1409話 旧き時代
「……用事はもう終わったのか?」
そこは小高い丘の上。大陸の中心近くにあるため、まだ海の底に沈むには時間がかかりそうなその場所で。彼はふっと戻ってきた気配に、振り返ることなくそう尋ねた。
「ん。とりあえず契約は果たして来た」
ナァントカムイは、そんなカノアリムージュの元へと戻りながら短くそう返す。呼ばれたからそこを離れてアザミたちの元へ行き、そして用事が終わったからまたここへ戻って来る。そんな彼女を、カノアリムージュは何も言わずただ見守っていた。少なくとも今の時点では、どういう経緯かはさておき魔法樹ナァントカムイという存在は絶敵卿カノアリムージュの所有物であるはずなのに、だ。
「……カノアリムージュ様。怒ってる?」
「俺が貴女に? ふっ、まさか。所有物の勝手にいちいち腹を立てるほど、私は度量の狭い男ではないつもりだ。呼ばれたからそれに従って、そして個人間で新たに契約を結んだ。何の裏切りでも無いことをいちいち咎めはしないさ」
そう言ってカノアリムージュは、自分の隣にまで戻って来たナァントカムイの頭をポンポンと軽く撫でた。こうしてきちんと主人のところに帰って来るのだから、やはり咎める理由は無い。それすらぎちぎちに縛ってしまうようじゃ主としての器の小ささを疑われてしまうだろうから。
「それで? 契約の対価は何にしたんだ? 奴らはきちんと、魔法樹の果実を得るためにそれ相応の対価を払ったんだだろうな」
「ん。対価は、‟アザミ・ミラヴァードの半分”を貰うことにした」
「奴の半分? それはまた抽象的な……。とはいえさてはて、あの男は詳しく定義されていない契約に乗るほど愚かだったか?」
その半分が一体何なのか。お金か、命か。はたまた……。
それを明確に定義しなければ後々とんでもないことを吹っ掛けられかねない。ゆえに、契約は極力詳しく具体的にしたうえで結ぶのが常識だった。それを知らぬ者はカモにされて毟り取られるのがオチ。そして、カノアリムージュの知るアザミと言う人間はその穴に気が付かずハマるような愚人では無かった。
「……いや、違うか。この状況だ。結ばざるを得なかった、といったところかな」
だからきっと、そういうことなのだろう。どんな条件であったとしても。それが曖昧であっても、どれだけぼったくりに近い内容であったとしても。世界の滅びを目前とした状況では飲まざるを得ない。それを分かって吹っ掛けたのだからナァントカムイ、純麗潔白な神の使徒みたいな恰好をしながらかなりの腹黒だ。
「貴女のことだ。どうせろくでもないものを貰うつもりなのだろう? さぁ言ってみ給え。半分とは一体、何を貰うつもりだ?」
「心外。私がもらうのは―――」
アザミ・ミラヴァードの半分。確かにそれは半分で、けれどナァントカムイ的には優しい方だ。こんなにも安いのかと、むしろ感謝されるような出血大サービス。その内容がポツリとナァントカムイの口から語られた。それを聞いて、次第にカノアリムージュの口元は微笑に歪んでいった。ああ本当に、嗚呼やっぱりこの少女は狂っている。まあだからこそ、
「―――面白い! それは見ものだな。真実を知った時にあの男の面がどれほどのものとなるか。ああ、見るのが今から楽しみだ」
ふはっと笑うカノアリムージュ。待ちきれない、と身震いまでして。
所有物が所有物なら、その所有者も所有者だ。いわゆる似た者同士というやつ。だからこそ行動を共にしているところもあるのだろう。互いが互いに、面白いものを見せてくれる相手として期待しているみたいな。そんないびつな関係性が見て取れる。
「だがそのためにはこの世界が正当に続いてもらわねば困るな。おっと、今の俺はこの世界の敵でも味方でも無い存在だったよ」
「その点は多分、大丈夫だと思う。魔法も教えたし、状況も理解していた」
「だが果たして奴らに神代の魔法、神の扱う魔法を操れるのかい? そこだよ、私が懸念しているのは」
「ん。それも多分問題ない。癪だけどちゃんと理解してたみたい」
「……へぇ。ナァントカムイが人間を認めるだなんて珍しいこともあるものだ。だが、貴女が言うならば本当に奴は神代の魔法を我が物にしたのだろうね。ああ嫌だ嫌だ。天才というやつはどうやっても好きになれないな」
しかもそれが人間ときた。絶対の神様―――という高台に座を構えてなお、あるいはそれを脅かしてくれるかもしれない存在は気にするものだ。
不思議なものだ。見ていないはずなのに、まるでナァントカムイと同じところに居合わせたみたいに語るカノアリムージュ。きっと、彼の言う‟奴”や‟嫌いな天才”とはナァントカムイの‟癪な相手”と同一なのだろうし。
とはいえ、視界を共有していたとかナァントカムイの思考を盗み見たとか、理由はそう複雑なものじゃない。優れた推察力、そしてこの状況から世界が救われるのだとしたらその辿るべきルートはこれしか無いと分かっているからこそ。彼らが何をするか。何をすべきか、それが分かるというだけだ。
「……本当に嫌いだよ。間違えた天才ほど敬遠したい相手も他にいないね」
「それは、恐れているから? それともカノアリムージュ様は嫉妬している?」
「ハハハ、まさか有り得んな。俺が奴らを嫌うのは、大概の場合天才という種族は自らを努力の人だと謙遜するからだ。選ばれし者はそれ相応に振る舞うべきだ。でなければ与えられた才能の無駄遣い。それは、天に弓引く行為だと思わないか?」
だから、カノアリムージュはセイラム・アガトレイヌという人間を恐らくはこの先も決して認めることは無いだろう。いや、認めたとしても理解することは未来永劫無い。
「……でも、世界を変えるのは決まってそういう人たち。でしょ?」
「だから嫌いなんだよ」
ナァントカムイの言葉にため息をついて、カノアリムージュはチラリと北の方角に目をやった。ここからじゃまだ見えない。もっともっと遠い。けれど、癪ながら分かってしまう。嫌いだからこそ、いや、好き嫌い以前にその匂いを感じ取れないカノアリムージュじゃないから。
「……貴女の言う通りだったな、ナァントカムイ。さぁ、世界の崩壊だ―――」
その方向を向いて、カノアリムージュの横顔は誇るみたく笑っていた。遠くにある、それは王都のある方角。そこからビリビリと伝わってくる凄まじい力の奔流を感じ取ったのだ。
「旧い世界の終わり。そして、新たな世界の始まりか」
その眼は……どこまで見ているのだろうか。未来視じゃない。単純な推察力の高さだけれど。
小高い丘の上から変わりゆく世界を現在進行形に眺める。カノアリムージュは最後までその行く末を見守ることにした。
どこかで二羽の鳥が鳴く。
そして、一羽の鳥だけが青空に駆けて行った。
* *
世界の存亡をかけた一戦。次回、ついに決着の刻―――。
※今話更新段階でのいいね総数→3641(ありがとうございます!!)