薫にあった日
空があまりにも青く澄んでいたせいだ。
長く休みを取る前に一度会社に行かなければと鈍い頭で思い、なんとかスーツに身を包み、眉をひそめる妻から顔を背け、家を出た。それなのに、駅に向かっていた足は迷子になったかのように止まってしまった。この先の交差点を右に曲がり、ゆるやかな坂をくだりきれば駅に着く。五分もかからない道程。頭ではわかっているのに歩みを進めることが出来なくなっていた。
空が目に沁みるほど青かったから。
忙しなく駅に向かう人々の流れの一部になり満員電車に身を捻り込み、埃っぽい会社で一日を過ごす。毎日している、朝受けた報せから逃げてまでしなければと思ったことなのに、堪らなく嫌になってしまった。けれど家に帰れば、帰省の準備をしなければいけない。親戚への連絡、役所への届出、寺への手配……これからすべきことが頭に浮かんでは泡のように消えてゆく。
覚悟はしていた。
この冬、年を越せるかわからない。母からも医者からも潔く告げられていた。だから覚悟はしていたのだ。それなのに、いざその報せを受けたら、頭は考えることを否定し、胸はこれ以上ないくらい震えた。
ただ、ただ今は、一人になりたかった。何も考えたくなかった。
ふと気がつくと絵の前に立っていた。ゆったりと首を巡らせてみる。照明が絞られた薄暗く天井の高い部屋にいた。他の人の姿はなく、話し声や足音も聞こえない。
私は美術館にいるのかと、絵を眺めながら夢の中にいるかのように理解した。
一人になれる静かなところを求めて辿り着いたらしい。たしかに物音ひとつせず、ひっそりとしていた。
深く息を吐く。
ぼんやりと絵を眺めながらふらりと足を進める。疲れを感じたら所々に設置してあるソファに腰かけ、瞼を閉ざして闇に身を沈める。そしてまたゆったりと絵を見て歩く。
どんなに美しい絵でも迫力のある絵でも、目にした瞬間は感情が動かされるような気がしたが、記憶には残らず小川のようにさらさらと流れていってしまう。絵を見るために見ているのではなく、現実から目をそらすために見ているのだ。
二つ目の展示室で初めて人の姿を見かけた。三つ先の絵の前に若い男がいた。暖かな色の照明を弾く張りのある肌は健康的で、淡い茶色の髪が不思議とよく似合っている。若い横顔は高校生くらいに見えた。絵に向かう細身の背がすっとのびている。美しい立ち姿だった。
少年から目を逸らし絵に向き直る。豊かな自然が幻想的にしかしどこか妖しく描かれた絵がいくつか続き、先ほど少年がいた絵の前に立つ。
それは、静けさに満ちた絵だった。
屋根が連なり並ぶ街に雪が降り、薄く積もっている。散る白は羽のように軽い。夕の暮れかけか、夜明け前の早朝か。街は薄暗く、透明な青の中に沈んでいる。その絵は雪の日の静けさと凍てつく空気を思わせた。
――なぁ、豊。
声がした。記憶の声が頭の中に響く。幼い頃に見上げた広い背中。父の横顔。その先にある風景。降る白。降ってくる父の声。瞼を閉ざすと、遠く深くに仕舞ってあった幼い頃の思い出が唐突に、鮮明に蘇ってきた。
もう見ることの叶わぬ背中。もう聞くことのできない声。もう、会えない。
ああ。ああ。父さん。
震える口に震える手をあてる。脚から力が抜け、上半身を俯けながら数歩後ろによろめいてしまう。低い唸り声が喉から零れた。
「だいじょうぶですか」
涼やかな声とともに背中にそっと優しい手が添えられた。ゆっくり顔を上げると先ほどの少年が隣にいた。
「職員を呼びましょうか」
少年の声は低くはないが落ち着きをもち、耳に心地よかった。ぐらぐらと揺れる心を鎮めてくれるようだった。
「だいじょうぶです。座ってすこし休めば平気になると思います」
少年に背中を支えてもらいながら近くのソファに腰を下ろす。真っ直ぐ前にあの絵があった。太腿に肘をつき、手で顔を覆う。肺を空にするほど深く息を吐く。
少年はソファには座らず、けれど離れていこうともせず、横に立っていた。
「ご迷惑をおかけしました。申し訳ありません」
顔を上げると、少年は心配するような色を乗せた優しげな眼差しをこちらに向けていた。
「お気になさらないでください。それより、本当にだいじょうぶですか」
体調を崩したと思い心配してくれているのだろう。違うのだ。
