1410話 星降る夜の葬送曲
過去最長です。流石にこの話は分割できない。
世界が飲み込まれていく。
水という単純な物体によって世界が埋め尽くされていく。
いつもは無くてはならない生命の源にして、しかしいざ猛威を振るうとここまで圧倒的になるのかと。
そんな変わり果てた世界の中で人々は祈る。願う。
だって、その為す術のない強大で巨大な力の前には出来ることなんてそれ以外にないから。
「……それでも、逃げるのよ。いい? 最後の最後まで希望を捨てちゃダメ」
「なんで? 逃げても助からないかもしれないよ?」
「それでも。絶対に諦めちゃダメ。勇者様はね、最後まで諦めなかった人だけがなれるのよ」
ぐずる子供に、とある母親はそう言い聞かす。
逃げ場なんてもはや無いのかもしれない。けれど、それでも最後まで希望を捨ててはいけない。
それを自ら放棄するだなんて、それこそ最悪の極みだ。そんな選択を子供にさせたくなかった。
「……それでもさ、皆。山のてっぺんまでは逃げようぜ。アンタの言う通りどこに逃げたって、どこまで逃げたって結果は変わらないかもしれないけどさ。でも、せっかくならやれることは全部やりたいじゃんかよ」
「ああ、そうだな。どうせ死ぬにしても、最後まで悔いなくやり切って死にたい」
「その方が清々しいもんな。よし、村の皆で最後の山登りだ!」
とある村の人たちは、避難していた山の中腹で腰を上げる。それにより、諦めムードに支配されかけていた彼らの目に光が戻り始めた。
ひとりの声が、次第にみんなの声へと。やっぱり死にたくはない。けれどどうせ死ぬならば、最後までやり切った先であってほしいから。
世界のあちらこちらで希望と絶望が入り乱れる。
海に飲まれて消える命もあれば、波に潰されて無残に果てる命もあれば、それでも生きようと必死に足掻く者たちも居る。
そして最後の最後まで、世界の灯が消える最後の一瞬まで諦めないともがく者たちもいる。
「……チッ! このやり方も長くは持たんぞ!」
「分かってるよ! でも、今のボクたちに出来るせめてもの抵抗はこのくらいでしょ?」
息を吹き返したアポロンはキリキリと引き絞った矢をビュンッと放つ。その金色に輝く矢は迫りくる波に命中すると、それを吹き飛ばして蒸発させてしまった。
「考えたものですね、エリシア。アポロン様の‟0%に可能性の芽を生やす絶対の力”……0%出来る、も100%無理も否定するその力を使ってあの圧倒的な力を前に可能性を見出し、そしてエリシアの未来視の魔眼で生まれた僅かな可能性を極力生かせるポイントを見出す―――だなんて。極限状態だからこその無茶、でしょうか」
「そりゃそうだよメラグロード君。こうなったら体裁とか綺麗さとか言ってらんないからね♪ 大事なのは結果だけ。過程なんて、この状況じゃ……どうだっていい!」
「ああ同感だ小娘。ゆえにへたるなよ? 最後の最後で裏切ってくれるな」
「誰に……言ってんのさ。ボクはエリシア・アルミラフォード。妖狐の肉を喰らってまで3万年の時を生きた、執念深さじゃ負ける気はしないよ」
アポロンの言葉に、エリシアはニヤリと返す。
世界がこれからどうなるかと、どうすることが世界のための最善手かだとか。そんな大きな範囲の未来に関しては刻一刻変わっていくため使い物にならない彼女の未来視。だけど、ターゲットを絞れば……迫る波の、どこに矢を放てば最大火力でそれを吹き飛ばせるかを見抜くぐらいの未来視ならまだ生きているから。
神様も、人間も。ここまで戦ってきた者たちはまだ諦めちゃいなかった。
「オラオラ、さっさと逃げな村人ども! ここにとどまっていたらいずれ海の底だぜ!」
それはシトラやエリシアみたいな、騎士団の中核として世界魔法やゾルディナ戦を経験した者たちだけじゃない。
「……テメェも今はただの村人だ。だから早く逃げろや、ユーゴ」
「いいのかい? アブド。騎士団を引退したとはいえ、避難誘導の手伝いくらいなら出来るつもりだけど」
「チッ。そんなすかした様が気に食わねぇんだ。いいからテメェは奥さんだけを守っていればいいんだよ。こういうのは俺みたいな、いつ死んでもいい老躯の仕事だ」
アブド……アブドール・クアンテッドはしっしっとユーゴ・ミラヴァードを追い払おうとする。
かつては共に円卓へ名を連ねた者同士。けれど、ゆえあって道を違えてしまった者同士。
冷たいようで、だけどユーゴのことを思っているのだろうアブドの言い方だ。
そんなアブドに、「だったら猶更引けないな」とユーゴは笑い、聞く耳持たずその隣で剣を抜く。
「……僕の子供たちは今も最前線で戦っているんだ。だったら親として、大人として。僕も戦わなくてどうして格好いい父でいられる?」
実力じゃきっと、もう相当遠くへ引き離されているのだろう。足下にすら及ばないかもしれない。ああ、我が子立ちながら恐ろしいものだ。
でも、そんな選ばれし力を持って世界のために尽力する子供たち。それを誇りに思い、そして親である以前にひとりの人間として尊敬しながら、でもやっぱり父親として恥じない姿を見せたかった。
