1050話 誰でもあり、誰でもなかった女の子(5)
期待なんてしちゃいけない。希望なんて、持つだけ無駄だから。
どうせ裏切られるし、どうせ何も変わらないのだし。
終わらない私、終われない私。終わりたくても延々と続くことしか許されない私。
でも、それは諦めだ。幾星霜にも繰り返した生と死の中で、‟どうせ”と吐き捨ててしまった可能性だ。
そんな先の見えない暗闇の中で、声を上げることすら馬鹿らしくて、下を向いて虚ろに歩き続けるしかしなかった私。
けれど、そんな中にも光があるのなら。手を差し伸べ、向き合ってくれる人が居るのなら。
『助けて―――』
それは、まるで他人事みたいに聞こえてきた。そんなセリフが自分の喉から飛び出しただなんて信じられない。
でも、その言葉の響きはどうしてか悪いと思わなかった。噛み締めるたび、はにかんでしまう。そんな嬉しくて、暖かな響きだ。
少なくとも数万年ぶり……もしかしたら生まれて初めてかもしれない、その四文字。願ったって誰も聞いてくれないと思っていたけど、初めて、それを本気で受け止めてくれる人に出会えたから。
ずっと欲しかった……‟私”という存在だけの価値、名前。
それをくれたこの人なら、もしかしたら本当に私を助けてくれるんじゃないかって。
希望を見た。生まれて初めて、それを目の前にした。
わずかな可能性、些細な未来だとしても、この鬱屈と淀んで重たく溜まった汚泥塗れの人生を抜け出せるかもしれないと思った。
この世界において、幸せと不幸せのバランスはどちらも変わらず同じだ。
その中で、もし、不幸にしか生きられない存在が居たとしたら?
その存在を除いた世界の住人たちの残りにおける幸不幸の配分は、ほんの少し幸せ寄りに傾くだろう。
それが、この少女の在るべき理由。それ以外で存在を許されない、あまりにも合理的なこの世界が生み出した歪み。
希望、期待、明るい未来……。
そんな飾った衣装は、泥被りのお姫様には似合わない―――。
「……ふっ、ふふふっ、ふふふふふっ」
前向きな流れをぶち壊すみたいにパロムが笑った。大量出血で朦朧とし、可笑しくなったのかと一蹴してもよかったのだが、どうにもそういう雰囲気じゃなさそうだ。
「ああ、おめでたいですね。生贄としての人生を覆し、救われて、まともに生きられるだなんて……まさかそれ、本気で思っているのですか?」
狂った目でアザミを見上げながら、シュツィに対し絶望を突きつけるその言葉と、ニヤリとほくそ笑みながらどこか投げやりの表情。
「もういいですよ。供物としてのそれを取り返すことはどうせ叶わないのでしょうし。本当を言うなら神聖な儀式を踏んで星神様へ御命を捧げたかったですが、それもこうなってしまえば無駄でしょう。……けれど、形はどうあれその娘は今日、死ぬために生きてきた。それだけは覆すことを許しませんよ」
地面に引かれた境界線。それを越えれば人界への侵入になり、シトラの手で容赦なく粛清されるのだろう。それはパロムが身をもって体験済みだ。
痛みをもって狂化を解かれた星天の庭の住人達。この線をまたいでシュツィに触れられる人間なんて、もうこの場には居ないだろう。であれば、生贄として彼女を神に捧げるという彼らの信仰はここで打ち止めだ。
でも、諦めたにしてはパロムの言い草がどこか含みを持っているように聞こえた。
「……何が言いたい?」
「つまりね、それは放っておいても今日限りの命ということですよ」
フッと笑ってパロムが口にしたその事実に、アザミは「なっ……」と絶句し、シトラはハッと口元を押さえる。
そんなこと……信じたくはない。でも、星天の庭の狂い具合を考えれば、それを有り得ない戯言だと一蹴することは出来なかった。
「素晴らしいわね。ミリャちゃんたち神代兵器でもそこまでの管理はされてなかったよ? 下衆め。まさか、この子に何か仕込んでたなんてね」
