モクメサン
ありがとうありがとうと言いながら祖母は死んでいった。
「大丈夫、お母さん」
「……え?」
隣で正座した母が、夢から覚めたように瞬きする。
昨夜からずっとこの調子だ。彩名は心配になる。
「お焼香。一番最初は喪主でしょ」
「あ、ああ、そうだったわね」
しっかりしてよ。
喉元まで出かけた小言を飲みこんだのは罪悪感のせいだ。
「…………」
親不孝な自覚はある。
何せ数年実家に帰らず、祖母の介護を母1人に押し付けていた。
仕事が忙しいなんて言い訳だ。月並みな表現だが、彩名の代わりなどいくらでもいる。
消化してない有給もたまっているし、時間を作って帰省するのは決して難しい話じゃなかったのに、あえてそれをしなかったのだ。
理由は一言、煩わしいからに尽きる。
母には何度も帰ってこいと催促されたが、彩名はそれを無視し続けた。
実家に帰るのは面倒くさい、祖母の介護を手伝わされるのが面倒くさい、結婚や子供を催促されるのも全部全部面倒くさい。
「さ、お母さん」
さりげなく母を支えて送り出す。
覚束ない足取りでお焼香を済ませた母が、帰り際にちらりと棺桶を覗きこむ。
その目が怯えたように見開かれた。
え?
唐突な表情の変化が気になりはしたものの、一回り萎んで帰ってきた母に追及するのは憚られた。
次は彩名の番だ。
母と入れ代わりに座布団を立ち、祖母の顔を見に行く。棺桶の中の祖母は安らいで見えた。
ごめんねおばあちゃん、会いに来れなくて。
心の中でも手を合わせて詫びる。
祖母には可愛がってもらったのに、認知症で倒れてから死ぬまで、2・3度しか顔を見せに戻らなかった。
月に1度電話をかけてくる母に、「おばあちゃんが会いたがってる」と言われても知らんぷりを決めこんだ。認知症の年寄りの相手なんてしたくないのが本音だった。
身内に冷たいだろうか。
でもみんな本当はそう思ってる。
彩名は要領のいい子どもだった。昔から嫌な事は他人に押し付け、逃げるのが得意だった。
実家に戻ったらこれ幸いと祖母の世話をさせられるに違いない、そんなのごめんだ。
最近では孫が祖父母の介護をするケースも増えているらしいが、彩名に言わせればそんなのニートの建前だ。
とっくに成人してるにもかかわらず、定職に就けない子どもが家にいるのを正当化する為に介護をまかせているに違いない。
もしくは、まともな仕事に預かれない社会不適合者を介護人の建前で養っているのか。
我知らず苦笑し、棺桶の内を覗き込んで―
ぎょっとする。
祖母の首元に黒ずんだ痣を見た気がしたからだ。
そんなものない。目の錯覚だ。慌てて自分に言い聞か、せっかちに瞬きする。
後方に座る参列者の囁きが、墨汁が広がるように畳を伝わってくる。
「ほらあれよ、神崎さんとこの娘さん」
「東京で働いてる?」
「もう30過ぎてるのよね。結婚はまだでしょ?お付き合いしてる人はいるのかしら」
「昔はおばあちゃん子だったのにねえ……」
「襟子さん随分寂しがってたわよね、たった1人の娘が遠くに行っちゃって」
「旦那さんを早くに亡くされて、ずっと姑さんの面倒を見てきたんだものね」
「せめて近くに住んであげてたら……」
焼香を終えて帰る時は俯いて、なるべく周囲を見ないようにした。見てしまえばきっと後悔する、ご近所さんの白い目に耐えられない、この場で叫び出して葬儀をぶち壊してしまいかねない。
何も知らないくせに。
「ねえ聞いた、お姑さんの最期の言葉」
「ああそれね、ありがとうありがとうって言いながら死んでいったのよね?」
「襟子さんに?その場にいなかったんでしょ」
「ボケちゃってからねえ……わかんなかったんでしょ」
「襟子さんも部屋に戻る時に偶然聞いたってはなしだから……虚空にむかって独り言いってたんじゃないかしら」