いつまで経っても、それは父という生き物のエゴだ。
「足、引っ張んじゃねぇぞ」
「それはこちらのセリフだ。だって君、僕に一度も勝ったことが無いだろう?」
「うるせぇよ。つーかこれはただの避難誘導だろうが! 勝ち負けなんてねぇよ」
なんて。鬱陶しそうな言い方をするアブドだったが、だけど、その表情はどこか嬉しそうだった。世界の滅びを眼前にして、再びかつての友でありよきライバルであった男と共闘できるのだから。
そんなエッジ村。大陸北西部の小さな村であり、しかしよくよく考えてみればそんな狭き村からこの時代の騎士団長と円卓の騎士を輩出しているのだからとんでもない場所だ。世が世なら聖地になるレベル。
そんな大陸西部の村はとっくに海の底に沈んだ。つまり、双子にとっての帰る場所。故郷はすでに水底というわけだ。
しかし波に呑まれて沈んだエッジ村に人の気配、死の匂いは無かった。
それはアブドとユーゴの適切な指示によって村人全員が村を捨て、迅速に逃げおおせたからである。
だがそれもどこまで持つか。
どこに逃げたっていずれ波に追いつかれる。遅いか早いかの違いだ。避難したエッジ村の住人も、いずれは例外なくその運命にさらされるだろう。
だからその前に、そうなる前に世界を救うのだ。
その希望を信じて祈る。願う。
そして、そんな想いを裏切らないために戦い続ける。
「氷魔法ッ……‟絶対零度”! 相手が水なら私の氷で少しは時間、稼げるでしょう!?」
そんな人たちを守ろうと自ら前線に立ち戦う少女がいる。そんな元勇者の少女がいる。
「ああもうっ! こうなったら地獄の底まで付き合ったげるよ……! シトラお姉ちゃんの、大馬鹿にね!」
氷漬けになった波を、勢いよく飛ぶ槍の嵐が粉々に粉砕する。これでもかと、多分ちょっぴりは私怨が入っていそうな勢いだ。
そんなこんなで、なんだかんだ言いつつも世界を救いたいというただそれだけの単純な理由で戦う少女に付き合うと決めた者もいる。きっと、彼女もはたから見れば人のことを言えない馬鹿なのだろう。上等だ、もうここまで来たらどんな馬鹿にでもなってやる。
シトラもスイも、最後まで自分たちのやれることをやっていた。
世界魔法から戻って来てすぐだというのに、休む暇も一息つくこともせずに戦場へ向かう。ここまで来たのだ。負けてたまるか、と。
「……いっそ、もっと派手にやってみますか?」
そんな状況下で、シトラは笑った。
とはいえ別に楽しくなってきたわけじゃない。世界の終焉を間際に控えて笑っていられるほど能天気なシトラじゃ無いし、そこまでメンタルは吹っ飛んでいない。
だが、そうだとしたら何とも物騒な提案もあったものだ。ここまで来たら吹っ切れるしかないとはいえ。
まともな思考、常識にとらわれたことだけをしていても埒が明かないと理解していたから。
ならいっそ、どうせ滅ぶかもしれない世界だと割り切って無茶をしてしまう方がいい。
「ホント……勝手言ってくれるよね、シトラお姉ちゃん。でも賛成。何をすればいいの?」
止めるのかと思いきや、スイもそれに乗っかった。ニヤリと笑って、ああそういえば彼女も結構無茶なことを楽しむタイプだった。
どうせ泣こうが喚こうがあと少しすれば結末を迎えるのだ。なら少しでも楽しく、面白く振る舞ったって変わらない。世界が滅べば何をしようとチャラになるのだし、それにもしもその派手な無茶のおかげで少しでも損害が減ればやってよかったとなる。どちらにせよ後悔をしないなら、やったもの勝ちだ。
「簡単な話ですよ。私の氷魔法でこの世界中を凍らせてしまいましょう」
「いや、さも難しく無さそうに言うけどシトラお姉ちゃん。自分の言ったことの意味、分かってる?」
「ええ、もちろん。アザミ曰く、私は魔法による干渉力が人一倍強いらしいので。そのくらい出来るかな、と」
「そのぐらいって……いやいや、ちっとも‟その程度”の所業じゃないからね?」
それは話が違う。分かっているの?、と頭を抱えるスイ。どんな無茶苦茶な案が飛び出してもシトラらしいなと受け入れるつもりでいたが、こればかりは想像を軽く超えてきた。だがそんなところもシトラらしいとなってしまうのは、禁止カードか何かなのだろうかこの少女は。
「まぁ、シトラお姉ちゃんの魔法は実際凄いよ。私がチルを殺してせっかく夢の世界に閉じ込めたってのに、そこから無理くり世界魔法開いてそれをトンネルにしちゃうんだからさ。並大抵の魔法適正じゃ出来ないし、それにあの魔法樹ナァントカムイと契約出来た時点で普通じゃないよ」
「そうなのですか?」
「そうだよ。本来は命レベルの対価がいるんだからね? まぁ状況が状況だし、ナァントカムイやカノアリムージュ様としても協力せざるを得ない感じだったんだろうから、対価は特に要求されなかったんだろうけどさ。とはいえ世界魔法を開くだなんて神様クラスの真似を人の身で出来るんだから、きっとシトラお姉ちゃんの魔法適正はアザミ・ミラヴァード以上なんだろうね」
