1331話 こえ
世界の真相だとか、その根幹にかかわる重要なことだとか。
そんな話が進んでいる中で、スイはひとり興味なさげに焦点の合わない目を逸らしていた。
「……うるさいなぁ」
だって、そんなものスイにとってはもはやどうでもいいことだったから。世界がどうだとして、この先どうなるとして、スイには関係のない話だ。それを知ったらこの100万年間が報われるのかと言われたらそんなわけが無いし、この先のあれこれ次第で現実が変わるわけでも無い。
「スイ……」
そんな彼女の自暴自棄な呟きは、やけに寂しそうで、けれどもアザミの耳にははっきりと聞こえてしまった。どこまでも合理的で正しい世界によって、等身大以上の絶望を喰らってしまったスイの気持ちは、理解できるだなんて口が裂けても言えそうになかった。しかし、そんなスイを放っておけるわけもない。
「あの……その……」
それは、世界の意思も同じだった。それは本心からその少女のことを心配しているのか、それとも世界の滅びを回避するためにはスイの力が必要不可欠だと、打算的にスイの気力を取り戻させようとしているのか。それは分からないけれど。
フンッと鼻で笑って、スイのことだなんて特段気にする様子もない修正力。そりゃあ、この世界を滅ぼしたい側の彼女にとっては今のままスイが廃人になってしまう方が好都合だろう。だからやっぱり、世界の意思のそれは自己都合の打算なのだろう。
けれど、それでも最早いいとすら思ってしまう。アザミも、結局そうだったから。人のことなんて言えっこない。
どんな言葉でもいい。どんな奇跡でもいいから、スイのぶつかったその結末を何とかしてくれないだろうかと。襤褸切れをギュッと抱きしめて座り込む、そんなスイの痛ましい姿をこれ以上見ていたくなかった。その向こうにある、セイラム・アガトレイヌ……だったもの。その、壊れ切った骸を直視できるはずもなく、俯いてしまったスイだなんてあんまりだ。
(頼むよっ……! だって、100万年もの時間をあいつはたった独りで生きてきたんだぞ? きっと会えるって、また会えるって約束を信じて、そのためだけに生きてきたんだぞ……? それなのにっ……それなのに、結末がこんなのだなんて―――)
有り得ない。あっちゃいけない、とアザミはグッと唇を噛み締める。けれど、その唇からはどんな言葉も紡がれなかった。こうなった今、スイにかけられる言葉なんてアザミにあるはずない。この状況で、一体どんな言葉をかければスイのためになるのかなんて分からない。そんなやるせなさ、無力感が沸々とアザミの中でどうしようもない虚無の怒りへと変わっていく。
「……ごめんね、アザミ」
そんなアザミの方を振り返って、そう痛々しく言葉を切り出したスイは……泣いていた。
その頬を一筋の涙がツーッと流れたこと。アザミは、見逃さなかった。
「謝るな。スイは、何も悪いことはしていないんだから」
「……そんなことないよ。だって約束、守れそうにないからさ」
自暴自棄になって、世界なんてどうでもいい―――そんな領域にありながら、けれどまさスイは純潔な神代兵器のままだった。約束……アザミと交わしたそれを、こうなった今でも彼女はまだ覚えていた。
「私、セイラムに会えたら今度はアザミの力になるって約束したのにね。それなのに、アザミは私の願いを叶えてくれたのに、私にはその恩を返せそうにない……」
「それは……それは、もういい。もういいよ。そりゃあスイ無しじゃ依然として厳しいままだけどさ、でも……」
ハハハと乾いた笑いを携えながら涙する、そんな壊れたスイにアザミは思わず目をそらしてしまう。ああ、本当にこんなスイは見ていられない。こんなにも、あまりにも残酷なこと、あっていいのだろうかって思うから。
そんなスイに「約束を果たせ」と言ってのけられるほど、アザミは冷淡になり切れなかった。約束とは、過去の一点における合意である。未来ではまた状況が違っているのだから、解釈次第じゃ約束なんていくらでも反故に出来るのだ。……そうしてくれてよかった。その方が、アザミも心が楽になっただろうから。
でも、スイにとってはその情けが痛かったみたいだ。彼女はゆっくり、小さくその首を横に振る。
「……なりたくない、よ」
苦しそうに、その喉の奥から絞り出された声。
「私、本当は約束を違える卑怯者になんてなりたくなかった、の。‟ありがとう”って感謝して、‟これからもよろしくね”ってまた、アザミやシトラお姉ちゃんの隣で……約束、果たすんだって。……そんな正直者になりたかったのにね。結局、今の私はどうしようもない嘘吐きだっ……」
どうしようもない―――なんて、言い訳だ。ギューッとキツく噛み締めた唇から血が滴る。
そんなスイの言葉をただ黙って聞いていられるほど、アザミは大人じゃ無かった。いいや、こんな震える少女の言葉を落ち着いて聞くのが大人だというなら、それには一生涯ならなくたっていい。
「こんのっ……! アンタッ、一体何してんだよっ!」
うんともすんとも言わない、セイラム・アガトレイヌだったもの。気が付くと、アザミはその骸にガシッと掴みかかっていた。勝手に体が動いたのだ。無力感によって湧いていた自分への怒りが、スイのそれを聞いてもはや抑えられなくなった。