「自分の事を最期まで見てくれた嫁に感謝しながら死ぬなんて、いい話ねェ」
「うちの姑にも見ならってほしいもんだわ」
「ちょっと、さすがに不謹慎よ」
祖母の遺言はご近所さんたちによって美談に仕立て上げられた。
座布団に膝を揃えて座るやいなや、彩名は複雑な面持ちになる。
祖母は母に感謝を述べながら死んだ。
感動的な話なのに、胸がざわめくのは何故なのか。
「うっ……」
突然、母が泣き崩れる。
葬儀中は放心状態だったのに、終わりにさしかかった頃合いにハンカチに顔を埋め、嗚咽をはじめた母に戸惑い、必死にその背をなでさする。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
誰に謝っているのか。
娘か祖母か。
彩名は胸が痛くなる。
「何でお母さんが謝るのよ、一生懸命やったじゃない。おばあちゃんだってありがとうって言いながら死んでいったんでしょ」
「ちがうのよ、そうじゃないの」
「ちがうって」
意味不明、支離滅裂だ。小声で宥める娘に首を振り、涙を吸ったハンカチを揉みしだく。
「ありがとうなんて言われる資格ないのよ、私」
祖母の葬儀を終えた彩名は東京にトンボ帰りした。
実家に母1人残していくのは正直抵抗を感じたが、他ならぬ母自身に「仕事があるんでしょ?」と促され、次の日には荷物をまとめていた。
母の態度は変によそよそしく感じられたが、正直有り難い。
地元にとどまっているとご近所の目が痛い。
ここでの彩名は30過ぎて結婚もせずにいる親不孝な娘で、さらには認知症の祖母を見捨てた酷い孫娘なのだ。事実なので否定はしないが、陰口を叩かれていい気分はしない。
「じゃあね。元気でね」
「ええ」
「何かあったら遠慮しないで電話してよ」
「わかってる。あんたも体には気を付けて」
「お母さんもね」
駅のホームで別れた母は面窶れし、どことなく祖母に似ていた。
子供の頃、彩名は祖母の部屋に入るのが怖かった。
『どうしたのあやちゃん、真っ青になって』
『天井におばけがいるの』
『あはは、あれはモクメの模様だよ。モクメの模様が人に見えたんだよ』
『モクメサン?』
幼い彩名は祖母が発した「モクメ」にあてる漢字がわからず、人の名前と勘違いした。
祖母の部屋は一階の和室。そこは仏間になっており、漆黒の仏壇が鎮座している。畳にはお線香と湿布の匂いが染み付いていた。
何故祖母がこの家で一番暗く寒い場所にいるのか、幼い彩名にはわからなかった。
『モクメサンはおばあちゃんの部屋の天井に住んでるの。ずっと前からいたの』
『そうだねえ……この家ができた頃からじゃないかな』
『彩名が赤ちゃんの頃から?』
『生まれる前からだろうね』
『すごい、大センパイだ』
どこで聞きかじったのか、彩名はモクメサンを先輩扱いした。愛称を付けて呼べば、不気味なシミにも親しみがわく。彩名が小さく手を振ると、モクメサンも手を振り返してくれた。
手を?
「……変な夢」
新幹線のシートで目を開けた彩名は、前の座席のポケットに入れたペットボトルを掴み、ぬるいお茶で咽喉を潤す。
子供の頃、確かに祖母の部屋でシミを見た。モクメサンに会った。
けれどどんなシミだったか、まるで思い出せない。
祖母の葬儀は庭に面した広い和室で行われたから、介護ベッドが押し込められた北側の仏間には、とうとう立ち入らずじまいだった。
「……モクメサン、まだいるのかな」
どんなだったか思い出せないけど。
おばあちゃん、ずうっとモクメサンとにらめっこしてたのかな。寝たきりで、仰向けで、他にすることなくて。
『ありがとうありがとうって言いながら死んでいったのよね』
誰に?
