1197話 はじまりの始まり
普段の倍近く文字数が(約7000字)あるのですが、切り所が無かったためそのまま1話で投稿します。
心臓を貫かれた経験なんて有るわけが無かった。
しかし、思っていたよりもそれは呆気ないもので、それには少し拍子抜け。アドレナリンが出まくっているからかもしれないが、痛みで気絶するとか激痛でのたうち回るとか、そんなほどじゃ無かった。
のは、きっとジャンの中に折れない覚悟が一本定まっていたからだろう。
「……なんでっ」
そんなジャンの行動を、理解できないと見下ろすシスル。その構図はさっきまでと真逆だった。さっきまではジャンが手負いのシスルを見下ろしていたのに、今は雪の中に倒れたジャンをシスルが焦った顔で見下ろしている。
魔王シスルは名も無い兵の一撃で心臓を貫かれた。平時であれば有り得ない出来事だが、その時は孤児院の子供たちが乗った馬車が身近にあったゆえに戦い方を制限されていたのだ。そのせいで不覚を取った。
そんな手負いのシスルは、放っておけば間違いなくもうあと数分と経たずに絶命していた。それなのに、それをどうしてかジャンが‟交換の魔法”で自分の無事な心臓と入れ替えたのだ。
こうして、ついさっきまでは瀕死の魔王と無事の騎士団長だったはずが。
雪が積もって体温で溶けるまでの、ほんの少しの間に。瀕死は騎士団長で、無事は魔王の方へと入れ替わっていた。
「なんでかは、言ったろうが。俺だって説明できねぇって」
なんせ、それは直観なのだから。まあ、直感で自分の心臓と相手の心臓を入れ替えるなんて真似をされたら、普通の場合でも理解が追い付かなくて当然だ。くわえて、貫かれて死を待つのみの心臓を自分自身で引き受ける―――だなんて、無謀無茶の、理解なんて出来るはず無い所業だ。
シスルの胸元は、服こそ破れているし、血もべったりとついているけれど。でも、傷はすっかり治っていた。代わりに、ジャンの方は……見るもグロい惨状。心臓を貫かれたらこれだけの血を失うのかと、冷静に見下ろして笑ってしまうくらいには現実離れした状況だった。
まあ、普通であれば失血死の前に恐怖で意識を失っているだろうに。あれだけ意識を保ったシスルも、この状況で笑っていられるジャンも、現実離れ人間離れした存在なのだが。
「……説明は出来ねぇ、が、まあ。俺はどうせ、先のない命だからよ」
「先のない……?」
「ああ。テメェら魔界に教えるかよってなァ。実は俺、もうそろそろ病で死ぬんだわ」
初耳だった。困惑するシスルに、「だからここで死んでも関係ねぇの」とジャンは軽薄に笑った。
病で死ぬか、戦場で死ぬか。その違いだけだった。結末は決まっていて、たぶん迫っていて、選べるのはその死に方ぐらい。だから選んだ、それだけだった。
「だが、だとしてもなぜ俺を助けた!? だって俺は、アンタら人界にとっては悪の……魔王、だぞ?」
「……ああ、そうだな」
その通りだ。シスルの言う通りだった。その言葉や表情も、もう朧げになった意識の中でジャンは頷く。そもそも心臓を交換する前から彼は死にかけだったのだ。それを引き継いだことで、死へのカウントダウンがまさかリセットされるなんてはずがない。
「確かに、テメェを救えば人界にとっちゃ不利益なんだろうぜ。このまま、何もしなきゃ魔王は死んで、人界はたとえ俺を欠いたってあるいは……勝てる、かもしれねぇ」
魔王シスルをここで討ち取れたことを幸運として、このまま戦争を続ければ勝っていたのは人界だったかもしれない。それほどまでに、魔界における魔王という存在は大きいものだから。
ジャン・ミラーを失った人界で、果たして魔王シスルを倒せるのだろうか。この先、ジャンの死後の騎士団を待ち受けるのは苦難の道だろう。それだったら、せめて魔王シスルはここで殺しておくべきだった。何もせず、その死を見送るべきだった。
「……だったら、どうして―――」
それなのに。
シスルは困惑を大きな声でジャンにぶつける。しかし、その言葉を最後まで言い終わる前に。ジャンの手がガシッとシスルの腕を掴むと、グイッと自らの元へ引き寄せた。
その力はやけに強くて、まさか死の間際にある人間のものだとは信じられないものだった。そして、グッと近づいたその顔面の、鋭い眼光に射抜かれたら、たとえその力が弱いものだったとしても、振りほどこうとは、抵抗しようとはしなかっただろう。
