1407話 半分子
魔法樹ナァントカムイ。それは現在、過去、未来……この世界のありとあらゆる魔法・魔術を記録した大樹である。
とはいえ本当に木なのではなく、それは少女のカタチをしている。だが、その愛おしい見た目とは裏腹に、すべての魔法を知る―――という領域外の存在であるのだ。
そんな彼女は今、絶敵卿カノアリムージュの所有物である。どういった経緯で魔法樹が彼の手の内に渡ったのかは不明だが、どうやら彼女はカノアリムージュの言うことに従っているらしい。行動も共にしているし、彼女を初めて知ったのもカノアリムージュと同時のタイミングであった。
「……知っていたのかよ、あの神様は」
「ん。当然。カノアリムージュ様は何でもお見通しだから」
チッと舌打ちをするアザミに、ナァントカムイはコクリと頷いた。
知っていた。そう考えると何だか無性にイラっとする。まるでカノアリムージュの手のひらに転がされているみたいじゃないか。
(まぁ、あの神様と交わした約束は互いに‟何もしない”だからな。敵対もしないし、同時に味方もしない。……だったらまぁ、助言してくれないのも当然っちゃ当然か)
それは分かっているのだ。けれど、理屈じゃ納得できないモノというのも確かにあって。味方しないということなのだからこっちに有利な情報を話してくれないのも理解できるが、それでも言ってくれよと思ってしまうのは仕方ない。人間だもの。
「……それで、私を呼んだのは何の用事?」
「それは、カノアリムージュ様から聞いちゃいないのか?」
「知らない。そこまでは聞いてないもの」
首を傾げたナァントカムイは、アザミの悪戯な問いかけにも表情一つ変えることなくふるふると首を横に振るだけだった。顔を覆う半透明のベールがそれに合わせて揺れて、その隙間から薄緑色のさらりとした髪が手招く。どうやら本当に彼女は呼ばれた理由を知らないらしい。
「知らないのに、あの早さで応えてくれたのか。それは、ありがたい話だな……」
アザミはハハッと、少し照れ臭そうに笑った。大声でその名前を呼んでみたはいいものの、それでナァントカムイが現れるかは半信半疑。ほぼほぼ勢いだけみたいなところはあったから。
「それよりもアザミくん。早速本題に入らないと、時間」
「ああそうだ。気にしないで良い所ばかり気になって脱線してしまうのは、相変わらず俺の悪い癖だな」
自覚はあった。だがこの局面、世界の滅びを目前に控えた一刻を争う中でも出てしまうだなんて。もはや治療の施しようも無いだろう。
けれど逆に考えれば、ナァントカムイが現れてくれた……呼ぶ声に応えてくれたことで、普段通りに振る舞えるまでホッと心が落ち着いたということでもある。何も見えなかった真っ暗闇の中で、これでほんの微かに……希望が見えた。
でも、それが本当に希望になり得るかどうかはこれからだ。アザミは小さく息を吸って、そして吐く。まだナァントカムイは呼ばれて現れただけなのだから。
「……アンタに尋ねたいことがある」
「ん。なに?」
「‟世界を天に帰す魔法”―――。それに心当たりは、無いか?」
ゴクリと唾を飲み、身構えながらアザミはその本題を問いかけた。重大な一瞬だ。この答え次第で、世界の命運が変わるといっても過言じゃない。もしナァントカムイですら、この世界に存在するありとあらゆる魔法・魔術を保管する彼女ですら知らなければもう手の打ちようが―――
「知ってる」
そんなこの世界の行方を左右する重要な答えにもかかわらず、彼女は相変わらずの無関心さであっさりと頷いた。迷う素振りも、考えることも無くすんなりと。
「知っている、のか」
「ん。そう言った」
