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997話 この命でただ一つの

 ゼントと別れ、シスルは一人長い廊下を歩く。カツンカツンと響くのはシスルの足音。ふぅー、と吐き出した息遣いすら聞こえてくるような静けさだ。さっきまでの喝采、喧騒が嘘のよう。


(まあ、こういう風に魔王城を組み替えたのは俺なんだけどな)


 そうだった、と思い出してアハハと笑う。別に魔王城に人がいないというわけじゃない。こんな広い城内だ。掃除をするメイドの数は百を超えるし、日々素晴らしい食事をふるまう料理人やゼントのような付き人、警護の衛兵もいる。だが、彼らはこの辺りには近づかない。理由は恐れ、そして嫌悪。そして、それを知っているシスルが「近づくな」と命令を発していることだ。大義名分を得たことで彼らはこの辺り、魔王シスルの部屋がある方には近寄らない。掃除の時や食事の際といった用事でもなければ、絶対に。


 でも、なぜシスルはそのような指示を出したのか。そしてなぜ彼ら魔王城に仕える者たちはその命を喜んで受け入れたのか。

 それには魔王シスルという男の歴史と、そして魔界における負の歴史が深く影響しているのだが……。


(……300年ぶり、か)


 そんなことを思い出しているうちに、シスルの足はとある扉の前に止まった。両開きの、そこだけ他とは明らか格の違う豪勢な造りの扉だ。そこに手をかけようとして……シスルはその手を引っ込めていた。


(ハハッ……。ああ、恐れてるのか俺は)


 小さく震える手を見つめ、心の中でそう吐き捨てる。その行動には自分でも驚いていた。なんせその扉の先は魔王シスルの部屋なのだから。自分の部屋に入るのに尻込みする理由はないだろう。それなのに、ドアノブを握ろうとした手は言うことを聞かずプルプルと空中で何もできず止まる。そんな弱さに、もはや笑うしかなかった。


「サキア……」


 哀れな笑みと共に吐いたその名前。彼が恐れる理由はその名の彼女だった。魔王シスルが生涯でただ一人愛した少女にして、彼のパートナー。サキアがこの扉の向こうにいる……ただそれだけで、手を止めたじろいでしまう自分がいた。

 嫌いなのか。いいや、まさか。シスルの感じる恐れというのはそんなものじゃない。彼はただ怖かったのだ。ゼントの時と同じで、サキアも魔王シスルの奥にあるアザミを見ないだろう。それが不思議と恐ろしかった。愛した女のはずなのに、会えて嬉しいはずなのに、たぶん彼女は今のシスルを見ない。それを思うと一歩を踏み出せないのだ。まるで他人を見ているみたい。ああ、世界魔法の中でその当事者になってしまうということはこんなにも辛いのかと今更それを思い知る。これまでは無関係の客人として存在できたのに、こうして世界魔法における役者の一人として舞台に上がってしまうとその違和感で吐きそうになる。


(くっそ、本当に弱いな俺は。ちょっと違うからってすぐに怖がって、恐れて、立ち止まって。ああ畜生ッ、この時代じゃ俺は魔王だろうが!)


 震える手首をガシッとつかんで、シスルは無理矢理にドアノブを握りしめた。それはもはや勢いだ。こうなってしまえばそれに頼るしかない。このまま何もせず立ち止まっているわけにもいかないから。怖い? 震えが止まらない? それを直す方法は一つしかない。荒療治でも、目を瞑って前に進んでしまうのだ。あとはなるようになる――ーそれに任せよう。勢いなんて不確定なものに身を任せて、とりあえず飛んでみよう。


「……シスル、さま?」


 勢いよく、バタンと開け放たれた扉。ふわりと揺れるカーテン、半分開いた窓から差し込む日差しの中、甘い声が彼の名を呼ぶ。耳をふぅっと吹くようなその懐かしい声にシスルの心臓はドクンと跳ね上がった。嬉しい……喜ばしい……悲しい、寂しい、怖い……そんな複雑な思い渦巻いた、気持ちの悪い鼓動だ。


 窓際に座り込み、外の景色を見ていたのだろうその少女が振り返る。白いカーテンによく目立つ真っ黒の髪が広がって、血のように真紅と染まった赤の瞳がジッとシスルを射抜く。半開きの口から零れ見える鋭い犬歯も吸血鬼である彼女のチャームポイントだ。


 かつて、吸血鬼の村を襲った悪意からシスルの手によって助け出され、そんな彼女を守るべくシスルの正妻となった少女がサキアである。元々は平民の出であるため、魔王の妻と認められるまで何年も家事手伝いとして下積みを経験した彼女。今は立派に魔王の妻を務める、シスルの第一にして唯一の奥方がその少女だった。


(……会えて嬉しいはずなのに、どうしてだろう)


 こうして会うのは300年ぶりで、それは懐かしく嬉しいものだ。それなのに向けられるサキアの笑顔に他人感を覚えてしまうのだ。サキアが見ているのはシスルであり、アザミでは決してない。その“ズレ”が言いようもなく気持ち悪くて。シスルは「……っ」と目を逸らす。その背後でバタンと自然に扉が閉まった。魔王の部屋に二人きり……。それなのに喜べない自分が嫌で、酷く嫌悪した。


 スタッと窓際より降りて、サキアはゆっくりした足取りで黙ってシスルのほうへと歩み寄る。それでもその目を見られなかった。ニコリとほほ笑むサキア。その息が触れるほどの距離になっても、それでも。

