最終話 それからの話(5)
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王都の郊外。すっかり陽が沈んで暗くなったその場所に、ポツンと家がひとつ建っていた。
王都からは外れている。だが、歩いていけないほど遠いわけでもない。シトラの足であれば十分に徒歩で通える距離であった。まあ面倒は面倒なので、日帰りで何度も通う真似はしないのだが。
そこに建つ家の表札に刻まれていたのは、ミラヴァードの文字とその家紋。
「すみません、遅くなりました……」
ガチャリ、と木の扉の鍵を開けて中に入る。するとちょうどそこでばったり、ひとりの少女と鉢合わせる。そう。あろうことかアザミは、シトラが留守の間に女を連れ込んで浮気……いや、不倫をしていたのだ。
「……っと、来ていたのですか。セラさん」
「ええ。近くに寄ったものだから、あたしの元相棒の顔を見るためにね。あと今日は、その、一応‟あの日”かしら」
「言って貰えたら歓迎の準備が出来たのに。次からは事前に教えてくださいね」
「別にそんなのいいかしら。あたしはアザミと他愛のない話が出来たらそれでいいもの」
そう言ってひらひら手を振る彼女はセラ。アザミの元契約精霊であり、今は肉体を手に入れたことで精霊の力は失った少女だ。
精霊時代は契約ゆえアザミに縛られていたし、霊体化してその傍でふわふわ過ごすことも出来た。だけど肉体を手に入れてからはそうもいかない。契約は白紙になって、霊体化だってもちろんできない。それどころか、肉体を手に入れたおかげでかせいでか、今まで無縁だった成長というものを経験しているセラであった。
「次で15歳、でしたっけ」
「16かしら。肉体年齢で言うならそうなるかしらね。まだ慣れないのだけど」
ずっと10歳前後の少女の姿であったセラが、何と言うことでしょう。今や立派な15歳の乙女である。背も伸びて、顔も大人びた。そして一番変わったのは、
「最近、肩がやけに凝るかしら。動きづらいし、成長するのもそれはそれで面倒ね」
「……肩が。へー、そーなんですねー。私には無いな―、そんな悩みー」
棒読みで、感情の無いシトラの声。どことは言わないが、シトラのそれと比べたら……涙が出てくる。年齢が一回り違うのに、残酷なものだ。
「それじゃあ、私は帰るかしら」
「本当に帰ってしまうのですか? 夕食がまだなら、ぜひ一緒に……」
「遠慮するかしら。あたし、家族団欒を邪魔するほど意地悪い性格はしてないつもり。今まで通り、ふらっとアザミとおしゃべりが出来たらそれ以上は望まないかしら~」
引き留めるシトラへ首を横に振って、セラは雪の降る夜の中へ消えていった。「行ってしまいました……」とその背中を目で追う。追いかけようか。いや、追いかけたところで何が変わるでも無いか。シトラは扉を閉めて、コートの雪をはたくと家の中へとようやく入っていく。
「……今、ちょうどセラが帰ったところだったんだ」
「知っています。玄関で会いましたから。それよりも、起きていて大丈夫なのですか?」
「ああ。今日はなんだか、調子がいいんだよ」
おかえり、とシトラを出迎えたのは車椅子に乗ったアザミ・ミラヴァードであった。調子がいい。その言葉とは裏腹に、その顔は随分とやつれて力が無かった。
「……本当ですね。今日が‟あの日”だから、何かの祝福かもしれません」
でも、最近のアザミ基準なら確かに今日は顔色がいい。これでも良い方というのが、今のアザミ・ミラヴァードの状態の酷さを思い知らせてくれるのだった。
「あの日から5年……か。まさか、これだけ長く生きられるとは思っていなかったな」
世界が天に帰ったあの日のことは、今でもはっきりと覚えている。そしてそれに至るまでの戦いでアザミが選んできた道、為して来た選択の数々に関しては一度も後悔したことなど無かった。もし、将来今のようになると分かっていたとしても、アザミはきっと同じことをしただろうから。
黒髪に赤色のメッシュが混じる。そんなアザミの魔王らしく悪に黒い髪は、今や真っ白一色であった。細身ながらも迫力のあった肉体は、すっかり筋肉が落ちて随分とやつれてしまった。
まるで病人だ。死を待つ人みたい。まぁ、その表現もあながち間違いじゃなかった。すべての元凶は天属性魔術である。魔力の代わりに生命力を対価に要求するそれを、世界の滅びを回避するという大それた願いを叶えるためにセーブなく使ったこと。それによってアザミの寿命は、あの戦いが終わった段階でもうほとんど残っていなかった。それなのに5年も生きられたのは、やっぱり奇跡。騎士団を抜けてこの田舎でひっそりと暮らし、極力力を使わないよう最低限の暮らしをしていたおかげだろうか。