その、あまりに淡々と進んだことにむしろ待てをかけたくなるアザミであった。ナァントカムイは、さすが魔法樹の名前を裏切ることなく、アザミたちが今何よりも欲しているものを知っていた。それ自体は心の底から喜ばしいのだが、ナァントカムイが無表情で告げるものだからこっちも釣られてリアクションが取りづらい。
だがとにもかくにも、これで足りていなかった最後の要素が揃ったわけだ。絶対王ゾルディナが世界の核と一体化したことにより、エネルギーはある。使い手もセイラムがいるし、足りなかった魔法の設計図はナァントカムイが知っている。
「……もうひとつ、尋ねていいか?」
「いいよ。なに?」
「その魔法を俺たちに教えてくれる、っていうのは……出来るか?」
あとはそれを教えてもらうことが出来れば万事解決である。あらためてこの世界を天へと帰し、世界の滅びを……今なおすさまじい勢いで海の底に沈んでいっているこの世界を救うことが出来るだろう。
だがしかし、いくら淡々と話すナァントカムイとはいえ、そう簡単に事が解決するはずがない。
「……出来る。けど、何の対価も無くじゃ応えられない」
「無償では無理、か。まぁそうだよな。なにの見返りも無く協力は出来ないよな」
やろうと思えば、その知識をアザミたちに開示することは出来るという。まあなんせそのための魔法樹。知識の殿堂として常世の魔法・魔術を保管しているのだから。
だが、だからこそそれを無償でとはいかない。彼女の現時点での所有者であるカノアリムージュがアザミらと不可侵の契りを交わしているということもあるが、それ以上に魔法樹ナァントカムイが蓄えるその智慧の果実を無償で譲り渡したとなれば大問題であるから。あるいは、世界の均衡が崩れるかもしれない事態なのだ。それほどまでに、すべてを知るということのアドバンテージは大きい。誰もがこぞって欲しがる。ゆえに、カノアリムージュが所有しているということは幾許か疑問ではある。が、今それについてはどうでもよくて。
「分かった。俺は何を払えばいい。カノアリムージュとは‟敵対しない、味方もしない”という契約を結んでいるが、なにもアンタ個人と契約することまでは制限されていないだろう?」
「ん。だから、払うものを払ってくれたら教えることはできる」
カノアリムージュの所有物として、じゃない。魔法樹ナァントカムイと直接契約すればカノアリムージュ個人との契約を裏切ることなく、欲しいものを手に入れることは出来る。だがしかし、
(……さて、どんなものを請求されるんだろうな。ナァントカムイは神様では無いと聞いたことがあるが、けれど人間じゃ絶対に無い。神様でもなく人でもなく、この世の理とも言える魔法・魔術をすべて手中に収めた存在―――。そんな存在と人の身で契約を交わすことがどのような意味を持つか。分からないアザミじゃない。けれど、今はそうも言っていられない。たとえ悪魔に魂を売ってでも、ナァントカムイの記録を知らなきゃいけないのだ。
「その払うものっていうのは一体、何なんだ? お金、じゃないよな」
「ん。そんな俗世の紛い物になんて興味ないから」
「なんて言い方だよ。まぁ、天上じゃこの世界の通貨なんてただの薄っぺらい金属でしか無いか」
まあ、分かっていたことだ。お金で解決できることじゃないと。
こういう場面ならむしろ金で解決できた方が楽まである。そう、お金とは便利な代物なのだ。それを払うだけで互いの合意を形成できるのなら、これほど便利なものはそうそうない。だからこそ、役立って欲しい場面でこそ無力になるその魔力が恨めしい。大事なことになればなるほど、最後の最後で答えを左右するのは金にならない何かだ。
「気持ちの問題でも、まさか無いだろう?」
「当たり前。それこそ一銭の価値も無い。あなたに頭を下げられても、必死にお願いされても、私には何の得も無いから」
