上客
段々と沈むこちらの気も察することなく、お坊ちゃまは、表へとまわりなおして『とめや』と染められた店の暖簾をくぐり、慣れた様子で挨拶をした。
大番頭はじめ、店のものが一様に立ち上がり、男を迎える。
オマケのようにひかえたヒコイチは、ここで帰りたかった。
若旦那の息子とは、普段会っても、話はしない。その息子が、いちばんに薄ら笑いを浮かべ、こちらに寄ってくるのがなんとも嫌だった。
「これはこれは、一条様」
隠居の紹介で訪れた男のことは、既に調べてあるのだろう。明らかに上客とふんだ対応だ。
革の履物をぬいであがった洋装の男の帽子と外套を、女中に渡し、呉服屋の若旦那は、自分と同じほどの歳の男を、馬鹿丁寧に奥へと案内し、上座に通した。
「わあ、ここに来るのは久しぶりだなあ」
広い部屋を見回して、お坊ちゃまは部屋に入ろうとしないヒコイチをまねく。
「ほら、この床の間の傷。実は、ぼくがつけちゃったんです」
床柱の低い位置にある、確かめないと見えないほどの跡を、男はしめした。
父に買ってもらった十徳ナイフをためしたくてねえ、と語る男が、やはり子どものころからろくでもねえ、と考えたヒコイチはやぶにらみすることで答える。
「この傷、セイイチさんが疑われなかったですか?」
笑って聞かれた若旦那の、白い顔が硬くなった。
「―― わたくしは、十七になるまで、この部屋に入ることを許されませんでしたので」
その返事に、この親子の今までの関係全てがしるされているようだと、ヒコイチは小さく息を継いだ。
なのに、お坊ちゃまは、ああそうですか、と軽く笑い、それは良かったとまで付け足した。
にらんでいたヒコイチと眼があった男は、そうそう着物、と思い出したかのように突然、織物の名を口にし、色味を指定して、本当に着物をあつらえる意向を伝えだす。
あっという間に、反物が運ばれ、女同士の会話のような、男二人の慎重なやりとりがはじまった。
着物など、木綿のものが数枚と、ドテラがあればじゅうぶんと思うヒコイチに、その光景は理解できない。
だいいち、普段洋装のお坊ちゃまが着物を着ているのなど、見たことがない。
結局、なんだか渋い色の反物を二反選び、話はついたようだ。
部屋の隅でひまをもてあまして待つヒコイチは、閉めきりだった障子をあけて、庭を眺めた。
―― 整えられた木々と、小山と、橋のかかる、広い、池。
隠居の庵は、右手の小山、もみじの向こうにある。椿もしげった小山の奥にあるそれは、この母屋からは切り離されたような場所で、ひょうたんのような形の池も、いっけん、こちらと続いているとはわからない。
左手の、母屋を見守るような位置に、古いが立派なおいなりさんがあって、ここからは見えない、あのツツジやらマキの木がみっしりと植えられたそのむこうに、例の、お社にならないらしい、祠が建っている。




