ボケたよりひどい
初めて訪れたときに、うっそうとした印象だった庭は、今の季節は緑も少なく、さっぱりとした様子になっている。
なるほど。母屋に半分ほど背をみせた真新しいお社が、池のはたに建っている。
鳥居はまだない。
池を、ぐるりとまわり、庵が近付いていったとき、それが、聞こえた。
「―― そうかい。・・・ないねえ・・」
「――――」隠居の声だった。思わず足をとめ、うかがえば、それ以上は何もきこえない。
気をとりなおし、自分がいつも入る、裏にあたる出入り口をめざし、脇にある小道へ入ったとき、がさり、と下生えの茂みに飛び込む影があった。
一瞬だけ見えた、黒い、体。
「・・猫か・・」
「なんだ、ヒコ、来たのかい?」隠居の声に、ここにいる言い訳を思い出す。
「ああ、・・一条のお坊ちゃまが、これを届けろってよ」
裏口からはいり込めば、隠居は縁側を開け放ち、碁盤を出していた。
「ほお。ヒコはまだ見捨てられてないかい? ――いい友をもって心強いだろ?」
「だ、れ、が、『友』だよ?」
「ぼんやりした坊ちゃんだが、母親似で芯が強そうだ。気が合うだろう?」
「・・・ったく。人の話聞かねえのは前からだけどよ、あんまりこうひどいと、ボケたのかとおれも疑いたくなっちまわあ」
隠居はがさついた笑いをあげ、そうか噂になってるか、と碁石を置く。
「――じいさん、なんかたくらんでんのかい?」
「・・・まさか。あたしもそう、ながくはないけど、のぞむは静かで穏やかな、泰平無事な暮らしだよ。それより、松庵堂の包みってことは、草もちか?」
じゃあ茶をいれるかい、と立ち上がる年寄りは、前に会ったときと同じしっかりとした喋りと動きで、ボケのボの字もみえない。
――この男が、本当に自分の命を狙っているのかなどと、あの気の弱そうな息子に詰め寄るだろうか?
草もちを手に庭をながめ、次は桜餅をもってこいという年寄りと、ふいに目があった。
「――なんだい。聞きたいことがあるなら、はっきり聞けばいいだろうに」
「・・・じいさん、さっき・・、ひとりごと、しゃべってたろ?」
「・・・ひとりごと、じゃあ、ないんだがねえ・・」
困ったような顔をして、隠居は餅を食って首をかたむける。
「じゃあ、誰かいたのかい?」
まさか、と思って顔をよく見る。ゆっくりと目を合わせたまま味わう年寄は、飲み下し、お茶で口を流してから、こたえた。
「――うん、うまい草もちだ。いいかい?ひとりごとってのは、ひとりでこぼすものだろう?あたしの場合、ひとりじゃないから、そう、よばない」
ヒコイチが反論する前に、年よりは言い切った。
「乾物屋のカンジュウロウが、いたんだよ。どうも、あの慌てもの、仏さんになれなかったらしくてねえ。四十九日がすぎてから、ちょくちょくやってくるようになった。こちらもひまだから相手してやってたんだが、どうにもそれで、ボケたと思われてるらしいなあ」
「・・・・じいさん、そりゃ、・・・ボケたよりひでえ・・」
呆然としたヒコイチの言葉に大笑いした隠居は、そこからなにをどう諭してみても、『ほんとのことなんだからしかたない』と、その、話を冗談にすることはなかった。