「まだまだ生きて貰わなくちゃ困りますよ。あの子が大きくなっていく様を、私だけが独り占めするだなんて勿体ないですから」
「ああ……そうだな。あの子が大きくなって、反抗期や思春期を迎えたりして、そうしていつか結婚して子供が出来て。そんな成長をもう見られないのは、嫌だな」
「ですから、それまで生きてくださいよ。ね?」
「……死ぬわけにはいかない、よな。ああ。そうしてみるよ」
ギュッとその手を握るシトラに、アザミは力なく笑った。
言葉は本気だ。本気で生きたいと願っていた。けれど……現実として、それが叶うことはきっと無い。
「ところであの子は?」
「ああ。ずっとシトラのことを待っていたんだが、さすがに寝てしまったよ。ほら」
アザミがチラッと目をやった先には暖炉。そしてその前のソファーでぬくぬくと布団にくるまり寝息を立てる子供がひとり。シトラはそっと、その寝顔を覗きに行った。
「ただいま帰りました。遅くなってごめんなさい」
スースーと眠るプラチナブロンドの髪の女の子。髪色はシトラからの遺伝であった。指を咥えて大人しく眠るその子供は、本当に愛おしく思える。わりと本気で、この子の為ならなんだって出来ると思うぐらい。
(だからアザミも……って、ダメですね。言ってしまうともっと辛くなるだけです)
それはアザミ自身が誰よりも、何よりもよく分かっていることだろう。シトラは言いかけたそれの代わりに、眠る女の子の額に軽くキスをした。
「そうだ。なぁ、シトラ。せっかくだからこれ……やっておかないか?」
「それは……天燈、ですか。どうしてそのようなモノをアザミが?」
「セラが置いて行ったんだよ。ほら、今日は‟あの日”……世界が天に帰ったその記念日だろ」
それは大陸中で、今晩行われるお祭りである。ゆえに夜になると王都に活気がついていたのだ。祭に合わせて出店やイベントが行われるから。
やる事は簡単。紙で作られた灯篭……天燈の中に火種と、願い事を書いた紙を入れて空に飛ばすのだ。21時30分。ちょうど、世界が天に打ちあがったそのタイミングで一斉に。
大陸全土から、様々な願いと祈りを込めて天燈は飛ぶ。その光景は、毎年とても幻想的なものだ。それを見るたびに、あの全てが救われた日の星降る夜を思い出す。あの日、大陸の至る所で皆が見上げた空に星が降っていた。その光景は、人々の心に深く刻まれていた。いわば、これはその再現である。
「願い事を書いて。あの戦いで犠牲になった人たちを悼んで。そして、これを天に帰すんだ」
「天燈祭、ですか。何気に私、初めてやりますよ」
「そうだったのか? てっきり王都でやっているものかと」
「その日は色々と忙しいですからね。混雑に乗じて悪事を目論む輩がいないとも限りませんし。ですから今年、アザミと一緒に初めて……です」
最後に、同じ思い出を共有出来てよかった。シトラは机の上の紙を引き寄せると、そこに願い事を書き始める。
「……俺も、何か願おうかな」
それを見てアザミも筆を執った。今更もう願うことなんて無いと思っていたけれど。諦めなくていいなら、少しくらい願ってみてもいいかもしれない。どうせ叶わないと諦めてしまうより、神頼みでも祭頼りでもやる方がマシだ。
「天燈、ちょうど3つあるのですね」
「ああ。そりゃあ俺とシトラ、んであの子で3人家族だからな。せっかくだしあの子の分も組み立てておくか」
そう言って、アザミは天燈をもう一つ組み立てだした。そうして3人分、天燈が完成する。
「……外は冷えます。何か羽織るモノを持ってきますね」
「ああ、悪いな」
そう言ってシトラは少し離れると、すぐにアザミ用のコートを持って戻って来た。車椅子に座るアザミにそれを着せて、「では行きますよ」とシトラは車椅子を押す。
行く、といってもただ外に出るだけだ。それで十分。周りに民家も無いし、空だってよく見える。
「雪が降っているのか。ハハッ、あの日と同じだな」
「そういえばそうでしたね。あの日もこんなに寒い、雪の夜でした」
車椅子から、アザミは空を見上げる。澄んだ空、今宵は残念ながら星は見えなかった。
けれどいい。星なら今から、空を埋め尽くすくらい目一杯に見えるのだから。
「そろそろ時間だ。10,9……」
カウントダウンが始まる。火種にぼっと炎を灯して、アザミとシトラはそれぞれの願いを書いた天燈にそれを入れるとその時を待つ。
「8,7,6……」
5年前の今、世界は海に沈みかけていたのだ。それをギリギリで回避し、世界を天に帰した。その記念日。
「5,4……」
それから5年。色々あって、色々変わって、色々変わらなくって。
「3,2……」
でもひとつ、言えることがある。