人情だとか情けだとか、そういった綺麗なモノでも無いらしい。ナァントカムイはさっきからずっと無表情で……といってもベールに覆われている所為で実際のそれが見えるわけじゃないのだが、雰囲気はずっとツーッと一本線のまま。それが、この話になった途端分かりやすく興味が消えたから、ああ本気でこれだけは無いのだろう。ナァントカムイに、この少女に限って泣き落としや状に訴えかけるやり方が通用するとは思えない。
「だったらやっぱり、そういうことか」
アザミは重々しくその口を開く。本当は最初から分かっていたのだ。無償ではまさか無くて、とはいえ彼女の求める対価というのがお金や気持ちなんかじゃないと。こういう時の相場というのは大抵決まっている。そう、
「―――命と引き換えに、だろ?」
アザミは覚悟の決まった目で、ナァントカムイを真っ直ぐに見据える。そりゃあ、本音を言うならば命を差し出す真似なんてしたくない。だってせっかく救った世界、手に入れた未来に自分がいないというのは悲しいところがあるから。
けれど、世界の行く末とアザミ・ミラヴァードという人間の命。どちらがより大事かなんて、天秤にかけるまでも無い。だから、それが‟世界を天に帰す魔法”を手に入れるための代償だというならば、アザミはそれを支払うつもりであった。
それなのに、アザミの覚悟とは裏腹に、ナァントカムイの反応は冷たいものであった。
「……えっ。要らない」
「ああ。世界の為なら俺の命なんて安……なんだって?」
想像していなかった答えに、アザミは思わず聞き返してしまう。だって、こういう時の対価とは金や気持ちじゃないのならば命だろうに。手に入れたいものと、しかし代償に払うべき命との両天秤による葛藤……というのがありふれた流れのはずだ。
それが……「要らない」、とはこれ如何に。あと「違う」ならまだしも、要らないだなんて拒否されたらそれはそれでショックを覚えるものだ。いや、命を払いたいわけじゃない。わけではないが、けれど拒否されるのはなんか違う。まるで価値が無いみたいに聞こえてしまうから。
だが実際に、ナァントカムイがその対価を拒否したのはその悲しい理由そのままであった。
「要らない。だってあなたの寿命はもう、代償と出来るほど残っていないから」
ご丁寧にもう一度拒絶を示しながら、ナァントカムイが続けたその理由は……何も言い返せない。
本来は命と引き換えに、あるいはそれに匹敵するだけの何かと引き換えに得られる知識なのだろう。まあ分かりやすいのが命なので、自らと引き換えに知恵を得るかそれとも生贄を差し出して知識を貪るかが主流であったのだろう。
だが生憎、アザミの命はもはやそれに足るだけの価値を持っていないらしい。天属性魔術の使い過ぎによって、アザミの寿命は決して長くない。それに関しては本人も何となく自覚していた。そりゃあ、あれだけ派手に使いまくったら限界も近いだろうと。最近は天属性魔術を使うたび心臓にねじ切れそうな痛みを覚えるから、さすがに覚悟を決めかけていたところだ。
けれど、それを実際に告げられると「ああ、そうなんだな」と案外他人事みたいにすんなり腑に落とすことが出来た。何というか、自分だけで抱えていつ来るか分からない限界に怯えるよりも、誰かからそれを告げられる方が諦めもつくという感じ。
「具体的にはあとどのくらい足りないんだ? 俺には、あとどれだけ命の灯火が残っている」
「さぁ。私に聞かれても困る。別に、私はあなたの神様じゃないし」
ナァントカムイは全知全能の神じゃない。人の身に余る存在でも無いが、とはいえ他人の寿命を正確に測る権能は持ち合わせていなかった。出来ないことは素直に出来ないと言える、出来た少女である。
正確な命の残量までは分からない。だが、それが長くないことは分かる。ゆえに貴重な魔法を教える対価とするには足りないと判断し、「要らない」とそれを値踏みしたのだ。