記憶の空隙が落ち着かない。何か大事なことを見落としている。彩名はペットボトルを額に押し当てた。
母が警察署に呼ばれたのは三日後の事だった。
「どうしてお母さんが」
東京のマンションの自室にて、スマホをとった彩名は愕然とする。
『それがね……言いにくいんだけどね……』
親戚が言葉を濁す。
祖母の次男の嫁、という微妙に疎遠な間柄のせいか会話がぎこちない。
『お義母さんの遺体に痣があったの』
「痣って」
祖母の首元にあったアレだろうか?ところが、親戚は思いがけぬことを言い出す。
『体中あちこちに、誰かに殴られたみたいな痣が』
「お母さんがおばあちゃんを虐待してたっていうんですか!」
期せずしてヒステリックな抗議が迸る。
「そんな痣があったら葬儀の時に気付くはずでしょ、経帷子を着せるときだって」
『経帷子を着せた葬儀屋さんから警察に連絡が行ったのよ、変だって』
「おばあちゃんは老衰のはず……」
『もちろんよ、誰も他殺なんて疑っちゃないわ。実際襟子さんはよくやってくれたし、誤解だってわかればすぐ帰ってこれるでしょ。ただ念のため……』
「あなた達は誰も手伝いにこなかったじゃない」
スマホにむかって怒鳴り散らす。
「面倒なことはみんなお母さんに押し付けて、みんなみんな知らんぷりで。なのに遺産の分与は真っ先に名乗り出て、恥ずかしいと思わないんですか。お通夜の晩に」
むっとする気配が伝わってきた。
『だったら言わせてもらいますけどね彩名ちゃん、アンタだって同罪、いいえ、共犯でしょ』
心臓が凍り付く。
「どういう意味ですか」
『お義母さんの事ずっと見て見ぬふりしてきたくせに、今さらいい子ぶるのはずるいって話よ。東京の仕事は順調?付き合ってる人はいるの?結婚は考えてる?もし予定がないなら地元に帰って手伝ったらよかったじゃない、若い子の方がよっぽど』
最後まで聞かずに叩き切る。
彩名は職場に休みの電話を入れ、すぐさま地元に帰った。
お母さんがおばあちゃんを虐待してたなんて嘘、絶対嘘。行きの新幹線の中で何度も祈り、そうあってほしいと念じる。認知症のお年寄りは頑固だ。
言うことを聞かせるために多少手荒なまねはしたかもしれない、だけど
『ごめんなさい、ごめんなさい』
お母さんは誰に、なんで謝っていたの?
おばちゃんはお礼を言ったのに。
答えを知りたい。知りたくない。矛盾した葛藤に引き裂かれ、彩名の心は千々に乱れる。
「お母さん、彩名よ。いるの?」
実家のインターホンを鳴らす。誰も出ない。母のスマホにかけても繋がらない。
得体の知れない胸騒ぎに支配され、スマホを握り締めて右往左往する。
ガラリと音が鳴った。
反射的に振り返る。隣家の一階の窓が開け放たれ、パジャマ姿の老人が突っ立っていた。ちょうど祖母が寝かされていた北川の仏間の対面だ。
彩名は庭伝いに回り込み、低い垣根越しに声をかける。
「ちょっといいですか。神崎の彩名です、この家に住んでる襟子の娘の」
隣家とは殆ど交流がない。子どもの頃に挨拶を交わした記憶がうっすらある程度だ。夫婦2人暮らしのはずだけど、祖母の葬式にも来ていたかどうか……
「母は帰ってきましたでしょうか。知ってたら教えてくれませんか」
離れて暮らす娘より、隣に住んでいる年寄りの方がまだ詳しいはず。
一縷の希望をかけて乞えば、老人がゆっくりと振り向く。
その顔を見た瞬間、彩名は悟った。
この人「も」認知症だ。祖母と同じ、それも末期の。
半開きの口からツ、と涎がたれ、食べこぼしの付いたパジャマを汚す。
祖母が寝かされていた仏間のちょうど正面、お隣さんも認知症だったなんて、偶然だろうか。
「馬鹿ね」
偶然じゃなければ何だというのか。
無理矢理自分を納得させる彩名を凝視、老人が口を開く。
「俺の番だぁ」
「は?」
痩せ細った指が宙を滑り、生前祖母がいた仏間、その天井のあたりをさす。
「モクメサンがぁ」
何故この人が知ってるのか。
「モクメサンがぁ、来るゥ」
「どういうことです、モクメサンが来てくれるって」
声の震えをおさえこめない。
どんどん震えが広がっていく。
寝たきりの祖母が教えた?
どうやって?