少なくとも干渉力……魔法の規模の大きさであれば、彼女はアザミをもしのぐ。
そりゃあ手数や知識量、魔法の質という面では敵わないだろうが、環境を大きく変えてしまうような事象干渉能力―――。それこそ、ひとつの世界を作り出してしまうような魔法による干渉はアザミじゃ決して真似できない。スイでも、恐らくこの世界の誰も出来ないだろう。
「だから多分、シトラお姉ちゃんの魔法なら辺り一帯を氷漬けにしてしまうことだって容易なんだと思う。でもさすがに、世界中は無理かな。そこまではいくらシトラお姉ちゃんでもカバーできない……と、思う」
言い切れず、最後の最後に保険めいた「と思う」なんて付けてしまったのは、話していて「もしかしたらこの化け物」ならそれも出来てしまうんじゃないかって少し頭をよぎったからだ。そう思わせてしまうのは普段、シトラがどれだけ人間を舐めた芸当を見せているから。つまりは普段の行いゆえである。
何と言うか、天地が引っ繰り返っても無理だろうという所業ですらこの少女なら「やってみたら出来ました」なんて言って普通に成し遂げてしまいそうで怖い。そうされても特に驚かない自信がスイにはあった。
「ふむふむ。この辺りを氷漬けにしたところで、その上を越えたり氷の範囲外から海は迫るわけですもんね」
「うん。だから大した時間稼ぎにはならないよ。それこそ、この大陸に迫るすべての水……あらゆる波を一時的だとしても止められたら、意味はあるんだろうけど」
でも、そんなことはきっと出来っこない。自分で言っておきながらその無茶苦茶さに思わずハハッと笑ってしまうスイ。
そんなことが出来るほどの事象干渉力の持ち主はもはや神様レベル……いや、絶対の領域にすら踏み込んでいるかもしれない。だからさすがに、シトラ・ミラヴァードといえどそれは流石に出来っこない。
「……なるほど」
その冷静なスイの分析に、シトラは頷く。
こういう盤面の見方は、シトラには出来ないことだから助かる。まだ不慣れなのだ。
出来ることと出来ないことの見極めは得意じゃない。だって、シトラにとって‟出来ないこと”と‟やらないこと”は同義じゃないのだから。
出来ない、はやらないことの免罪符にはなり得ないと彼女は考えている。だからこそシトラのやる事なす事、口にすることはいつだってぶっ飛んでいて、そして彼女はそれが常識的にどれだけ困難であろうと気にせず突き進むことが出来るのだ。
「つまり、今まさにこの世界を沈めようと迫っている波をぐるりと凍らせたらいいのですね?」
「うん、だから……聞いてた? それはいくらシトラお姉ちゃんでも出来ないって言ってるの。口にするのは簡単だけどね、諦めないって言うのは簡単だけどね、出来なくてもやろうとするのはご立派なんだけどね、でも無理なものは無理。分かってよ」
分かったような顔をして、でもまるで分っていない口ぶりのシトラに思わずイラっとした言い方になってしまった。
そりゃあスイだって叶うならシトラの思い描いた通りにしたいし、その通りになって欲しいとも思う。
けれど現実はそうじゃないのだ。いつだって理想の通りに運ぶほど、現実はそう甘いもんじゃない。
「……分かっていますよ。だから、スイちゃんも協力してください」
「分かってないからずっと言って……って、はぁ? 私も協力って、いやまさか……正気?」
スイは思わず聞き返す。素っ頓狂な声と、間抜け面を晒してしまった。
いやでも、そうなってしまっても無理はない。
だってシトラがやろうとしていることは……。シトラのニコリと微笑む表情に、スイの顔から血の気が引いていく。
「これなら私の魔法を世界中に届けることが出来ますね」
「そうかもだけど……あぁもう、いいや。もういいっ! どーせ私が何を言っても、シトラお姉ちゃんは気にせずやるつもりなんでしょ!? ならいいよね! 言っても無駄だもんね!」
こうなったらもう吹っ切れた。パンッと両頬を叩いて、呆れは通り越してもはや笑えてくる。世界の滅びを間近にして、もうどうにでもなれという気持ちだった。
スイの中の常識が吹き飛んだ記念すべき瞬間だ。まともな思考回路じゃ到底思いつかないだろうことを、もうこの機会だ。大まじめにやってやる。この状況下で恥を気にしたって意味無いし。
「やりますよ、スイちゃん!」
「―――詳しい打ち合わせも無しに!? 急だねホント!」
「だって時間も無いですし。それにスイちゃんなら合わせられますよ。私の副官ですからね。それくらいしてもらわなくちゃ困ります」
「っ……! とんだ期待してくれちゃってさ。あぁいいよ。私だって神代兵器の最強だ。見せてやろうじゃん、その力!」
そんな言い方をされて火がつかないスイじゃない。冷静な感じをして、実は人一倍負けず嫌いな少女だというのをシトラはよく知っていたから。気にしていない感じを出していながら、意外に結構気にしているのだと。