とはいえ、これで交渉決裂……になるわけじゃない。だって、思い返せばナァントカムイは「払うものを払ってくれたら教えることはできる」とはっきり言ったのだから。つまりお金じゃない、気持ちでも無い。命でも無い何かが、その代わりとしてまだあるということ。
「魔法樹に実った魔法の果実を欲するっていうのはイケないことなの。だって、そもそも私はこの世界から‟失われた秘術”なんてものを産み出さないためだけに存在しているから」
知識も知恵もいつかは色褪せて消えてしまう。同じことが魔法、魔術で起これば大損失だ。どのような優れた呪法であっても、その使い手が消えれば失われてしまう。そんな世界にとっての損失を防ぐために、例外なくすべてを記録する魔法樹ナァントカムイという存在が生まれたのだ。それこそ世界を滅ぼすレベルの大厄災級の魔法から、ちょっとした日常生活の知恵までその全てを網羅する。
だから本来、その蓄えられた知識が開示されることは無い。あくまで彼女は記録用の媒体。いわば貸出機能の無い図書館のようなものだ。なんせ、そう簡単にほいほいと太古の魔法や魔術を持ち出されたら世界のバランスが狂ってしまうから。
「……だから、使いたいなら相応の対価を貰う。当然」
「ああ。覚悟はしていたさ。だが、俺の命じゃ足りないんだろ?」
「ん。全然足りない。貰ってもすぐに絶えるなら要らない」
「まだ言うかよ……。だが、そうなると支払えるものなんて……」
アザミは困った顔でポリポリ頭を掻く。命で支払うことを拒絶されて困る……なんて、今日日見たことが無いシチュエーションだ。いや、過去にもそんな摩訶不思議は有り得て無いか。
「だったら僕の命ならどうだ? セイラム・アガトレイヌの命を使えば、その見返りとして世界を救う術を教えてもらえないだろうか」
「セイラムさん……」
「構わないさ。僕だってこの世界には救われて欲しい。そりゃあかつては失望して絶望して、嫌いもしたよ? けど過去は過去、その罪は今を生きる人たちの背負うべきものじゃないって思うからね」
だから、そのためになるならば喜んで選択しよう。セイラムは覚悟の決まった瞳で、ずいっとその身をナァントカムイの前に差し出した。しかし彼女はそんなセイラムをジーッとしばらく見つめていたかと思えば、またふいっと目を背けてしまう。
「……あなたのも要らない」
「どうしてだい? 僕が神代の人間、特異な存在だからかい?」
「それもある。あと、あなたが欠けたらそもそもこの世界は救えない。だから、魔法を教えても有った欠片が今度は消えるだけ」
だから、セイラムじゃアザミの代わりにはなれなかった。それを聞いて残念がるのが正解なのか、それともホッとする方が正解なのか……。
「いい加減教えてくれ。俺でもダメ、セイラムさんでもダメ。なら何を差し出せばいい。言っておくが、全く無関係の人間を贄にするなんて真似は流石に飲めないぞ」
自分を犠牲にするならいい。だが、何の関係も無い人を巻き込むことは到底容認できなかった。それだけは、険しい表情で釘をさす。代理騎士団長としても、本来守るべき人々を犠牲にするなどあってはならない。
「ん。分かってる。だから、迷ってるの。命そのものじゃなくても、それに足る何かを貰えたら……あ、そうだ」
命に代わる何か。それに匹敵するだけの何か。
世界を救う知識の交換材料は安くない。そして、それを思いついたのだろう。地盤が吹っ飛ばされて剥き出しの地下空間にふと風が吹き、その時ナァントカムイの顔を隠していた半透明のベールが少しはためいた。
「なら、あなたの半分を貰う」
その下に覗いた口元はクスッと笑っていた。そして、彼女はそう告げる。
「俺の半分……。何とも抽象的な言い方だな」
「どうする? これ以上にも以下にも、条件はもう曲げないけど」
