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Finder

作者: 川昌 幸

 色の違う瞳越しに見る世界は、やはり違うのでしょうか。それもそうでしょうね、だって、私とあなたは別の人間だもの。


 ――それでもせめて、二人の間に流れる時間が幸せだなあということだけでも、共有していたいと思うのは我儘でしょうか。



【Finder】


一、


 眠たい目を擦りながら、朝の大学構内を歩く人影がひとつ。その女性が歩くたびに、華奢な体が纏う白衣の裾はひらひらと遊んでいる。鬱陶しいと言わんばかりに、八重は小脇に抱えたバインダーと一緒に白衣をギュッと押さえながら歩いていた。

 研究レポートをまとめようと実験室に入ったのが昨日の午前中のはずで、そして今は翌朝五時半。こんな時間に大学に人が居るのかと問われれば、答えは「案外居る」のである。例えばそれは八重のような徹夜明けの研究員だったり、論文の提出期限を間近に控えて喘ぐ院生、学生だったり。朝食をとる学生を迎え入れるために励んでいる食堂の調理員も朝早くから既に仕事に励んでいる。早朝の大学というものは静かながらもちらほらと人の動きが見て取れた。

 大学と隣接する大きな公園に差し掛かっても、八重の歩みは止まらない。栗色をした合皮の靴は彼女の小さな足に良く馴染んでおり、一歩踏み出す度に柔らかく皺を寄せる。たまにランニングをする地域のおじさんたちが通りかかっては、八重に軽く会釈をして過ぎ去っていく。しかしそれも二、三人で、早朝の公園など大学構内以上に誰もいなかった。春の朝、すがすがしい空気を胸いっぱいに吸い込めば、思い出したかのように同時にあくびも出た。

「今日は早く寝よう。ううん……昼寝……朝寝が必要かな……」

 眠気を振り払いたいがために独り言なんて呟いてみるが、効果は如何ほどのものか。

 さて、公園は卯月の頃、実に緑で溢れている。芽吹いたばかりの木々の彩や芝生の青々とした色が、朝靄の中淡い光に包まれて美しい。その中でも小高い位置に鎮座している桜並木は別格だ。緑色の世界にある、淑やかとでも言うべき桜色が散りばめられた場所は絶好のお花見ポイントでもあり、この時期の休日や平日の夜などは花見酒目当ての住民でいっぱいになる。ただこの時間は早朝でほとんど人気が無いために、いつも八重はこの桜を独占しているような贅沢な気分に浸ることができていた。

 桜並木に差し掛かり、八重はこれで最後、と言わんばかりにもう一度口元を手で覆いながらあくびをした。小脇に抱えていたバインダーを正面に取り出し、白衣の胸ポケットからペンを取り出す。カチッと小気味よい音を立て、ボールペンの先を出した。見ごろを迎えた桜の樹、一本一本を見ながらチェックマークをつけていく。八重の所属する研究室で管理している桜の木は二十本ほどあるため、この単調な作業だけでも優に一時間はかかる。よって、冬以外ならば人の少ない早朝でじっくりチェックを行うというのが八重にとっての研究日課になっていた。早朝手当は出ないが、チェック作業への手当金は出るし。

 咲き誇っている桜、花弁がひらひらと風に乗って舞い落ちる。彼女が黙々とチェックを続けようやく終わりに差し掛かったところで、強く吹き始めた風に気を取られた。

 慌てて八重はチェックシートを庇うようにバインダーごと胸に押し付け、風になびく長い黒髪を無意識の内に右手で抑える。瞬間、ざあっという音と共に桜色の吹雪が舞い踊った。桜の木を毎日見ている八重ですら、目を奪われたかのように樹を見上げた、その時だった。


 風に運ばれるようにして耳に届いた、『カシャ』という聞き慣れない音。思わず八重は振り向いた。どうやらランニングをしている人ではないということは明白で、八重の目に入ったのは黒い一眼レフカメラを手にした男性の姿。