最強―――その座、その肩書にこだわりがあるのも知っていてうまく利用したのは何と言うか、シトラらしからぬ巧さだ。フッと煽るように笑ったシトラに、ぴきっと血管を浮き出させながらスイは手をかざす。
「じゃあ……氷魔法、‟氷花の種火”」
「展開せよ、‟双剣千槍”!」
シトラの氷魔法に合わせて、スイはご自慢の槍を一斉に展開させた。ズラーッとそれはもう豪華に大盤振る舞いで、出せる限りの数がそこに集う。
そして、その槍のひとつひとつにシトラの氷魔法がふわりと絡みつく。それはまるで、運び手に身をゆだねる種子のよう。鳥が種を運び花を咲かせる―――というストーリーは聞いたことがあるが、まさにそれだった。
「さぁ行け! 飛んでけ! そんでもってこんな世界、まとめて氷漬けにしちゃえばいいんだ!」
アッハッハと笑って、スイはその手を振り下ろした。それを合図にビュンビュンと飛んでいく槍たち。
その向かう方向は天……上だった。
そうして上空高くに飛んで行った槍はいずれ重力との釣り合いを取り、そして落ちていく。
真下に……ではなく、方々散って大陸のあちこちにまるで雨のように降り注ぐのだ。
双剣千槍の弱点は、一方向にしか飛んで行かないこと。前方向、後ろ方向。決められた一方にしか飛んで行かないそれだから、スイはあえて上空へと打ち上げたのだ。
そうすれば勝手に散らばってくれる。そして高くなれば高くなるほど地面に達する頃にそのズレは大きくなり、目論見通り大陸のあちこちへ散らばってくれるというわけだ。
そうして大陸の至る所に降り注いだ槍は、そこに宿った氷魔法によって触れたものを凍てつかせる。
水も波も、海もすべて氷に閉じ込めてしまう―――。これで、少しは足止めになるだろう。
「……やれることはやったよ、シトラお姉ちゃん」
「ええ。とはいえこれで稼げる時間は僅かでしょうし、所詮は少し滅びを遅らせられるだけでしょうね」
シトラは肩で息をしながら、その場にドサッと座り込んだ。なんせ体内にある魔力、その全てを使い切ったのだ。
そういえばこの勇者、シトラが限界を迎える様なんて見たことが無い。それだけ、この一撃に賭けていたということだ。
「でも、後悔はしてないんでしょ?」
「もちろん。そんなものあるはずがありません」
座り込んで、空を見上げるシトラの表情は疲れながらも満足げだった。
その時ふと、彼女の額にそっと冷たいものが触れた。
ああ、それは雪だった。季節通りの、でも多分シトラとスイの魔法でこの世界を凍結させたせいで降って来た雪だろう。
その冷たさに、シトラはクスッと微笑む。だってまだ生きている。まだ、この寒さを感じられるのだから。
世界の滅びだなんて大それたことを前に、やれることはすべてやった。
世界魔法にも行って、ジャンを相手に嘘までついて、シュツィの呪いを解いて、そして最後には世界すら凍らせた。
とはいえまあ、大陸全土を氷に変えられたわけじゃないし、それでどれだけ効果があるかは未知数だ。流石に大陸全てをカバーできるほどスイの放った槍は数が多くない。
だけど、胸を張ってやり切ったと言える。最後の一瞬まで、諦めず戦い抜いたって言える。
零下の戦場で白い息を吐きながら、シトラは天に向かってその悴む拳を掲げた。
ああ、だからあとは祈るだけだ。私には出来ないことをやってくれる者たちのことを信じて。
* *
「……悪いな。守れなくて」
波の脅威が迫った王都。
海は、水はその広大な都市を容赦なく呑み込んで、外壁を乗り越えて破壊を尽くしていく。
色々な物語を生んだ王都の大通りも、裏路地も。聖剣魔術学園の学生時代、シトラの誕生部プレゼントを買いに行ったデパートも波に呑まれて崩れ朽ちた。
そして今、アザミの目の前で騎士団本部が倒壊した。
ちらり舞う雪の中、それを前にギュッとこぶしを握り締めるアザミ。
そりゃあ、思うところは当たり前にある。騎士団に入ってからも、入る前も。様々な思い出のある場所だから。
何より、それは世界を救うために……滅びを回避するため、それを信じて戦ってきた者たちの思いの集う場所であったから。抵抗の象徴でもあり、戦えない者たちにとっての希望でもあった。
それがついに崩れる。圧倒的な波の、海の、自然の猛流には勝てなかった。
巨大樹の怪物に襲われた時も、魔界の襲撃を受けた時も、そして模倣者の襲撃を受けた時も。いつ何時も決して倒れることなく戦い続けたその騎士団本部が波に消えていく様は……まさに、ひとつの時代の区切りだ。
そんな騎士団本部を守りたかった。けれど守れなかった。
間に合わなかったのだ。迫る水のスピードは思っていたよりも速くて、それは諦めざるを得なかった。
だからギュッと唇を結んで、手のひらに爪を叩てその光景を心に刻む。苦渋の決断で捨てたその建物を、その最後の断末魔を、漏らすことなく。
「……だけど、これ以上は奪わせないぞ」
騎士団本部は諦めた。それは守れないと、アザミは捨てる判断を下した。
しかし、だからって王都を諦めるわけじゃない。
