観念する
その猫が、割れたひどい声で、しゃべる、 『それ』 を、おさまりきらないように、口からのぞかせていた。
「 ――― ・・・っな・・んで・・」
猫の、ひらきっぱなしの口の《中》からは、どこかでみた、ヒトの口がはみだしている。
はみだした唇は分厚く、魚のように突き出ていて、それに血の通う色はない。紫というよりも、黒に近い。
「いや、実はな、このカンジュウロウが、今度のことをいろいろと心配して、教えてくれたのさ。 ―― セイイチの腹に溜め込んだものとか、食べちゃいけない佃煮のこととかねえ。祠のことも、すすめてくれてね」
セイベイは、いつものように、縁側での茶のみばなしのように言う。
ヒコイチは気付いた。
黒猫の、ガラスのような金色の眼が、 ―― 生きてはいないのを。
きれいなそれは、動かない。まるで、ガラスを埋め込んだように、死んでいる。
『 まあ、これから先も、大事にしろよ 』
その、動く骸からのぞく、死人の口が、ヒコイチに命じた。
滑稽だ。
いや、滑稽なはずだ。なのに、 ―――鳥肌しか、たたない。
開いた猫の口に歯は見えない。ただ、その人の口だけが、めいっぱい、そこからのぞいて言葉を発する。
―― ヒコイチのことを気にかけた言葉を。
「 ――・・・そのまま、猫はどっかいっちまった。じじいとは、なに話したかも覚えてねえ。いつ戻ったかも、よくわかんねえ。・・で、頭は痛くて寒気はおさまらねえで、五日寝込んだ」
「その合間に、セイベイさんが?」
「ああ。『あれは、忘れろ』なんて言いにきやがった」
無理だ。絶対に。
困ったことに、あれから、猫と、夜が、怖くなった。
乾物屋は、何もしない。それは、わかっている。
わかっているが、 ――怖いのだ。
きっと、大笑いするだろうと思った坊ちゃまの笑い声が響かない。
ふいに、背中に重いものがのっかった。
「それ、買います。できればもっと、材料があるといいなあ。成仏できるまで、観察、というか、ずっと追い回してくださいよ。あ、成仏する瞬間とか、絶対に逃したくないなあ。あ、それと ――」
耳元で楽しそうに続く注文を聞き終わったら、今度こそ、絶対に、絶対に殴ってやろうと心に誓う。
ところが、注文を続ける中、突然お坊ちゃまが女のように甘える声をだした。
「 ―― ああ、ヒコさん。そういえば桜ももう、終わっちゃいますよ。さっさと殴ってもらって、花見に行きたいんですけど?」
うしろからのぞくお坊ちゃまの眼も、ガラス玉みたいだと考えるが、あの猫とはちがう。
「・・・あんた、おれに船漕がせる気でしょ?」
「きれいどころも呼びますよ。さあ、早く」
「もお、いいです。殴る気も失せやした」
「そうですか?じゃあ、花見、行きましょう」
「・・・・ろくでもねえ・・」
「なんですか?」
「いや、べつに。お坊ちゃま、どいてくださいよ。観念してお供しやしょう」
自分にはわからない《心の動き》が、この世の中には多くあって、それはこの世の中のどこにでもあるのかもしれない。
自分がしらないだけで、きっと、あの、乾物屋の『入った』黒猫みたいな存在も。
「とりあえず、桜の散りぎわでも見届けますかい」
桜の花びらを見送り、それについてすこし、考えることにしようか ―――。
目をとめてくださった方、最後までおつきあいいただいた方、ありがとうございました! このはなしはここまでとなりますが、ほかのヒコイチのはなしにも目をとめていただけると、うれしいです