澄んだ瞳でジッとパロムを見つめながらそのセリフ。神代兵器として、形は違えど縛られた人生を歩んできた少女同士だ。なるほど、と彼らのたくらみを理解するのだって必然的に速い。そんなミリャの一言に、シュツィは何か思い出したみたくポツリと呟く。
「そういえば私、聖水だって聞いて毎日……水、飲まされてた」
「水……ああ、そういうことか。さてはその中に何か混ぜてやがったな?」
それを聞き、ギロリとパロムを睨みつけるアザミ。その、獣をも射殺せそうな怒りだが、信仰に染まったパロムには全く届かなかった。ただニヤニヤと笑うだけ。
「人聞きが悪いことを言いますね。何かって、星の砂を数粒加えただけですよ。まあ、それはひとたび口にすれば一日以上欠かすことを許されなくなる劇薬なのですけどね」
それは気持ち悪くなるほどに徹底した管理だった。生まれたその瞬間から、何があろうと今日この日に死ぬことは決められていたのだ。もし逃げだしたって無駄。本番になって恐怖に駆られ、死を拒否したって逃れられないように。
「……どうぞ、連れて行ってどうぞ。人界へそれを連れて行かれましたら生贄としてではない、普通の暮らしを経験させてどうぞ? と言っても、あと数時間しか味わえない、そんな蜜でよければの話ですけど」
「アンタ一体ッ、どこまで腐って……!」
もう我慢ならない。どこかブチッと切れた気がして、アザミは考えるよりも先に体を動かしていた。いつも割と冷静沈着なアザミにしては珍しい。少女の抱える重くて吐きそうな背景を知り、希望になりたいと願って、それでもすべてをあざ笑うかのごとく‟変わらない”結末という皮肉。そんな怒涛を目の前にして落ち着いていろという方が難しいのかもしれないが。
「いけませんよ、アザミ」
しかし、そんなアザミの怒りを読んでいたみたいに、ガシッとその肩を掴んで止めたのはシトラだった。
「こちらが先に境界線を引いてしまった以上、それを自ら破るのは正当性を失いかねません」
熱くなったアザミと対照的に、冷たく淡々としたシトラの言葉。どこまでも冷静になって……落ち着いてこの場を考えれば、それはすぐにわかることだ。
感情を排し、冷淡になれるのであれば、最適解として選ぶべきはそれだ。怒りをぶつけることじゃない。
でも、だからってシトラが人の心を持っていないとか何も怒りを感じていないとか、そういうことじゃない。
「……大丈夫だ。つらい役回りをさせたな、シトラ」
アザミの肩をギュッと掴み、止めたシトラ。酷な役回りをさせてしまったな、とアザミは冷静さを取り戻した。
なんせ、アザミの肩には固く彼女の指が食い込んでいたから。プルプルと震えている。細くて小さな手からは想像できないほど、その手は怒りに揺れていた。
アザミが先に怒ってしまったから、シトラはそれを止める役に回ったというだけ。アザミが飛び出さなければ恐らくは彼女が先に剣を抜いていただろう。それを理解したからこそアザミはスッと自己本位な怒りを収めた。そういうラグの無い、ツーカーで伝わる意思疎通の正確さこそがこの双子の強みである。
パロムの煽りも不発に終わり、アザミは深呼吸をしてスーッと落ち着きを取り戻した。
一触即発は回避され、泥沼の戦闘に突入する事態は有耶無耶になったわけだが……。
「……やっぱり、こうなる、のですね」
そうポツリとこぼしたシュツィの声には、やはり諦めの色が漂っていた。
こんなに残酷なことがあるだろうか。あっていいのだろうか。
せっかく救われるかもしれない……生と死の繰り返しからは逃れられないとしても、初めて不幸じゃない人生を歩めるかもしれないと期待した刹那、それは嘲笑うみたいにその手をすり抜けていった。
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