「すこし、話を聞いていただけませんか……ああ、美術館ですから静かにしなければいけませんね」
「すこしくらいは良いでしょう。僕たちしかいないのですから」
少年は悪戯っぽい笑みを浮かべた。そうするとより幼くみえた。
「あの絵を」と言って顔を前に向ける。なぜ自分が語ろうとしているのか、よくわからなかった。それでも彼に聞いて欲しいと思った。
「あの絵を見ていたらふと思い出しました。
私が小学生の頃のある年明け、家族で旅行をしました。地元から車で二時間ほどの同じ県内の温泉地に一泊だけのささやかな旅行です。もう何十年も前のことです。ほとんどの記憶は薄れ、憶えておりません。けれどひとつだけ、記憶に焼きついている光景があるのです。
それは、二日目の朝のことでした。なぜ母と弟が一緒でなかったのか憶えていませんが、部屋から朝食が用意してある広間まで父と二人で向かっていました。深い臙脂色の絨毯が敷かれた長い廊下を、私は父の二三歩後ろを歩いていました。並んで歩くのは照れくさかったのでしょう。会話もありません。父は元来口数が少なく、表情も乏しく、何を考えているのかよくわからないような人でしたから。
廊下を歩いている途中、父がふと立ち止まり顔を横に向けて、何かをじっと見ていました。そちらは一面ガラス張りになっており、小さな中庭がありました。中庭には数本の樹が植えられており、冬なのに緑の葉をつけているものもありました。前の夜から続いていた雪が地面にも樹にも葉にも積もり、中庭は白に染まっていました。その時も雪は降っていました。音もなく、ただしんしんと。父はそれを見ていたのです。そして、唐突に言いました。
きれいだなぁ。なぁ、豊――と。
穏やかな声でした。顔を見ると、微かに笑っていました。父があのように直接的な言葉で考えていることを口にするのは滅多にありませんでした。それに父が生まれ育った地でも雪は降ります。けれど雪を好きだと言ったことはありませんでした。
父の口から「きれい」という言葉が出たのがちょっと不思議で、父の気持ちを知れたことが嬉しくて、父がきれいと言った景色をいつまでも憶えておこうと私は思ったのです。
あの絵を見ていたら思い出したのです。似ても似つかぬ光景なのに。
今朝、父が亡くなりました。早朝に息を引き取ったと。薄情な息子です。死に目にも会わず、今だって会社に行こうと家を出てきたのです。最後に父に会ったのは二週間前でした。その時も碌に話しなどしませんでした。帰り際、父がぽつりと、身体に気をつけて仕事をがんばりなさいと言いました。私はまた来るとしか返せませんでした。もう父と言葉を交わすこともできません。雪を見ることも旅行に行くことも、もうなにひとつ、してあげられない…………ああ、ごめんなさい。もう何を言っているのやら、わからなくなってしまいました。私の話は終わりです。こんな話を聞いて下さってありがとうございます」
目頭は熱く、声は震えていたけれど、少年を見上げて視線を交えて礼を言う。少年は微笑んでひとつ頷いてくれた。
「この絵はどこの風景が、ご存知ですか」
ふと知りたくなり、尋ねてみる。
少年は思い出すように少し考えてから「京都です」と教えてくれた。
京都。京都か。
思わず声をだして笑っていた。少年が肩をびくりと震わせたのがわかった。
「驚かせてしまいましたね。すみません。いえね、先ほどお話しした旅行先と私の故郷は東北、岩手なのです。京都とは程遠い。雪はどこでもきれいなものなのですね」
少年は絵へ視線を向けてくすりと笑い、「そのようですね」と言った。それから唐突に、父が最期を過ごした地を尋ねてきた。父は家の近くの病院で息を引きとった。そう答えると、少年はひとつ頷いて携帯電話をいじり始めたが、すぐに「うん、やっぱり」と呟き、何かを考えるように瞼を数秒閉ざしてから、顔をこちらに向けた。
「昨夜から岩手では全域で雪が降っていました。今も降っているようです。これは僕の勝手な想像ですけれど――――」
少年が降らせてくれる涼やかな声の優しい思いに堪らなくなる。
瞼を閉ざすと、涙が落ちた。
広い背中。穏やかな横顔。優しく呼ぶ声。
きれいだなぁ。なぁ、豊。
そうだね、父さん。きっと今朝も――。
「私もそう思いたい」
父はあの日のようにきれいな雪を見ながら眠りにつけたのだろう。
了