今も戦う者たち、そして今まで戦って死んでいった仲間たちの為にも。この場所だけは何が何でも守らなくちゃいけない。この街だけは、絶対に存続させなければならない。
騎士団本部の隣には王城がある。そして王城を越えたら次は聖剣魔術学園。
これ以上は壊させない。これ以上は奪わせない。
アザミはギリッと奥歯を噛み締めて、そしてその手を真っ直ぐ前に突き出した。
その手に集うは七色の光。心臓はバクバクと普通じゃない鼓動を奏でて、口の中には血の味が滲む。頭はガンガンと殴られ続けているように痛い。血流は大暴れで、ああ無茶をしているなということはアザミ自身が一番分かっていた。
けれど、やらなきゃいけないことがある。やるべきことがある。
元魔王様として。今の騎士団長として。そして何より、この世界に生まれ育ったひとりの存在として。
守りたい今がある。守りたい人がいる。守りたい未来があるから。
「そのためならなんだってするさ。理解されなくたって、分かってもらえなくたってな」
自分がやりたいからそうする。この道はアザミ・ミラヴァードが自分で選んだものだ。
自分がすべきだと思ったからこうする。だから、誰にも文句は言わせない。
「天属性魔術……。俺の全てをやってもいい。だから、全部を守ってくれ」
その覚悟で。アザミは全身全霊に、それを唱えた。
「咲け、‟天壁”―――!」
刹那、爆発するみたいに膨張した虹色のベールが、迫る大波と真正面からぶつかった。
ビキビキッ……バリバリッ……と世界が軋む音が聞こえてくる。それは、凄まじい力と力が衝突して奏でる音。
「時間は稼いだぞっ……セイラム・アガトレイヌ! だから絶対に掴めっ! 絶対に……叶えてくれっっ!」
血反吐を吐き、立っていることも出来ずにアザミは膝から崩れ落ちた。
もうとっくに限界は超えている。それでもここまで戦い続けられたのは、奇跡の他ないだろう。
ぼやけた視界、遠くなっていく意識。ダメだ。それではいけない、とアザミは必死で叫ぶ。
「間に合えぇぇぇぇっっ!」
舌を噛み、這いずってでも身を起こして叫ぶ。あとは託し、そしてそう必死で信じるしか無かった。
そんなアザミの背後で。
カノアリムージュとナァントカムイの見守る先で。
シトラとスイが抗い守った後ろで。
世界の核、それを収めた地下空間から光の柱が真っ直ぐに立ち昇った。
天を穿つ―――その勢いで光り輝いたそれが顕現する。
「‟世界を天に帰す魔法”―――。……ああそうか。そうだったんだ。僕の役目は、僕がこの世界に戻ってきた理由はそういうことだったんだね」
その光の先、世界の核のてっぺんから刻まれる稲妻上のひび割れより、パァーッと放たれる真っ白な光に目を細めながら、セイラム・アガトレイヌはクスッと微笑んだ。
世界の状況は痛いほど分かっていた。その背中にどれだけの人間の希望が、願いが宿っているか。どれだけの思いを託されているか。どれだけの未来を、いまこの手に担っているか。
最後まで諦めることなく願い、祈る人々。そして、世界が滅ぶ最後の一瞬まで抗い続け戦い続ける者たち。
セイラム・アガトレイヌは手のひらを見つめてフフッと笑う。美しい光の中で、頭がぼんやりとする中で。
世界を天に帰す魔法はきちんと使った。ズレは無いはずだ。エネルギーも十分にあったし、ナァントカムイから貰ったその魔法の設計図も完璧だった。
あとは……このまま世界が正当に戻るだけ。
そう。すべては100万年前、スイたち神代兵器の守っていた最終防衛ラインが、エルトラウネの放った夷敵獣らによって突破され、神代が終焉を迎えたことが始まりであった。そうして神の世は終わり、世界は天上から地上へと落ちた。
本来はそこで終わるはずだったのだ。それがどういった奇跡か、あるいはそうなるはずの運命だったのか。世界は支配者を変えて存続してしまう。神様から神族に、そして人やその他種族へと。住まうものを変えて、今へと続くこのテラヴァースがあり続けてしまった。
だから、そのありうべからざる世界。続くはずでは無かった世界を終わらせるためにゾルディナが。そして絶対を冠する神様たち……絶至鬼ナハブ・ジャーガや絶比老アンリロゼらが現れ、最後には大波によって世界もろとも海の底に沈めようとしている。
すべては間違いから始まった。だからこうして世界を天に帰し、正当に戻すことで終わる理由を無くそうとしているのだ。
間違えた世界。異端な世界を正当に。あるべき形、あるべき姿に戻すというのなら。
「……僕の存在は邪魔なだけだね」
そう笑って、セイラムは歩き出した。
世界の核が裂けてその隙間から光が漏れる。その中へと、彼はまるであるべきところに戻るかのように歩みを進めていく。
すべてはこの世界をきちんと天に、在るべき正しい場所へと戻すために。紛い物は、異物は去らなければならない。
これこそナァントカムイが言った役目。そして、ああそうか。
(彼女が僕の命を対価に拒んだのは、それだってもう長くないと分かっていたからなんだろうね)