 そんなシスルそっと触れて、サキアは背伸びをして彼の顔を見上げた。ふわりといい匂いが鼻腔をくすぐる。美しく、きれいな少女に成長したものだ。ほんのり桃色に染まる頬も、シスルをジッと見上げる紅の瞳も、必死で上げる踵も、チラリと除く胸元も。


 それは300年ぶりの再会であった。魔王シスルにとって唯一の妻であり、ただ一人愛した吸血鬼族の少女。

 そんな懐かしい再会にもかかわらず顔を見ることすら叶わないシスルに、サキアはクスッと囁いた。


「……久しぶりね、シスル」

 

 風に消えるほど小さく、仄かに香る程度の囁き声。けれどシスルの耳にはやけにはっきりと聞こえた。


「……は?」


 遅れて、シスルはそれに気が付く。思わず呆けた声を出して、シスルはその目を見開きバッとサキアのほうを見た。ようやく――ーサキアの顔がその視界に映る。悪戯っ子みたいに、小悪魔みたいにクスクスと可愛らしく笑うその楽しそうな表情が。


「やっと、サキのほう見てくれたっ……!」

「あ、ああ。サキアお前……まさか……」


 今でも信じられない。けれど、きっと“これはそういうこと”なのだろう。サキアの両肩をガシッと掴み、シスルの目が真っすぐにサキアの瞳を見据える。その真剣な眼差しに、サキアはこくりと頷いた。“久しぶり”―ーーその言葉の持つ意味は。


「ねえ、シスル。覚えてる? サキが“あの結界”の中で言ったこと」

「なるほど、そういうことか。今俺の目の前にいるサキアは……現在、過去、未来、そのどの点においても存在する“あのサキア”なんだな」


 そういうこと、と肯定するみたいにサキアはニコリと笑顔を見せた。あの結界……今となっては懐かしい、それはエレノア・バーネットがアザミを閉じ込めた時の結界のことだろう。全ての時を内包し、それゆえに“どこにでもあるがどこにだってない”という独自性を持った時の牢獄。シスル……アザミ・ミラヴァードは時間逆行をする前、聖剣魔術学園の三年生だった時に色々あってエレノアの時の結界に閉じ込められてしまった。その結界の内部で出会ったのがサキア。死んだはずのサキアだったのだ。どうして彼女だったのか……は、いまだによくわかっていない。おそらくはアザミの会いたい思いが時間軸から彼女を引っ張り出したのだろう、と立てられるのはその程度の予想のみ。

 

 そして、その“時の結界”内部で再会したサキアからアザミは自分の死後の魔界についてを知った。魔王リコリス、リコルという少女が自分の娘であるということ。そして、彼女が歪んでしまったその経緯とか。

 結界で話したサキアは過去も現在も未来も、世界のどの一点においても存在しているイレギュラーな存在だった。だから、世界魔法という“イフの世界線”にも干渉できたのだろう。


(そんな理屈はともあれ……)


 シスルはさっきまでの気持ち悪さをすっかり忘れてしまっていた。だって、サキアはすべてを知っていたから。彼女は魔王シスルの向こうにアザミを見ることができる。事情を信じてくれる、それを知る初めての相手なのだ。自分一人だけが異物だったこれまでの舞台上に現れた新しい光。それがまさかサキアだなんて、これほどに嬉しいこともないだろう。


「なあ、サキア」

「なぁに? シスル」


 自分の名を呼んだ彼に、サキアは柔らかに答える。シスルの……アザミの寂しさを理解するからこそ。彼女はそれに歩み寄り、支えることができる。


「―ーー会えて本当によかった。この世界で、もう一度サキアに会えるなんてな」


 肩に添えた手を背中に回し、シスルはサキアの華奢な体をギュッと抱き寄せた。暖かくて、柔らかくて、懐かしくて。そんなシスルの抱擁にサキアは一瞬驚いた顔こそしたものの、すぐに彼女もその手をシスルの背に回し、慰めるみたいにポンポンと撫でた。


「サキも嬉しいよ。でも、ちょっと苦しいかも」

「あっ、悪い……」


 思わず余計な力が入ってしまったようだ。シスルは慌ててその手をほどく。

 魔王シスルとしてこの世界魔法で目を覚ました時、ああこの先は一人ぼっちになるんだろうなと覚悟した。誰もシスルしか知らず、一人で戦うしかないのだと覚悟した。

 けれど、サキアがいた。アザミのことも覚えている、世界魔法のことも知っている、あらゆる事情を網羅したサキアと出会うことができた。会いたかったけれど会うのが恐ろしかった少女は、出会ってみればシスルの孤独を埋めてくれる天使みたいな少女で。


 サキアはちょんっと後ろへ下がり、そして彼女はあらためて両手を広げた。


「とりあえず、今夜はいっぱいお話しようね? サキ、シスルの旅の思い出をたくさん知りたいから」

「……ああ。千夜だって語ってやるさ」


 アザミ・ミラヴァードもシストリテ・ヴァン・エヴァグレイスも。彼がその生涯で唯一愛し、唯一愛することを許された少女。その積もる想いは幾星霜にも及んでいた。

 愛を待つサキアはシスルの想いを受け入れる。あらためまして、サキアはシスルの大きな腕の中にいた。その胸に抱かれ、目を瞑り、溶けていくように。そのまま二人は柔らかな夢へと落ちていくのだった。

※今話更新段階でのいいね総数→3336(ありがとうございます!!)

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