対価はこれにて決定。交渉の余地は無い。受け入れるか、あるいは破棄するかの二択のみだ。
アザミ・ミラヴァードの半分―――という、曖昧な条件。命に匹敵するという前提がある以上、それはろくなものじゃないだろう。それに、アザミは知っていた。
(……俺はあの顔を知っている。ああ、そうだよ。あれは何かを面白がっている時の顔だ。目の前にワクワクする玩具を見せられた子供の顔だよ)
無表情で淡々とした、感情に乏しいナァントカムイ。だけどアザミは彼女の雰囲気にそれを覚えた。大きな存在がちっぽけなものを前にしたときの反応は、今まで腐るほど見せつけられてきたから。
「……どうする、アザミくん。こういっちゃなんだが、はっきりしない契約に乗るのは愚の骨頂だよ」
「ああ、分かっているさ。盟約は双方に納得できる形でこそ在るべき。ゆえに、俺の半分だなんて曖昧な条件で結ぶことは出来ない。……出来ない、んだけどさ」
アザミはハハッと笑う。手のひらを見つめながら、悔しそうに笑った。
「今の俺たちに……それを受け入れない選択肢は無いんだよ」
そう。そもそもアザミに選ぶ余地は無い。その条件がどのようなものであろうと、飲まないという選択は無いのだ。アザミ以外の人間が犠牲になるならば別だが、この条件で要求されているのは彼自身の何かなのだろうし。なら、何も変わらない。
「……いいの?」
「……いいさ。何を持っていくつもりか知らないが、せいぜい上手く使ってくれよ?」
そう言ってアザミは大きく息を吸って、そして吐く。流石に覚悟は決めなくちゃだった。そのための時間くらいは、せめて許して欲しい。
(俺の半分……か。財産じゃないだろうし、残り寿命でもまさか無いだろうな。ならそのまま、俺の身体の何かでも奪っていくつもりか? 下半身不随……体の左右どちらかの機能喪失。まぁなんにせよ、あの顔をした奴が情けなんてかけてくれるわけないか)
彼女が要求した‟半分”とは一体何の事なのか。分からないし、ピンとすら来ない。だが間違いなく言えることは、その半分が決してくだらないモノなんかじゃ済まないということ。もしかしたら今以上に絶望する……何か、大切なものなのかもしれない。だって命にすら匹敵する代物なのだから。その時点で、ろくなものじゃない。
「魔法樹ナァントカムイ。契約だ。俺の半分をくれてやる。だから―――」
「ん。契約成立。約束通り‟世界を天に帰す魔法”、教えてあげる」
アザミの差し出した手に、ナァントカムイはちょこんと触れた。たったそれだけで契約は成立した。世の中の理すら揺るがすレベルの存在と、たかが人間との間の契約。瞬間背筋がゾッと寒くなったけれど、でももう引き返すことはできない。
いきなり、無垢な少女姿のナァントカムイの影が化け物染みて見えてきた。契約が、双方に繋がりが芽生えたことで今まで隠されていた何かが暴露したということだろうか。そうでなくとも、人知を超えた怪物と契約したモノの末路は大抵悲惨なものと決まっているが……。さて、どうなるだろうか。
「……って、どこに行くんだ? 約束の魔法をまだ貰っていないが」
「あなたにはあげても無駄。だって使えない」
ナァントカムイはふいっとアザミを無視してその傍らを通り過ぎた。その行動に「オイ待て」と怪訝そうな顔をするアザミ。だって、こっちは対価を支払うと宣言したのに約束のモノを貰えないんじゃ詐欺行為もいいところだ。
だが、そんなことを言われるのはナァントカムイ的にも心外。魔法を渡すとは約束したが、けれどそれを‟アザミ・ミラヴァードに”とは一言も言っていない。
「……だから、使うのはあなた。セイラム・アガトレイヌ。神代の人間にしかこれは扱えない。分かる?」
「……まぁね。100万年の時が挟まると色々クセもあるから、僕もそのつもりだった」