だから彼女は首を横に振ったのだろう。それを要らないと言って、拒んだのだろう。
最後に謎が解けた。まぁ、とはいえ何がどうなるわけでも無いが。
世界の核。燃えるようにまばゆい光を放ち続けるその石柱の裂け目へと踏み込んでいったセイラム。
「―――おかえり、‟パパ”」
そんな光の向こうで、セイラムを迎えたのは懐かしい声であった。
そこは一転して真っ白一色の世界。さっきまでいた世界……元の世界とは違うどこかというのは確実だった。
そこで彼を待っていたのは二人の少女であった。顔や姿かたちは鏡映しのようにそっくり。違うところと言えば片方は黒髪に白を基調とした装いで、もう片方は白髪に黒基調という色彩の反転具合だけ。
それは世界の意思、修正力と呼ばれる少女たちであった。世界の外側に存在し、その行く末を見守りながら適宜その世界を運命通り運ぶように手を加えたり修正したりする存在。超越者、世界の管理者……呼ばれ方は様々だが、ひとつ言えるのは神様や人間とはまた一線を画した存在であるということ。強さとかではなく、住まう次元の話だ。
そんな世界の外側に戻って来るのは久しぶりだ。
あの日、神代が滅ぶときに彼女らの気まぐれでこの空間に誘致されたせいで、‟肉体は元の世界に在る”のに‟魂は世界の外側にある”という不釣り合いな状況を生んでしまった。
それがセラの誕生に繋がり、その結果色々とバタフライエフェクトみたく世界を大きく変えたのだが……それは昔語ったので一旦割愛。
そんな世界に、セイラムは自らの意思で帰って来た。
「もういいの?」
「ああ。僕の役目はこれで終わったからね。あとは、在るべきところに戻るよ」
戻って来たセイラムに、不思議そうな顔で首を傾げた世界の意思の頭をポンッと撫でて。
セイラムは真っ直ぐ彼女らの傍らを通り過ぎて、さらに奥へと進んでいく。
もうとっくに覚悟は決まっているようだ。誰に何を言われようと、その歩みの向かう先は決まっている。
そんなセイラムの背中を、世界の意思と修正力は振り返りながらフッと小さく笑みをこぼした。やっぱり興味深い。せっかく元の世界に戻って、大切な人とも再会したはずなのに。それなのにまた、しかも自らの意思で戻って来るだなんて。
そんなセイラムの足が止まる。
「……ごめんね。君から居場所を奪ってしまった」
「……謝らなくたっていいかしら。そもそもあたしが、アザミのためにって勝手にしたことだもの」
そこにちょこんと正座する小さな少女。足を止めたのは、彼が向かったのはセラの前であった。
肉体だけ残ったセイラムの辻褄を合わせるべく、その逆、肉体を持たず魂だけの存在である彼女が精霊の姫として。精霊の中でも特異な存在として生まれた。そして、彼女がこの世界の外側にとどまる―――、つまり元の世界から消えることによって再びバランスは崩れ、無理矢理に世界はセイラム・アガトレイヌを取り戻したというわけだ。
だけど、それは本来あるべき形じゃない。だから返すのだ。
これで世界は再び正しい姿に戻るだろう。そんなこの先の世界、この先の未来にセイラム・アガトレイヌはもう要らない。
「この先は君たちの時代だ。だから神代の亡霊はそろそろ引退しなくちゃね」
そう言って、セイラムはセラにそっとその手を差し出した。
すべてやり切った。もう後悔は無い。……と言ってしまうと、嘘になる。
本当はある。せっかくスイにまた出会えたのだから、今度こそ彼女に普通の女の子らしい暮らしをさせてあげたい。そして、そんなスイをいつまでも見守っていたかった。
それなのにまた勝手に消えた自分を、彼女は怒るだろうか。悲しむだろうか。それとも案外何とも思わず受け入れてくれるだろうか。思い残すことは山ほどあって、だから悔いが無いと言えば真っ赤な大嘘だ。
けれどそんな嘘も、世界を元に戻すためならば致し方ない。正当に戻ろうとしている世界にとってセイラム・アガトレイヌが異物であるというのは真実なのだし。
それがもし、世界が天に帰ることを妨げるのならば、その最後の障害であるのならば。100万年前に死ぬはずだった命は、もう十分すぎるほど与えられてしまった。スイとまた会えただけで十分。世界を救う―――守るという、神代でやり残したことを叶えられたのなら、それでもう満足すべきなのだ。
「早くしなきゃ。でないと席が埋まっちゃうよ?」
「……いいの? くれるって言うならあたし、遠慮なく貰っちゃうかしら」
「言ったろ? ここからは君たちの時代だって。だから、戻っていいんだよ。僕の代わりに、長いこと窮屈な思いをさせちゃったね」
セラが世界の外側に残ったおかげで、セイラムは元の世界で再び生き返ることが出来た。肉体だけ、魂はこの世界に囚われていたはずなのに。それは世界の意思や修正力ですら想定していなかった方法により、返ってしまった。
そして生き返った意味。セイラム・アガトレイヌが元の世界の終焉間際に居合わせたその理由、役目はもう果たしたはずだ。
世界を天に帰す魔法を使うことが出来る―――。神代魔法を扱えるただひとりの存在という、その存在意義は十分に示した。