「―――テメェしか、いねぇんだ」
癪だがな。そう末尾に付け加えて、ジャンはシスルの目を真っ直ぐ見つめながらそうはっきりと告げた。
その声はかすれていたし、息も絶え絶えだったけれど。それなのに嘘みたいにはっきり、その声の内容は聞き取れた。
「俺が死んだあと、お嬢を……あの子を任せられるのは、テメェしかいねぇ」
「お嬢……って、まさか―――」
信じられないと、ハッとした表情を浮かべたシスルに間髪入れずジャンは「そうだ」と頷いた。
「他にいねぇだろうがよ」
「いや、だがしかし……俺は敵だぞ? なのにどうやって……」
「どうにかすんだろ」
「滅茶苦茶な……。言うのは簡単だが、それは……」
死にかけて馬鹿になっているのだろうか。ボケるタイミングでも無いし、とシスルは首を横に振った。そんなものを任される理由も分からなかったし、そもそも、任されたとして何も出来ない。
「……頼む。もし俺が死ねば、あの子は今度こそ騎士団の武器にされちまう。本人の意思とは関係なく、その命を利用されちまうんだよっ……」
それなのに、ジャンは少しも折れることをしなかった。震える指先で、それでも力いっぱいにシスルの腕を握り締め、血の滴った口元を真一文字に結んで、それこそ決死の瞳で彼を見上げる。
ジャンにとって唯一の心残りが、シトラス……アリスを残して死ぬことだった。
今まではジャンがその傍らにいたから止められた命令も、この先はそうもいかないだろう。妹だからと、ジャンはシトラスのことを、本人が望もうが決して武器としては扱わなかった。けれど、今後はジャンの代わりにシトラスへ命令を下す何者かはそんな事情なんて知るよしもない。面倒な奴がいなくなったと、喜んでシトラスに無茶を課すだろう。
そしてきっと、そんな命令でもシトラスは決して断らない。搾りかすになるまで人界に、騎士団に利用され、最後は戦場に捨てられるのだ。
そんな人生を歩むであろう妹をそのまま残して死ぬなんて……それだけは、絶対にしたくなかった。
だからそのためにも誰かにあとを任せなければならない。でも、それに足る存在がいなくて。
「だが、だからといってそれが俺では……流石に、ダメじゃないか?」
「そりゃあ、俺だって……憎き魔王に妹を任せるなんて、したくねぇよ」
「なら―――」
「だけど! ……だけど、テメェになら任せられるって思ったんだ、よ」
根拠はない。何度も言うが、それはジャン・ミラーの勝手な直観だ。
けれど彼の直感は今のところただの一度も外れたことが無かった。
「だから、頼む……。もしもテメェが、救われたとちょっぴりでも恩を感じているのなら……頼むよ」
ガフッとジャンの口から大きな血の塊が零れる。ゲホゲホッと激しくせき込んで、血は方々へ飛び散っていた。シスルの腕を相変わらず握りしめる指からも力が抜けてきて、その眼すらも焦点が合わず、ゆらゆらと揺らぎ始めていた。
けれど―――。
「……頼む、魔王。あの子を、幸せにしてやって欲しい、、」
ジャン・ミラーはシスルの瞳の、その奥底を……心の奥底までジッと見通すように。そうはっきりと訴えた。
その様子はただ事じゃ無かった。言っている内容は、頼みごとの中身は滅茶苦茶で、まさか引き受けなんて出来るわけないと思う……思いたくなる、けれど。
「……っ!」
シスルはゴクリと唾を飲み込んだ。気が付くと、金縛りにあったみたいに身体がピクリとも動かせないでいた。全身が寒くて、背を伝う汗の冷たさがいっそう染み着いて凍るよう。
そして何よりも、その言葉が何度も頭の中で反復していた。脳の奥片隅に、杭を使って一生消えない濃度でギリギリと刻み込まれたみたいに……その言葉が、何度も響く。
「アリスを、助けて……くれ」
それは、呪いだった。その瞬間……シスルの中で何かがガチャリと音を立てて縛られた。見えない鎖が蠢いて、きっとこの瞬間に彼は呪われてしまったのだ。
「お、れは……」
「頼んだぜ。まお、う。俺の代わりはテメェ、しか……い、な……」
フッと微笑んで、そこで満足したみたいに死が加速した。スーッとシスルの腕を握っていた指から力が抜け、それがふらりと雪に落ちる。力強く見上げていた瞳の中の光も、次第に霞んで、そして……消えた。
「……はぁ、はぁ」
シスルは握られていた跡形の残る左腕をギュッと押さえ、ドサッと雪の中に尻餅をついた。
(俺は、命の代償に何を、受け取った……?)
