1191話 副官エイワス・ザッカリア
エイワス・ザッカリアという男は後世に名を遺すような人物ではなかった。
ザッカリア家という上流貴族の長男に生まれたことが、生涯のピーク。家柄は王都の中でも相当上の部類に入る彼だが、それに足るだけの実績を残念ながら持ち合わていなかったのだ。
聖剣魔術学園を中退した彼は、騎士団に入るのではなく地方の傭兵になる道を選んだ。家は優秀な次男が継いだため、エイワスの価値は無いもの同然だったのだ。
しかし、そんなエイワスも放浪の旅を経て騎士団に入ることになる。それは22歳、騎士団の新人の中ではだいぶ遅咲きの部類だ。
騎士団に入って、彼の才能が開花する―――なんてものは幻想。そこでもエイワスは落ちこぼれてしまった。周りからすれば、名家の落ちこぼれを合法的に痛めつける絶好のチャンスである。容赦なくエイワスに向けられた嘲笑は、普通であれば逃げ出すような苛烈なものだった。
だが、泣き虫エイワスと呼ばれた彼だったが、それでも彼はそれから1年、逃げることなく騎士団の中でもがき続けた。
実績はない。だが、実力も無いとは言っていない。
「……これは」
それは、その剣と打ち合ったシトラスが一戦だけで警戒するレベル。無論、まだ粗削りで未熟な所もあったが、でもシトラスと‟一応打ち合える”だけで十分に剣術では優れた部類に入る彼だ。
だが、その実力を彼は騎士団の中で一度も発揮していない。だから弱虫、泣き虫、雑魚と罵られるのだ。勿体ないな、とシトラスはそんなエイワスに思った。
しかし、その後まさか彼が自分の副官に任命されるなんて思っていなかった。
「次の、お嬢のパートナーはコイツだ」
「……少し、考えさせてください」
初めてかもしれない。シトラスはジャンから解散を告げられたその翌日、渡されたその書類の返事を一度保留にした。
嫌というわけじゃ無い。ただ、不安だったのだ。確かに剣術の才覚はあるが、それをどうして隠すのか彼女には理解できなかった。何より、周りから馬鹿にされておきながら、それでもその現状を受け入れてハハハと情けなく笑う彼を弱いとすら思った。
だが結局、シトラスはエイワスを自身の副官にすることを決めた。エイワスの才能を認めたから。彼がその実力を隠し、落ちこぼれるのかという理由を知ったから。まあ、決め手は色々とある。それに、よく考えなくてもジャンの命令だから、というのもある。
「……うぅ。僕なんて、シトラス様の足手まといにしかなれませんよね」
こうして落ち込むのも、いつものこと。剣の才覚はあるのに、それを正面からズバッとぶつける気概が足りないのが彼の難点だった。メンタルが豆腐並みに脆いのも、基礎体力が人並以下なのも、本当に騎士団の中じゃせいぜい可もなく不可もなくの評価しか受けないのも納得だった。
「足手まといなんて、そもそも私に並び立つ者はそういません。気にすることはありませんよ」
まあ、シトラスは独りで魔界の大隊を壊滅させるような化け物である。砂漠で飲まず食わずの行軍も、それでいながら全力ダッシュで横断できるフィジカルも持つ彼女。それの足手まといにならず、ついてこられる人間なんてまずいない。それこそ、ジャン・ミラーが特殊だったのだ。
「そんな私ですが、残念ながら背中には目がありません。ですのでエイワス。あなたには私の背中を任せます。それだけ出来たら十分です」
何も右腕として優秀な働きをして欲しいとか、シトラスという武器に命令を与えて動かしてほしいとか、そこまでの期待はしていない。出来るとも思っていないし。
だから、エイワスはただシトラスの第三の目になれればそれでよかったのだ。シトラスが前だけを見られるよう、その背中を守るだけの力があればそれでいい。……この怪物少女なら後ろに目もついていそう、という妄想をしてしまうが、一応シトラスも人間である。目は前に二つしかついていなかった。
「そろそろ十分に休めたでしょう? 再開しますよ。出来れば今日中に次の戦場へ達し、明日より戦い始めたいので」