だからもういい。もう役目は終わった。ならば、旧き人間は大人しく去るのみだ。
「……贖罪ってわけじゃないけど、君の戻った向こうにプレゼントも残してある。まあ、好きに使ってくれ」
「プレゼント?」
「ああ。それは帰ってからのお楽しみ、かな」
「そう。じゃあ遠慮なく……貰う、かしら」
セラはニコリと笑って、そしてその手をゆっくりと伸ばし……セイラムの差し出すそれにちょこんと触れた。
「―――サヨウナラ、もうひとつの僕」
刹那、彼女の姿はバチンとはじけ飛ぶみたいにこの真っ白な世界から溶けて消えた。
元の世界に在るべきか世界の外側に在るべきか。それが定まらず不安定にあった二つの存在、触れ合うことで歪みが解消されたのだ。だからやっぱり……
「……世界にとって正しいのはあの子の方。だったってことね」
「……そうだろうね。所詮僕は神代に生きた、旧い時代の人間でしかないからさ」
感覚は……特に変わった覚えはない。元の世界にいた頃とそこまでズレは無いようだ。
でも、もうセイラム・アガトレイヌという存在は元の世界から消えている。そして、彼の魂は再び世界の外側へ戻って来た。
「おかえり、ぱぱ」
「ああ、ただいま」
セイラム・アガトレイヌは高い天井を見上げ、そして息を吐き出す。それは諦めでも無い、落胆でも無い、ましてや絶望でも無い。
かつてはどこまでも無限に思えたこの場所での生活も、窮屈だった空は久しぶりに見ると何だか高く思える。でも、そこにもう永遠に囚われることは無い。
セイラム・アガトレイヌは留まることなく、さらに先へと歩みを進めた。
すると、そこにあったのは巨大な扉。さっきまでは無かったはずのものだ。
そしてその正体を、ここにいる皆が知っている。その扉の行き着く先を……彼女たちは知っている。
「……いっちゃうの?」
「ああ。だから、ごめんね。せっかくおかえりって迎えてくれたのに、またすぐにサヨウナラだね」
「……遊び相手、またなってくれるって思ったのよ? 嬉しかったのよ?」
「……ごめん。でも遊び相手ならまだこの先、いくらでもあるじゃないか」
そう言ってセイラムは振り返り、転がる盤と駒を指さす。
だって世界は救われ、まだまだ続いていく。少なくとも眼前にまで迫った滅びは回避された。けれど、そんな世界がじゃあこれからも万事平和に進むかと言われたら……。むしろ大変なのはこれからだろう。だから、面白いと思える物語はまだ続いていく。遊び相手には困らないはずだ。
「じゃあ僕は‟いく”よ。これでようやく、僕も帰ることが出来るね」
ギギーッとゆっくり、触れずとも開いていく重たい扉。巨大な扉のその向こうには、神々しく温かな輝きがあった。
それを人は天国と呼ぶ。いわゆる、死後の世界というやつだ。
肉体だけ半端に残ってしまったせいで、魂だけが世界の外側に囚われてしまったせいで、これだけ遅くなってしまった。でもやっと、彼もまたその先へ進むことが出来る。
これは悲しい終わりじゃない。むしろ望んだ、欲しかった終わりだ。
そういった意味ではセイラム・アガトレイヌも正当な場所へ戻ったのだろう。その魂も肉体も、在るべき場所にこれから帰るのだから。
「……こっちの世界で皆で待っているよ」
その光の向こうへ。彼は笑って歩いていく。
そこに見える、揺れる8つの人影の方へとセイラムは進んでいく。まるでその影に引き寄せられるように。8人の少女たちに―――そこでずっと待っていた者たちに手招かれるみたいに。
「ずっとずっと、いつまでだって……ね」
8つの影にひとつが増え、閉じゆく扉の向こうには幸せそうな影が9つ揺蕩っていた。
けれど本来、それは10つあるはずなのだ。10人……それでやっと、ひとつの家族になる。楽しかった2年間を、また。
叶う、その時まで。
* *
「……ホント、酷いプレゼントかしら」
その世界で少女は目を覚ました。ぼやけた視界、夜の闇の中で、降る雪の冷たさに頬が赤く染まる。
冷たい。冷たい……のが、分かる。はっきりと感じる。冷たさの中で血の通った手の温もりも、ツーッと流れ落ちる涙の暖かさも、今なら分かる。
地面に寝転がりながら、セラは天にかざした手のひらをジッと見る。よく見るとトクントクンと微かに脈打っているその手のひら。
ああ、肉体が‟ある”という感覚は不思議なものだった。
とはいえ、精霊時代がどんな風だったかと言われても言葉じゃ説明できない。受肉して何がどう変わったか……なんてきっと言葉じゃ言い表せないだろう。
姿かたちはセラのまま、思考だって考え方だって性格だって元のセラのまま。なのに、自分がまるで自分じゃないみたい―――な、感覚だなんて言ったって理解できないだろうし。
本当にとんでもないプレゼントを残してくれたものだ。まさか肉体をそのまま元の世界に残していくだなんて。
まあ、一切セラに容赦することなくオブラートを破り捨てていうならばそれは死体なわけで、セラはそこに宿ったわけなのだが。