その魔法を教えられ、そして使うのはセイラムだ。アザミじゃない。覚悟の決まった目。ああ、だからナァントカムイはセイラムが身代わりを申し出た時にそれを拒んだのだろう。足りない欠片を手に入れても、今まで有った欠片がひとつ消えるだけ。その言葉の意味通りだ。世界を天に帰す魔法を知ったところで、それを扱えるセイラムを失ったんじゃ意味が無い。
「俺じゃダメなのか」
「ダメってわけじゃないと思うよ。アザミくんの素質ならあるいは使えてしまうかもしれないね」
「……なるほどな。まぁ、安全策ってところか」
その言い方に、アザミは小さく息を吐いて「分かった」と頷く。
ならば文句は無い。神代の人間ゆえ。そして原初魔術という神代魔法の派生形を作り出した天才セイラム・アガトレイヌがその魔法を使うか、あるいは‟使えるかもしれない”アザミが背負うか。一発勝負の中で、どちらが合理的に正しい判断なのか分からないアザミじゃない。
アザミはそのまま、スタスタと前へ歩いていく。ナァントカムイと離れていく形で、セイラムから離れていくように。
「……じゃあ、後は頼んだぞ」
「あ、ああ。アザミくんは見届けないのか?」
「俺は……いいかな。それよりもまだ他に、俺に出来ることはあるはずだからさ」
振り返ることなく、そうだけ言ってアザミは駆け出した。そして身軽な身のこなしでひょいひょいと崩れた岸壁を駆けあがって、そしてあっという間にその姿は戦場跡地から消えて、滅びに沈みそうになっている戦場の方へと戻って行った。
(そりゃあ……本音を言えば悔しいさ。欲を言うなら世界を救う最後の一手は俺が打ちたかった。けれど、それに拘ってしくじるんじゃ本末転倒でしかないからな。その役目は譲るさ)
セイラムにしか出来ないことなのであれば、それは仕方がない。ならばアザミはアザミで、最後の一瞬まで出来ることをやりたい。少しでも……最後まで足掻いて、救った世界にひとつでも命を残すために。
「……もうこんなところまで迫っていたのか。案外ギリギリだぞ」
地下……天井は吹っ飛ばされているので地下というよりは大穴なのだが、そこから這い出て目にした王都の景色にアザミは絶句した。
何かが大きく変わったわけじゃない。すでに滅んでいましたなんて身も蓋も無いオチじゃない。ただ、眼をあげたその先に迫りくる大波が見えたのだ。
王都は大陸の北部にある。つまり、海が近いのだ。面してはいないが、それでもあと2,3時間もすれば世界をすべて呑み込んで海の底へ引きずり込むだろう波の魔の手が迫る頃合いとしては自然か。
早くは無い。だから、ギリギリ。見上げるレベルのあの波が王都を襲えば、恐らくそこにあるすべての営みは破壊されてしまう。建物も、それこそ騎士団本部も王城も跡形すら残さないだろう。
そしていずれここにも迫り、世界の核すら水没させてしまう。そうなればもう……世界を天に帰す魔法の使い道は封じられてしまうわけだ。せっかくここまで来たのに、そんな終わり方であっていいはずがない。
だから時間との戦い。あと少し……やっと、足りなかった欠片をその手に掴んだのだから。
迫る大波を前に、アザミは震えた脚をガンッと殴りつける。違う。これは恐れじゃない。武者震いというやつだと自分に言い聞かせて前を向く。
この状況下で、アザミに出来ること。……最後の一瞬まで、その理想を諦めない。
今までやってきた道のりを。ここまでの物語を。そして、その半ばで命を落としていった人たちの思いを裏切らないために。
「俺はっ―――もう逃げない!」
もう迷わない。絶望に負けることも無い。ここに立ち、それに最後まで立ち向かうために。
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