界のルールが変わってしまった気がした。その日はやけに人が少なく、いつもの光景が見られなかった。その光景は、嵐の前の静けさを感じさせた。それでも、木が合わさり屋根のようになっている端の所には、変わらず営みを続ける自分と同じ人々の姿があった。私たちのことなど、とるに足りないもので、静かでちんけなものだと、そう言われた気がした。
しばらくすると数人の男がやって来た。どうやら私たちに用があって来たらしい。一人の男が集団を離れ浦島の所に歩いてきた。男の足取りはとても奇妙なものだった。歩幅は狂いなく一定で、手足は筋肉のゆるみを許すことなくまっすぐだった。その姿は浦島がまだ幼い頃、父と母につれていってもらった、人形劇の人形みたいだった。男は器でしかなく、別の存在がすべてを支配しているのだ。
上から君たちを追い出せと、指示があったことを彼は告げた。だから出て行ってほしい。そう告げる男の顔は能面のようで、表情は固定され、眼に光はなかった。失った光は別のなにかを見ることに使っていて、それを過去だと浦島は思った。男や浦島を通り過ぎていったすべての人達は流れに乗らず、逆らわず、運ばれた。過去の思い出、楽しかった記憶をその手にたずさえて。遠ざかっていく過去の眩しい記憶に、思いをめぐらせている。
もうこの世界は誰の意思も借りることなく、一人で動き出していた。船頭を失った船がどこに向かうのか浦島の知るところではなかった。
追い出された浦島に残っている場所は一つしかなかった。そこに戻る道中、妹がこの時代に生き結婚しているなら、相手は同じ村の人だと良いなと思った。もしかしたら、亀をいじめていた少年たちの中の一人かもしれない。二人は過去の記憶に、思いをめぐらせる。人々の営み、季節の移ろい、つつましくも暖かい食事、そうした時二人の記憶が重なれば、それは意味を持ち、実体を起こし、かすかな香りぐらいなら感じさせるだろう。
よく晴れた日の海の香りを浦島は思い出す。風に乗り運ばれ、鼻を抜ける潮の香り。村の人が嫌っていたその匂いが、浦島は好きだった。亀を助けたあの晴れた日も、海はとてもいい香りをしていた。
海の匂いが浦島の鼻をつついた。その匂いがよくないことの前触れであることを彼は知っている。そして、その予感はすぐに的中する。風が強くなり、雨が降って来た。雨は激しくなり、風は音をたて勢いを増し、浦島の伸びきった髪の毛を浮かせた。でも彼はその場を動こうとはしなかった。もう準備はできていた。
波は高くなり、浦島と海の距離をじりじりと縮めていく。それを眺めながら、海と一つになるのを彼はじっと待っていた。目を閉じると瞼の裏に乙姫がいた。彼女はあの頃のままでとてもきれいだった。そして細く柔らかい腕を使い、浦島を抱きしめた。
波が浦島の体をすっぽり覆い、海の中に引きずり込んだ。
全身が傷み、空気は失われていった。薄れていく意識の中で浦島は家族、そして乙姫に会った。声を出し感謝を伝えたかった。君のくれた玉手箱は、過去をくすませることなく、きれいな状態で僕に届けてくれた。透明なガラス玉みたいな過去を抱え、僕はしあわせだったと。
その時奇跡が起こった。浦島の体に入り込んだ水、その流れが浦島の声帯を揺らし、最後の音を灯させた。
「……ありがとう、玉手箱をありがとう」
その声は風に乗り、誰かの耳に届くことはなかった。でもその声は水の流れに乗り、誰かの耳に届いたかもしれない。
亀が一匹いた。近くには町がある。その町は全てを町の中に抱え込み、外にはき出すことをしなかった。
亀をいじめる子供も、それを助ける人も、もう現れなかった。
読んで頂きありがとうございます。
面白い小説を書くために、アドバイスお願いします。