だから、それは呪いだ。
決して解けることのない呪いだ。
積もった雪は、もう溶けることなくさっきまで人間だったものを容赦なく白に染め上げていく。
その躯の傍らで、シスルはグラグラ揺れる瞳で自分の手のひらをただ見つめていた。ぼやけた視界、曖昧に映るそれ。果たしてそれで掬えるというのだろうか。
代わりなんて……なれっこない。
けれど、助けてくれと言われてしまった。救ってくれと、託されてしまった。
その対価に命を受け取った。本当なら、ここで雪に埋もれ冷たく眠るのはシスルだったのだから。
「……こんのっ、バカ兄貴がっ!」
そんなシスルの心なんて知らず、満足そうに薄っすら笑みを浮かべながら眠るその男は呑気なものだった。
こっちはこの瞬間、決して消えることのない呪いを受けてしまったというのに。
かくして、騎士団長ジャン・ミラーは死んだ。享年27の短い人生の幕をそこで降ろした。
それは、『短ければ明日、長くても1年』と余命宣告を受けたあの雪の日からちょうど1年後のことだった。
そんなジャンの死については、騎士団長であるにも関わらず謎に包まれていた。なんせ目撃者がいないのだから。この奈落の底で何があったかなんて、当の本人とシスルしか知らない。死人に口は無いし、魔王はたとえ真実を語ったとしても恐らく人界の誰もが信じなかったろう。
後々、ジャンの率いた部隊にあったとある騎士団員はこう証言した。
―――ジャン様は討ち取った魔王シスルを追って奈落の底へ向かわれた。
と。それが彼の生涯で最後となる証言で、その後の足取りはさっぱり闇の中。
そして、そんな証言の次に彼を見たのは、
「……何を、しているのですか?」
シスルは氷のように冷たいその声を背中で聞いた。この気配、この殺気……振り返らないでも分かる。
それに、この高さを平然と飛んで降りて無事である時点で、誰かなんておのずと絞られるし。
(まったく。考え、整理する時間すら与えてくれないんだな)
シスルはゆらりと立ち上がりながら、はぁーっと白い息を吐いた。
そして、ゆっくりと振り返る。振り返りながら……シスルはその呪いを受け入れた。
「……お前を救ってやるよ」
こんな時、どんな顔をすればいいのか。相応しい表情と、感情を作って背後に立つ少女に向かう。
なまじ頭が回るせいで、それが分かってしまう。無茶な頼みでも、シスルなりの救い方というやつを。
「遅かったな、勇者シトラス。そのせいで残念ながら、もう手遅れだ」
その言葉にシトラスはシスルの奥……そこに倒れている人影をジッと見た。
パッと見て分かる。それは致命傷だと。血を流し過ぎているし、そもそももうすでに息をしていない。
死人、死体。死というものは、戦場において隣人も同じ。どこにでもいて、いつでもいる。飽きるほど見てきたし、今更それのひとりやふたり、増えたところでどうも思わない。
そう無表情で冷淡に構える自分―――は、妄想の中の自分だった。
「うっ……うわ、ぁぁぁっっっっ!」
冷静な妄想の自分から、現実の自分を見る。それは、まさか自分自身とは思えない姿だった。
滅茶苦茶に叫び、荒々しく聖剣フィルヒナートを振るう自分。これが……シトラスの姿?、って。本人が一番驚いていた。
そこに死んでいたのはジャン・ミラーだった。けれど、ジャンなんて所詮はただの主。自分という剣を預けた主で、亡き後は別に他の持ち主の手に移るだけだ。悲しいという感情も、喪失感も、まさか無いだろう。
そう思っていたのに、いざその瞬間に出会ってしまうと、想いが溢れて止められなかった。
なぜだろう。どうしてだろう。彼に対して何か特別を抱いていたわけじゃ無いのに。誰かの死なんて今まで一度も悼んだこと無かったのに。
なのにどうして……ジャンを殺されたことにだけ、こんなにも心がズキズキ痛むのだろう。
なのにどうして……ジャンがもう二度と動かないという事実に頭がぐしゃぐしゃするのだろう。
なのにどうして……どうして……どうして……が、尽きないのだろう。
「……そうだ。俺を恨め。俺だけを恨んで、俺だけを殺せ」
そんな彼女の剣を真正面から受け止め、シスルは冷淡な瞳でそう告げた。普段のシトラス相手ならそうもいかなかっただろうが、冷静さを欠いた今の彼女の剣であれば素直に受け止めることが出来た。
「あなたはっ……魔王シスル!」
その顔を、忘れまじとシトラスは見つめる。感情のない兵器だったはずの人形少女は、今、何よりも人間味に溢れた顔をしていた。それをずっと願い続け、そのために戦ってきたジャン自身の死がそのきっかけだったのは何とも皮肉なもの。