「なんで眠ってんだよっ! なんで壊れてんだよっ!」
やめ、て……と小さく呟いたスイと、アザミに向けて伸ばされたその震える指先。けれど、アザミはもう止まれなかった。ああ、想いが堰を切ったように飛び出してくる。止めどなく、さっきから黙って聞いていればなんだ。
「目を覚ましてくれよ! ちっぽけな、ただ神様に近づくことが出来てしまっただけの女の子がっ! アンタの望んだ、どこにでもいる普通の女の子がここまで信じて、ここまで想っているのにっ……! それなのにっ、アンタが先に諦めてどうするんだよっっ!」
グラグラとセイラム・アガトレイヌだったものを揺さぶり、そう言葉を正面から浴びせるアザミ。ああ、言いたい文句は山ほどあった。だって、そうだろう。確かに100万年……その何倍、何千倍もの時間だなんて普通の人間には到底待てないものだろう。でも、だからってこれじゃあんまりだ。
アザミの言っていることは滅茶苦茶だ。感情的で、そこには一本通った筋なんてものは無い。珍しく、アザミにしては珍しく、それは100%の感情論だった。
壊れてしまって、息をすることすら放棄してしまって、人であることすらやめてしまったのなら。
強い想いをぶつけて、無理やりにでも起こすしかないじゃないか。
「アンタが死んで、どうするっ……。アンタが眠って、どうするっ……! アンタが、遠くへ行ってどうするっっ!」
ガンッとその頭を揺らして、「なぁ!」と大きな声で呼びかけるけれど。
「……もう、いい。もう、やめてっ……! 私は、私なら……大丈夫、だから」
その骸は何も変わらなかった。何も変わらず、ただ黙ってそれを聞いているだけ。響いちゃいない。届いてもいない。
そりゃあそうだ。スイが呼びかけたって届かないのだから、アザミの声だなんて届くはずが無い。
スイの震える指が、ギュッとアザミの服の裾を掴む。そして、ぽすっとその背中に感じる温かくて湿ったもの。ああ、それが涙だって。アザミの背中に顔を埋めたスイのそれだと気が付くのに、そう時間はかからなかった。
セイラムに掴みかかって、必死になって呼びかけるアザミを放っておけなかった。もうどうにもならない。それは、スイ自身が誰よりよく分かっていたから。だから、これ以上何かなんてしてくれなくていい。それは、いっそ苦しくなるだけだから。
「クソッ……!」
アザミはセイラムを掴んでいた手を放し、代わりに自分の膝を思い切りガンッと殴りつけた。
なんて無力だ。何も出来ない、それどころかスイに余計な辛さを覚えさせてしまった自分はどこまで愚かなんだろうって。
そして……そんなスイの涙を見てもなお、人に戻ろうとすらしないセイラム・アガトレイヌが腹立たしかった。
これが、この骸がちょっと笑って、ただ一声だけでもかけてやれば少女は幸せなのに。それだけで100万年の旅路も、孤独も、すべてが報われるほどには救いになれるのに。
それなのに、それだけの存在なのに……。
なんて。嘆いたってもはや無駄か。
「……ぱぱはこのくうかんにとらわれているの。だからもし、もしね、あざみのこえがとどいてぱぱがめをさましたとしても……。ここからでることはできない、はずだよ」
言いづらそうに、淀みながらも世界の意思は俯きながらもごもごと呟いた。言いにくいけれど、残念ながらその通りだった。セイラム・アガトレイヌがたとえここで目を覚ましたとて、それはこの空間のみでの再会にしかなれなかったろう。
決して元の世界に蘇ることは出来ない。厳密に言えば死んでいない彼だけれど、世界の外側に囚われてしまって、現実世界の円環より外れてしまった彼に、もう戻ることの出来る場所は無いのだった。
「そんなのって……」
アザミは、言いかけてしかしその先を呑み込んだ。ああ、それは今更のことだ。
今まで何度だって経験したじゃないか。世界の意思と修正力から真相を聞いて、何度もそう思ったじゃないか。
世界なんて……。この世界なんて、結局は―――
「……それが世界のバランスだから、かしら。……ホント、どこまでも合理的かしらね」」
ああそうだ。その通りだ。言う通りだ。
アザミは頷いて、「えっ……?」と小さく呟いた。それはアザミの言いたかったことで、けれどその声は‟アザミの口が語ったもの”じゃない。
「ちょっとぐらい融通を利かせてくれたっていいかしら。って思うけれど、でも無理かしらね。合理的で、正しくて、だからこその‟世界”なんて巨大でどうしようもできない存在なのだから」
「……なんで、ここにいるんだ。それにその口ぶり……まさか、何かしようってんじゃないよな」
「何かしたらダメなのかしら?」
「当たり前だ。勝手な真似は許さないぞ。なんせ、セラは俺の契約精霊なんだからな」
少し不安そうに、でもその拒絶だけははっきりと。
振り返ったアザミ。背中でぺたんとうずくまったスイの、その向こうに立っていたのはセラだった。
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