そして、不思議なことが起きた。セイラム・アガトレイヌと入れ替わって、セラが元の世界に戻って来たまでは普通。そもそもセラが世界の外側に自ら残ることでセイラムを召喚したのだから、その逆をすればセラが戻って来られるのはその通りである。
だが、そんな戻って来たセラは元の‟精霊”という器に収まるのではなく、残されたセイラムの肉体に戻った。そして、その肉体はセラに合わせて形を変えたのだ。セイラム・アガトレイヌという人間の痕跡をまるで消して、セラという少女のためにそれを作り変えた。
そうして……。セラは肉体を取り戻したわけだ。
ずっとそれを望んでいた。でも、叶うことは決して無いと諦めていた。
知らなかった人肌の温もり。知識では知っていても、精霊であるセラには触覚が無いから。暖かいも冷たいも、寒いも厚いも何も知らなかったのに。
今は雪が冷たくて、今は涙が暖かい。
そして、伸ばした手のひらの指の隙間―――。そこから覗く、肉を持つ存在として見る初めましての世界はなんて鮮やかで、なんて綺麗で。見上げるその空なんて……。
「ああ。この空はまるで―――」
とある場所。子を守るように抱きしめる母親に迫った波は、ギリギリのところで凍りついていた。
「……見て。お母さん」
その凍てつく寒さの中、透明な氷波の向こうに母と娘は空を見上げる。
それは山の頂上。空気の澄んだその場所で人々は何も語らず、ただ白い息のみを吐きながら空を見上げていた。
「これは……なんて言えばいいんだ」
「分かんねぇ。でも、これだけは言える」
「ああ。この世界は、もう―――」
その光景に、その景色に圧倒されていた。
「……たわけが。ひやひやさせやがって、まったく」
「本当だよ。ギリギリまで真っ暗闇だったんだから、さすがのボクも覚悟しちゃったな。でも、もう……はっきりと見えるね♪」
波が引いていく。水が返っていく。
「やった、よな? やったんだよな!? おいユーゴ! やりやがったぞ! あいつら、やりやがった!」
「ああ、そうだね。本当に凄いよ。アザミくん。シトラちゃん。君たちは本当に凄い。誇らしくて、父親として鼻が高いよ。本当に……おめでとう」
海が遠くなっていく。
「綺麗ですね。まさかこんな光景が見られるなんて思っていませんでした」
「……そうだね。これを見られないなんて、セイラムの奴はホント馬鹿なんだからさ」
座り込んだ地面、氷漬けの街に振る雪の中で見るそれは幻想的だった。
「……ああ、ようやく終わったんだな」
王都に大の字で寝転がりながら、もう動けそうにない。けれどその体勢のおかげで、空はばっちりその目に見えていた。彼の足先にまで達した波だったけれど、それがその命まで飲み込んでしまう前に……ぎりぎり間に合ったみたいだ。
世界の核の裂け目から一本の巨大な樹が天に向かって伸びていた。
神々しく、そしてその圧倒的な存在感を誇る大樹が大きな枝葉を伸ばしてそこに在った。
その根元からセラは空を見上げていた。この夜空を見上げていた。
陽の沈んだ世界で。夜の闇の中で。
雪が降る。氷漬けの世界の澄んだ空気と、その凍りついた波や水が砕けて散って舞って、キラキラと反射する中で。
今まさに、その世界は天へと帰って行っていた。
‟世界を天に帰す魔法”によって、その世界はかつてあった場所へとゆっくり浮上していく。
今までの、間違い続けていた100万年の時を振り返るかの如くゆっくりと。でも確かに、天へと浮かび上がっていた。
海からは完全に離脱し、そのおかげで大陸を飲み込もうとしていた水の脅威は去った。
そして、天へと。夜空へと近づいていくその世界。
氷の粒が反射してキラキラと。雪の結晶がふわふわと。
迫る夜空、近づいていく星がピカピカと。
ああ、それはまるで―――
「まるで、星が降るみたいかしら」
大樹の根元より空を見上げながら、セラはその美しい光景をそう称した。
星が降る夜。星の降る夜に、かくして世界はあるべき形へと帰っていく。
ほんの目の前にまで迫った滅びを回避して、その先へ。ありうべからざるはずだった未来へと、舵を切って進んでいく。
そんな運命を乗り越え、壮絶な戦いをくぐり抜けた世界をまるで祝福するかの如く、星は降り続けた。
いつまでも。いつまでも。止むことなく、消えることなく。果てることなく、絶えることなく。
その夜が明けて、そして再び朝陽が世界を照らすまでずっと―――。
それは祝福であり、あるいは未来を取り戻すために散って行った魂のための鎮魂の歌。
天へと帰っていく世界を見送る、そんな葬送の曲だった。降る星も、そして世界を再び照らす陽の光も。全てが全てを讃える。
この夜で世界は終わる。ゆえにもう二度と叶うはずが無かった朝陽は、あまりにも眩しくて。
そして、あまりにも暖かいものであった。
新しい時代の始まり。旧い時代は終わって、新たな世界の夜明けだ。
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