「ひぃっ……!」
足を止めたのはせいぜい3分ほどか。シトラスはクルッとエイワスに背を向け、またスタスタと歩き始めた。
足元に纏わりついて体力を余計に奪う砂地だとは到底思わせないほど、軽やかな足取り。見かけ通り、天使の羽でも生えているんじゃないかって思うほど……その身のこなしは軽く、美しさすら覚えた。
(もしここが、一面の銀世界なら……。シトラス様はおとぎ話の中に出てくる、本物の天使と見惑うほどだったのだろうなぁ)
エイワスは、そんなシトラスの背中にふと思う。その距離は……なんだろう。手を伸ばしても届かないはおろか、伸ばす事すら烏滸がましく思わせてくれるような。追いかけても追いかけても決して追いつけない、それは遥かな距離に思えた。
でも、彼は勇者シトラスの副官である。その背中を任された存在である。
(きっと、シトラス様なら僕なんていなくても問題なく戦場を駆けられるのだろう……)
背中に目は無いというが、きっと彼女なら聴覚や嗅覚、殺気に対する敏感な感覚を駆使して平然と背を守ることだろう。
でも、そんな彼女にお情けかもしれないが、背中を任されたのだ。だったら、ここで立ち止まったり文句を垂れるだなんて―――
「待ってくださぁい! シトラス様!」
目をごしごしと拭って、ガクガク笑う膝を奮い立たせて、エイワスはその凄い勢いで遠くなっていく背中に追いすがる。まあ、相変わらずの震えた情けない声はそのままなのだが。
エイワス・ザッカリアは後世に名を遺すような、偉大な人物ではなかった。
彼がその後の騎士団に名を遺したのは、勇者シトラスの副官であったからというだけ。もしジャンに見初められ、シトラスに認められなければ……。いずれ彼の子孫である者が騎士団長の座に就くことになるのだが、その時チラッと「そんな者もいたな」と一瞬思い出された程度だっただろう。
しかし、エイワスはシトラスの副官になった。隠していた剣の才覚を認められて。というのもあるが、シトラスがエイワスを真に認めたのはそこじゃ無かった。
(……笑われようと、罵られようと自らを貫く強さ。そして、どんな理不尽にでも歯を食い縛ってしがみつく精神力は、きっと私じゃ真似できないものです)
ふと後ろを振り返ると、遠くはあったけれどエイワスの姿が見えた。まあ疲労困憊のせいで、異性にはあまり見られたくない、ぜぇぜぇと醜く酷い顔面をしているのだが……。それでも、その姿はそうそう真似できるものじゃない。
普通なら逃げ出す場面で、彼はもう一歩を踏み出すことが出来る。並の兵士が心を折られる局面で、けれど彼は涙と鼻水でジュクジュクな顔面で立ち上がることが出来る。
そんな強さが、エイワス・ザッカリアの強さだ。決して格好のいいものじゃ無かったかもしれない、いやまず間違っても美しい強さでは無いけれど、でも知る者はそれを知っている。
それが、この時代において騎士団長ジャン・ミラーと勇者シトラス、そして何の因果か魔王シスルにまでその強さを認められた稀有な男―――。エイワス・ザッカリアであった。
* *
時刻はすっかり夜。真夜中、星明かりすら眠る頃。
「やればできるでは無いですか。見直しましたよ、エイワス」
「はっ、ぷっ、はヴゅ……」
何と言っているか分からない。というか、それは人間の発する言葉だろうか。まるで命の残滓を吐き出しているみたいな限界突破のエイワスに対し、同じ距離を進んできたはずのシトラスは顔色一つ変えず平然としているのだから……残酷な対比だ。
「この時間に到着すれば、夜明けまであと3時間ほどは眠れるでしょうか。よかったですね、エイワス。十分に体力を回復できますよ」
ちなみに、そう言ってニコリと微笑む彼女に悪気は一切無いのである。この少女は本気で、たった3時間眠っただけで死の淵にある人間がすっきり回復すると思っているのである。
(そんな化け物、シトラス様だけですよぉ~~!)