叫べば聞こえなくはない距離だが、それにしたって……
「教えてください、なんでモクメサンのことを知ってるんですか。祖母から聞いたんですか。来てくれるって」
虚ろな目が下りてきて、歯のない口に恍惚の笑みが浮かぶ。
「アンタ、勝手に出ちゃだめじゃない!」
「ひっ」
「またわけわからないこと言って、これ以上恥かかせないでよ」
彩名はびくりとした。
老人はもっと怯えている。
「まったく、こうなっちゃおしまいね」
部屋の中にエプロンを掛けた老婆がおり、パジャマの後ろ襟を掴み、老人を乱暴に引き戻す。
荒々しくサッシが立てられ、それきり沈黙が立ち込める。
彩名は胸の動悸をおさえて門前へ引き返す。
「モクメサンって……」
どうしてお隣さんがモクメサンを知ってるの。
「来る」ってなんなの、何をするの。
疑問は尽きないものの、今は母の方が優先だ。
頭を切り替えてピンポンを連打、反応がないと悟るや合鍵でドアを開ける。
「最初からこうすればよかった」
靴を脱ぐのももどかしく上がり框にあがる。
家の中は薄暗い。
今日が曇りで、電気を点けてないのを差し引いてもなお暗い。掃除もろくにしてないのか、埃で床がざら付く。
おかしい、前はこんなじゃなかった。
彩名が前回帰省した時は……
「何年前よ、それ」
口角が皮肉っぽく上がる。改めて、どれだけ不義理をしていたのか思い知らされる。
母が嫌いなわけじゃない、祖母を疎んじたわけじゃない。なのに家に帰らなかった理由は……
モクメサンがどんな顔をしていたか、どうしても思い出せない。
一階、北側の部屋。一番日当たりが悪く寒い部屋。
葬儀の為に帰省した時も無意識に避けて入らなかった、あの部屋。
「お母さん?」
声を張って呼びかけるが反応はない。
家はしんと静まり返っている。
彩名はベージュのストッキングに包まれた足で、一歩一歩、北側の仏間へ近付いていく。
途中、嫌な物を見た。見たくないものを見た。できれば記憶から消したいが、それはできない。
「こんなキズ、前はなかった」
一階の床に引っかき傷があった。誰かが這いずり、掻き毟ったあと。仏間から逃げ出そうとしたあと。
「このシミも知らない」
玄関から奥まった廊下の壁に、茶褐色のシミができている。排泄物を手掴みでなすり付けたような汚い色。それを必死に拭き浄め、隠そうとした痕跡。
親子二世帯の一軒家を父が購入した時、母がとても嬉しそうにしていたのを思い出す。
『あっちで子どもができたら帰ってきてもいいわよ、彩名』
ああそうだ、新社会人として上京が決まった時に母が言った。祖母を勘定から外してそう言った。
お母さん、あなたは一体何をしてしまったの。
彩名が帰省を拒み続けた数年の間に、この家はすっかり古ぼけてキズとシミが増えた。
何かが腐ったような、饐えた匂いも漂っている。
「お母さん、いるなら返事して」
祖母は仏間に寝かされていた。最後の方は殆ど寝たきりで、下の世話は母に委ねるしかなかった。彩名は母の愚痴を聞くのが鬱陶しくて、わざと電話にでずにいた。
おばあちゃん、また排泄物を壁に塗りたくったの。床に転がってたの。
聞きたくない。知らないでいたい。知ったらきっと、とてもとても面倒くさいことになるから。
彩奈は32歳だ。
がむしゃらに頑張って、やっと職場でそこそこの地位を築けたのに、祖母の介護の為だけに今いまさら地元に帰るなんて冗談じゃない。介護しかできることがない、負け犬に成り下がるのはごめんだ。
そこまで考えてハッとする。母は一対一で祖母の介護をしていた。ということは、当然仏間に出入りしてたはず。天井に住み着いた、モクメサンと会っているはずだ。
かすかな音がした。衣擦れの音。奥の仏間からだ。葬儀中は閉め切られていたのを、何故不自然に思わなかったのか。
わざわざ広間に祭壇を調えるより、もとから仏壇がある和室で葬儀をしたほうが楽なのに。
人を入れたくない事情があった?
