うわさ
西堀の隠居がボケたという噂がたったのは、暖かい風が強くなったころ。そろそろ桜もほころび始めた、季節の変わり目だった。
「――まあ、ずいぶんといいお歳ですしねえ」
「長生きしすぎだぜ。ありゃあ。息子は早いとこイッてくれって願掛けしてんじゃねえのか?」
「・・・ヒコさん、言いすぎですよ?お友達でしょう?」
「だあ~れが」
出された草餅に、かぶりついた。
何度来ても、この家の洋間ってのは落ち着かないと、尻も浮くような感触の布張りの椅子の上、着物の裾をからげたヒコイチは、胡坐をかく。
淹れたお茶を、ご丁寧に茶托つきで出したこの家の若い当主は、そういえば、と、自分用の湯飲みを両手で包み、思い起こすように眼を動かした。
「昨年、でしたかねえ。ご隠居のお友達、乾物屋の大旦那が亡くなったのって」
「ああ、乾物屋な」たしかにそうだ。「―― あんときゃ、じいさん、かなり気落ちしちまって、普段は声もかけねえ息子が、おれのこと呼んだぐらいだったなあ・・」
「ほら。いい息子さんじゃないですか」
「そうよ。だからな、本当はおれのことなんざ、呼ぶ必要なかったのよ」
「いやいや。ヒコさんは、お友達だから呼ばれたんですよ」
「じじいの暇つぶしの相手させられるのを、『お友達』っていうのかよ?」
「だって、お金、もらってないでしょう?」
「そりゃ、あれよ。商売物をしっかりと売りつけてから、相手してやんだ。むこうだって、金払って相手させてるって、考えるだろよ」
ほおばった草もちをお茶で流し込めば、おもしろそうな顔で腕を組んだ男が、ぼくは違うと思うなあ、などとにやける。
「だって、ヒコさんが売るものって、季節によって違うし、金魚みたいな生物から、七味とかの薬味までで、ご隠居が必ずしも欲しいものじゃないと思いますよ。なのに、それらを買ってまで、ヒコさんを呼びたいってことは、――いいかえれば、ヒコさんと絶対に遊びたいってことでしょう?」
「・・・あれは、そんなにかわいげのある隠居じゃねえぜえ」
いいたいことは包み隠さず口にし、遠慮もない。
家人でさえ、隠居の住まう離れには、用事がなければ顔もださないのだ。
むかいで、新しい茶を急須に足す男が、嬉しそうに何度もうなずく。
「そうそう。そういう方だからこそ、ですよ。――本当は、ご自分の息子さんとも、もっと良い関係になりたいと思ってらっしゃるのかもしれない。それができないから、ヒコさんみたいな、見かけも中身も正反対の、何の因果もない男を選んだのかもしれない。ああ、これ、いいなあ。次の作品にいかせそうだなあ・・」
「どうでもいいけどよう。おれだけじゃこんなに食いきれねえぜ。――お坊ちゃま」
皿に積まれたそれとは別に、まだ紙に包まれたままの草色の甘物を睨んでみせる。さあどうぞ、とすすめた『お坊ちゃま』は、いまだひとつにも手をつけない。
「それとも、例の作家先生方の集りへ手土産ですかい?」
さきほど、ちらりとこぼしたようにこの『お坊ちゃま』、金と時間をもてあましているもんだから、なにやら文筆活動なるものをしていらっしゃる。
同じようなことをしている人間が集まり、『同志』と称して月に何度か集まり、互いの書いたものを批評しあったり、外国の本をまわし読みしたり、たまに自分達で本を作ってみたり。―― が、いまだ、そのうちの一人も、ちゃんとした出版社から声がかかったこはなく、『同志』とよぶ他の人間が、あきれるほど金がないのを知っているこのお人よしは、そいつらのパトロンもしている。
―― なんの得もないだろうに。
呆れた目をむけるこちらへ、相手は見開いた目をむけてきた。
「――だって、女性はみな、これぐらいぺろりと召し上がりますよ。手土産も無しで話を聞こうなんて、そりゃヒコさん、無粋な前に、『世の中、なめてますよ』」
「・・・・」
その言葉は、自分が毎度この世間知らずな男に投げつけてやるものだ。
「きっと、『お友達』のヒコさんなら、気になって様子を見にいくだろうなあと思ってですねえ。お昼前に、松庵堂に買いに行っておいたわけです」
それとも、洋風の珍しい菓子のほうが良かったかなあ、と、力仕事などしたこともない女のような手が、ひょいと草もちをつかみ口へ運んだ。
「っていうと・・・なにかい?このおれに、西堀のじいさんがボケたかどうか、確かめて来いって?」
「気になるでしょう?なにしろ、松庵堂に来るおかみさんどうしのおしゃべりにも、ご隠居のことが出てくるんですから」
「・・・そんなに、ひろまってますかい?」
なんだかすまなさそうに、草もちを食う男はうなずいた。
「うん・・。うちも母がいた頃は西堀の呉服屋さんと付き合いもあったけど、すっかり疎遠になっちゃったし、息子さんはあまりよく知らないんだよね。―― だけど、あのご隠居のことはよく覚えているよ」
母親の影に隠れていると、男らしくしろと怒られたという話を坊ちゃまは披露した。
「でもさ、悪い人じゃないよ。ヒコさんが、いちばん良く知ってるだろうけど。あんな、噂みたいに『ばち』が当たってボケただなんて、絶対ない」
「・・・いっつも思うんですが、あんたのその思い込み、どうしてそんなに自信持って言い切れるんですかね・・・」
「はずれたことないから」
「・・・・・・」
―― いつか、絶対にはずれて、一度、痛い目をみますように。
「とにかく、これはヒコさんのお友達の、沽券にかかわる一大事ですよ」
「だあーれが『おともだち』だよ。あんなじじい」
「いつもより、高値で買い取ります」
「・・・・ふん」
そうなのだ。この酔狂なお坊ちゃまは、作品の題材にするとかで、売り歩きを生業としているこちらから、あちこちで聞き及んだおもしろい話を、買い取ってくれるのだ。
口端をあげててみせれば、「はい」と菓子の包みが押し出される。
「ほんとは気になってたでしょう?」
「あんたがこの噂に喰い付くのを待ってたのさ」
「はいはい。そういうことにしておきますよ」
まるで古女房のように受け流す男に、淹れなおしたお茶を渡された。