そう文句、もといツッコミを入れたくもなるが、残念ながら今のエイワスにそんな余裕は無い。ろくに喋ることすらできないのだから、まあ当然。
「……」
フラフラな足取りで、けれどたった3時間とはいえ眠れないよりはマシだ。エイワスは前線、騎士団野営地に張られたテントの中に消えていくと、そのまま倒れ込んで気絶した。
「おかしなエイワスです。戦場で、しかも最前線の戦場で3時間‟も”休息を取れることがどれだけ貴重なことか。まだ日が浅いからありがたみを理解していないのですね?」
おかしなのはお前だ、と。そうかつてなら頭をポンッと叩いてくれた存在は……いなかった。
シトラスは無意識に自分の頭をさすさすと撫でる。ジャン曰く、自分の感覚は普通とは違うらしいから。理解は出来ないが、でもジャンが言うならそうなのだろう。
(それにしても、最前線ですか……)
半年前まではジャンと一緒に、あちこちの戦場を飛び回っていた。向こうで前線が崩壊しかけたらそこに赴いて立て直し、こっちで前線が崩れたらトンボ返りに戻ってまた戦う。そんな人界の都合いい武器として戦っていた彼女の日常は、今も変わっていない。
変わったことがあるとすれば、隣に立つのがジャンからエイワスに変わったくらい。
自分の在り方が命令にただ従うだけの武器から、自ら考え行動しなきゃいけない一兵士に変わっただけだ。
やることは変わらない。人界の勝利の為、それを至上の命令として受容し、敵を一人でも多く殺して仲間を一人でも多く救う。それだけだ。隣が誰であろうと、自分が何者であろうと、それだけは変わらないものとしてシトラスの中に咲く。
(確か、ジャンも同じように様々な前線に立っているのですよね)
共に、ではなく別々に。けれど彼は今でも前線に立ち続けていると聞く。
どうして自分とのペアを解散したのだろう。どうして解散しておきながら、後方に下がるでもなく今も戦場に立つのだろう。
(……本当に、ジャンに関しては分からないことばかりです)
おもむろに腰かけた石から、見上げる夜の空に思わず嘆きの息を吐き出す。
出会ってから、ずっと今まで。ジャン・ミラーという存在だけはどうにも分からないままだった。徹底してシトラスのことをその名で呼ばない態度も、武器である彼女を人間扱いしてくるのも、他に者たちとは違った感情を彼が自分に向けていることを理解していたから。でも、その感情が何なのかが分からない。
自分は世界を守る勇者だ。それなのに、そんな彼女を守ろうとするジャンが最初からずっと理解できないままだった。
それでも曲りなりに、悪くないコンビだったと思っていた。なのになぜ、それをいきなりあんな形で解消したのだろう。
(終わる時は私かジャン、どちらかの死のみだと……私は思っていたのですけれどね)
だからちょっぴり裏切られた気分。もしここに鏡があれば……シトラスは、まさかの自分を知ったことだろう。
無意識に頬を膨らませ、足をバタバタとさせるその様は……。ここが戦場で無ければ、どこから見ても妬く普通の少女だったから。
しかし、お互いにあちらこちらの前線を飛び回るのならば、いつかその足が重なる時も来るのだろう。
気まずいだろうか。いいや、その時こそこの感情の答えを請おう。シトラスはモヤモヤする胸をギュッと握りしめてそう頷いた。
ジャンのせいで思い悩まされるなんて癪だ。
どうして、なんで。その答えを知って……そして後腐れなくすっきりと、この戦場で生きて生きて、そして死にたいから。
だが、そんなシトラスの期待は空しく。偶然か、それとも人界の最前線がそれ以降、思いがけず荒れたこともあってか。
その‟もう一回”が重なったのは、季節も変わったそれから半年も後のことだった。
嫌いな、冬。それは別れの季節。それはサヨウナラの季節。
歪んだ歯車。それでもギリギリで回っていた歯車。
それが、完全に道を違える日はついにやって来た。
シトラ・ミラヴァードの世界魔法、あるいは過去編もいよいよクライマックスへ。
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