それは、この5年間。間違いなくこの世界は、平和そのものであった。
「1―――」
パッと手を離れた天燈がゆっくりと天に昇っていく。願いを乗せて、思いを乗せて。鎮魂の祈りを込めて、空へと帰っていく。この5年間の安寧。幾多の犠牲の上に手に入れた、今の世界を祝うように。
「……綺麗ですね」
「ああ。5年前を思い出す。本当に星が降っているみたいな、あの日の空を……」
王都の方角から一斉に、オレンジ色の光がブワッと空へ飛んでいくのが見えた。逆方向を見てみると、聖都モルトリンデの方角にも遠いけど灯りが見える。森の中からもぽつぽつと。ああ、この世界に住まう多くの人が今、同じ時間に平和を讃えているのだ。この世界の、この空は今、思いと祈りの天燈で埋め尽くされているのだ。
世界は天に帰った。滅びは回避され、そして救われて今の今まで平和に時は過ぎて行った。
それを手に入れるために命を落とした者がいる。それを叶えるために命を懸けた者たちが居る。すべては未来を手に入れるため。新しい時代を、これから生まれてくる子供たちに残すために。
「……パパ? ママ?」
「っと、起きてきちゃったか」
「こんなに眩しいと眠っていられませんよね。ふふっ。でも、ちょうどいいんじゃないですか?」
ベストタイミング。ゴシゴシと目をこすりながら、眠い足でふらふら歩いてきた女の子にシトラは「はい、これ」と天燈を手渡した。ちょうどアザミが作っていた3つ目だ。
「これ、なぁに?」
「これに願いを込めて、空に飛ばすんだよ。本当は文字で書くんだけど……まだ無理だよな」
渡された紙風船みたいな、自分の顔くらい大きなそれを必死で抱えながら首をかしげるアザミとシトラの子。小さな子が大きなものを持つ姿はどうしてこうも愛らしいのだろう。その可愛らしい困り顔を、アザミはポンポンと撫でた。
「じゃあ、願いを言ってごらん。将来何になりたいとか、何を叶えたいとか」
書く代わりに、口で言っても届くだろう。最後の天燈の中に火種を置き、アザミは娘の手を握りながら優しくそう問いかけた。
「私は、ねぇ……」
「うん」
父親の優しい顔に、少し照れたようにゆらゆら揺れながら、女の子は無邪気に笑った。その声を、その答えを、アザミは待つ。いつまでだって待つ。ああ、だって―――
(大切な人と、大切な娘と3人で。こんな時間を守るために、手に入れるために俺は戦ったんだからな)
そのために救った世界。だからこの時間は、何よりも暖かくてかけがえのない時間であった。……諦めたと思っていたのに。少しだけでいいからこんな時間を過ごせたら、あとはどうなってもいい。そう覚悟したはずだったのに。
「……パパ? 泣いてるの?」
「えっ……」
ああ、知ってしまったら手放したくなくなる。失いたくなくなる。嗚呼厭だ、嫌だ……死にたくない。この幸せから、消えてしまいたくないって。
「……決めた! 私は、パパもママも、みーんなが泣かない世界になったらいいなっておねがいするねぇ」
そんなアザミの涙を、小さな指で拭ってその娘は爛漫に笑う。
そんな願い。それを願うその笑顔。
「……いい願い事だ。じゃあ、離すよ―――」
その願いを乗せて、少女の手からふわっと天燈が飛んで行った。世界が涙しないように―――というその願い。奇しくも、アザミとシトラの戦う理由であった理想。‟誰もが笑顔でいられる世界”とよく似ていた。ああ、遺伝だなって。
「見て! 見て! すっごい高いねぇ!」
無邪気に天を指さしで笑う少女の、その無垢な笑顔を守るために戦った。そして、手に入れたのだ。
だからやっぱり……もし、こうなると未来が分かっていたとしてもアザミは同じように戦っただろう。命を顧みず、世界のために戦ったことだろう。そのことを雪降る中、空を埋め尽くす無数の天燈に包まれながら笑い踊りはしゃぐ娘に知った。
「……俺たちの物語は終わる。でも、これからはメロ。お前たちの世界なんだ。どうかこの世界を、未来のことを頼むぞ」
それがどうか、ハッピーエンドでありますように。
父として。親として。そして、世界を救った旧世界の英雄としてただ願う。
天に帰った世界。救われたその世界で紡がれる新たな物語たち。新しく生まれてくる命や、今まさに育っていっている命たちの描く物語が幸色に終わりますよう。
アザミ・ミラヴァードが放した天燈に込めた願いは、ただそれだけだった。
第十部『二ヴルヘイム【結幕】 ‟ラストランド・イーチホープ” ~理想叶う刻~』完
そして、
魔王の兄と勇者の妹【特別編】 ――九色の鍵が繋ぐ世界――完
『Their story is over. But this world is not over yet.』