「許さないっ……! 絶対に、あなただけは私が殺すっ……!」
「……ああ。それでいい」
フンッと笑って、シスルはシトラスをドンッと突き押した。変に力が入っていたせいだろう。シトラスの身体は何とも呆気なくドサッと雪の中へ倒れる。脆いものだ。勇者とて人間。支えを失えば、こんなにも脆く……。
(……いいや。あの目はいずれ、本気で俺を殺しに来る奴の目だ)
ここで折れることは無い。きっと立ち上がり、恨みを糧にいずれ魔王を討つ―――そんな勇者の目を、彼女はしていたから。
シスルはそれを見下ろしてフッと笑った。大胆不敵に、そう笑みを残してくるりと踵を返す。
「忘れるなよ。俺はアンタの敵で、生きる理由なんだから」
そう……これでいい。シスルはシトラスに見えないところ、背を向けた去り路にスッと目を伏せた。
憎まれ役で、嫌われ役。騎士団長ジャン・ミラーを殺したのは魔王シスルだと、これでシトラスは信じたはずだ。おそらく彼女の中には今、禍々しいほどの恨みの感情が渦巻いていることだろう。それでいい。それを糧に生きて、生きて、シスルを殺すことを目的に生きてくれたら。
それは、ジャンの望んだ通りの幸せじゃ無いかもしれない。いいや、きっとそうじゃないのだろう。
でも、それが今のシスルに出来る精一杯の救いだった。
(とりあえずこれで勇者シトラスを縛る鎖は一本消えた……な)
恨みの力とは凄まじいものと、シスルは知っていた。居ても立っても居られないその抗えない力なんて、たかが騎士団如きが縛り付けられるはずがない。
(そしたら、最後に……あとひとつ)
そんな雪の日、シスルが目論んだことはわりと正解だった。
ジャンの予測通り騎士団はシトラスを完全に手中に収めてしまい、自由に扱える武器として支配しようとした。しかしそれは叶わず、シトラスは聖騎士として与えられていた特別な権利を勝手に使うようになる。
それからというもの、シスルの赴いた戦場には必ず勇者シトラスが現れるようになった。殺すつもりで攻めてくる彼女との間に、それから1年の間に一体どれだけの戦闘をしただろうか。勇者と魔王の逸話、争いは全てその1年間だけのものだった。
(これでジャンの懸念していた未来は回避できたはずだ。だが、これじゃあ完全に救ったとはいえない。だから―――)
シトラスと剣を交えながら、シスルはあるひとつの想いを抱きながら戦っていた。
(忘れません、ジャン。あなたが生きていたこと……私にくれたすべてを、私はきっと忘れない。だから―――)
シスルと魔法を交えながら、シトラスはあるひとつの想いを抱きながら戦っていた。
(勇者シトラス……アンタを真に解放するために―――)
(魔王シスル……! 仇であるあなたを絶対に―――)
聖剣フィルヒナートが世界を凍てつかせ、シスルの制限のない魔法が世界を揺らす。響くは剣同士のぶつかり合う音と、魔法同士が世界を改変していく歪みの歌。その混戦を幾重にも重ねていく中で、けれどその想いだけは最初から最後の瞬間まで一切変わることなく彼と彼女の中に一本芯となって在り続けた―――。
殺す
単純明快で、たった二文字の想い。
それは、あの日までずっと変わらず。
* *
「やるではないか。勇者シトラスよ」
魔王シスルは、聖剣フィルヒナートを携えた金髪碧眼の少女、勇者シトラスと向かい合っていた。
「魔王シスル。ここまでです―――!」
その言葉とともに先に術式を展開したのはシトラスだった。シトラスのもとに青くまばゆい光が集まり、剣を覆う。
「いきます! 氷花一閃!」
クッと剣を引き、シトラスがシスルとの距離を一気に詰める。
「来るがいい! 魔界の守護!」
シスルはその剣を薙ぎ払うかのように右手を突き出す。途端、その右手から黒い煙が吹き出しシトラスの剣を包み込んだ。
2つの大魔術がぶつかり、すざまじい爆音と光とともに勝負は決した―――。
* *
魔王の一撃は勇者を殺し、勇者の一閃は魔王の首を掻っ切った。
それが、この物語の始まり。そしてこれまでの世界魔法……その紡いだ記憶は、‟はじまり”の始まりだった。
シトラの過去に関してはそれこそ連載初期段階から裏設定として存在していて、そしてここまで描いてきた彼女の過去編のプロットを描いたのがなんと2年半ほど前のことです。それからずっと温存してきた話を何とか描き切った安堵……ふぅ。
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