生唾を飲み、一番奥の襖に手をかける。
「ここにいるの?開けるよ」
一応許可をとり、ゆっくりと襖を開けていく。
一番日当たりが悪く一番寒い部屋。祖母にあてがわれた部屋。嫁姑の仲は険悪だった。若い頃は随分いびられたのよ、と母がこぼしていたのを聞いたことがある。
だから。
寝たきりになった祖母にその仕返しをしたとしても、母だけを責められまい。
「ああ、彩名。突然どうしたの」
仏間には母がいた。介護ベットは撤去され、剥き出しの畳だけが敷かれている。丸い窪みは四脚のあとだろうか。
とにかく母が健在で彩名は安堵した。
同時に名伏しがたい罪悪感がこみ上げて、襖に縋って膝を付く。
「ごめんなさいお母さん、おばあちゃんのこと全部押し付けて。知らんぷりで。帰りたくなくて」
お母さんがいるからと言い訳して。
おばあちゃんのオムツなんて変えたくないから、床でじたばた暴れるおばあちゃんをベッドなんて戻したくないから、ボケたおばあちゃんと争いたくないから、だから私は
耐えきれず、両手で顔を覆って叫ぶ。
「お母さんだけが悪いんじゃない。私が、私の方がずっとずるい」
母と彩名は共犯で同罪だ。二人して祖母を殺したのだ。
「いいのよ」
優しい声に許しを期待して顔を上げた彩名は、母の背中に隠れた物に気付き、驚愕に目を剥く。
ガソリンの一斗缶だ。母は右手にライターを持っている。
「目撃者を消せばバレないから」
「目撃者って何よ、寝たきりのおばあちゃんに何したの」
彩名は和室に踏み込む。
どうしても上を見る勇気がでない。子供の頃に来た祖母の部屋、天井に憑いたモクメサン。その顔は
顔じゃない。腕だ。
畳にめりこんだ四点の窪み、黒く腐った丸いへこみ、そのちょうど対角線上の天井に、腕が生えている。
生前、祖母の首があったあたりに。
「私は悪くない、仕方ない」
母が一斗缶の中身を天井にぶちまける。
ガソリンの強烈な異臭が立ち込め、瞬時に金縛りがとけた彩名は血相変えて走り出す。
母が虚ろな表情でライターのスイッチを押し込み、ガソリンが染みた天井に投げ付ける。
ボッ、と火が出た。
天井から。木目から。
「毎日毎日死にたい死にたいってうるさいから、じゃあ死ねばって言っただけ」
一生懸命世話してやってる嫁の気持ちも知らないで。
もし母が祖母を虐待していたのなら、毎日毎日死にたいと嘆かせるほどに痛め付けていたのなら、祖母が毎日見ている天井に、そこにいるモクメサンに殺してほしいと願ったのなら
「ありがとうありがとうって、最後まで当て付けがましいんだから」
「危ないから出てきて、こっちきて!」
自殺はできない。
死にきれない。
故に祖母は、殺してくれてありがとうとモクメサンに言ったのだ。
腕を掴んで引っ張る娘をよそに、火炎に飲まれた天井の下に立ち尽くし、母は笑った。
真っ黒く燃え盛る腕が落ちてきて、母を掴んだ。
後で判明した事実。
祖母の遺体の首元には不自然な痣がなったが、早々に事件性はないと判断され、母は家に帰されていた。
何故ならそれは絞殺の痕ではなく、指の形を模した腐敗の痕だったからだ。
祖母の首の皮膚は黒ずみ、肉と骨まで蝕まれていた。死因は喉が腐った事による窒息死だ。
母は全身に火傷を負って搬送されたものの結局助からず、彩名は警察で事情聴取を受けた。
「私が母と祖母を殺したんです」
彩名の言葉は無理心中の自白と受け取られ、彼女は十数年真面目に勤め上げた会社を解雇された。
こんな話を知っているだろうか。
木にはたまに霊魂が入りこむことがあり、天井の木目は悪いものを閉じ込めておく格子なのだと。
だから木目は人に似る。
隣から火が出た時も、老人はベッドにいた。部屋には糞尿と飯が腐った悪臭が立ち込めている。放置された床ずれが痛い。
妻が腹立たしげにぼやいている。
「迷惑な話だよ、ウチまで警察が来た。いっそアンタのベッドから火がでりゃよかったのに」
これは人間が腐って行く匂いだ。
虚ろな目で天井を見上げると、先日までなかった木目が増えていた。
隣の婆さんがまだ自分で歩ける頃に言ってた通り、モクメサンが来てくれたのだ。
モクメサンは天井伝いに移動する。
逃げたくても逃げきれず、死にたくても死にきれず、寝床で腐っていくしかない哀れな人間の頭上に現れる。
隣が燃えた時、窓ガラスを数センチ開けてよかった。一筋だけ黒い煙が迷い込んで、それを天井が吸い上げて、腕が生えた。
「あ~あ、さっさと死んでくれんかね」
モクメサンありがとうと、彼は笑った。