 思わず見入った。舞い散る桜も勿論綺麗だったけれど、朝靄に反射して、男性のきらきらとした金色の髪が非常に美しく見えたからだ。太陽が燃えているかのような金髪に、カメラ画像を真剣に見ている色素の薄い瞳。どう見ても日本人ではない顔立ちの持ち主がそこにいる。外国人だろうか。桜を撮影していたのかと、八重は先ほどのシャッター音に考えを巡らせた。すると、ふとカメラから顔を上げたその男性とバッチリ目が合う。桜並木のある場所から見下ろす形で男性と目が合い、凝視していたのがばれてしまって恥ずかしいのと気まずい気もちとが同居したものが一気に八重を包み込み、彼女は曖昧に会釈をすることしかできなかった。すると、どうだろう。八重よりもずっと気まずそうな、と言うよりもむしろ焦った表情になったその男性が慌てたように口を開いた。


「す、すいません! 勝手に撮って、いやあの、俺別に怪しいもんじゃないんで!!」


 早口だったけれど、確実に聞こえてきたのは流暢な日本語。想像していたものと違ったことに少し驚いたのだけれど、きっとそんな反応には慣れっこなのだろう、男性は一気に丘を駆け上ってきた。彼の来ている黒のジャケットが、走るのに合わせて揺れる。八重の目の前まで来て、男性はぺこりと頭を下げた。

「俺、近くの写真館でカメラマンやってる者です。桜見に来たら、綺麗だったんでつい」

 急に眼前に背の高い男性がやってきたことで、八重は少しだけたじろいで半歩後ろに下がった。うまく言葉が出ず、こくりと一つ頷き、彼を見上げる。背が高い男性カメラマンはニコッと人懐こく笑った。

「かなり綺麗な瞬間だったから思わず、つい、許可も取らずに――」

 矢継ぎ早にそう言いながら、手持無沙汰のように彼はカメラを弄る。八重は聊か気まずそうに、男性の持つカメラと彼に視線をやった。

「……あの……?」

 ようやく八重は言葉を発した。確かにこの桜並木は絶景で、カメラマンが撮りたがるのはわかる。ならば、彼が声をかけてきた理由は……?

「桜の写真、どうぞ。もうこれで私居なくなりますし、きれいに撮れるはずです」

「え?」

 八重は少々慌てた様子で、バインダーを胸元に押し付け咄嗟に頭を下げた。しかし、そんな彼女の様子に驚いたのは彼の方であった。

「あの、もう作業終わったので存分に桜を撮ってください」

「いやいやいや。ええと、あなたが邪魔だったわけじゃなくって、その、さっきあなたも一緒に撮る気で撮っていたというか」

「え……え!?」

 八重はようやく気が付いた。先ほどこのカメラマンがなぜ八重に謝ったのか。「勝手に撮ってすみません」という言葉は桜の所有研究室に向けてではない。勝手に被写体にしてすみませんでした、と八重本人に向けられたものそのものだったということだ。

「あの、でもほら、これ、綺麗だなって……いや、言い訳なんですが」

 動揺する八重と同じくらい動揺しつつ、カメラマンは微笑みながら桜並木を示す。朝靄の光の反射の仕方だとか、きらきらと舞い散る桜の花びらだとか……そういった風景は確かに八重にとっても特別で、毎年楽しみにしているものでもある。そんな幻想的な風景の中に寝不足の研究員とな。何となく腑に落ちないままではあったが、八重もとりあえず頷いてみせた。

「なんていうか、風が吹いて……その白い裾がひらってなった時にすげー綺麗だって思って」

「……ええと、ありがとうございます……?」

 腑に落ちないまま礼を述べながら、八重は思う。八重の眼には桜並木を見ている男性の目の色の方がよっぽど綺麗に映った。先ほどカメラを構えていた姿ですら、八重にはとても美しく記憶されているのだから。それこそ、桜並木を背に向け、じいと見て居たいほど――……そんなことをぼんやりと思ったけれど、八重の口から言葉は出てこなかった。

「きちんと現像したら、あなたにもぜひ見てもらいたいな。本当に、綺麗だったから」

 屈託のない彼の笑顔に、八重はきゅっと唇を結んでバインダーを強く握った。彼が口にしているのは写真であって、風景であって、自分のことを言っているのではない。頭ではわかっているつもりだが、どうにも不慣れな出来事に心臓はうるさく高鳴る。

「あ、ありがとうございます……」

 何と言ったらよいのかわからず礼を述べた。それでも彼は嬉しそうに微笑むものだから、つられた八重の笑顔は先ほどより幾分自然なものへと変わった。彼は胸ポケットを探っているようだったけれど、お目当てのものが無かったのか、カメラの肩紐を肩に担ぎながら口を開く。


「すいません、名刺持ってこなかったみたいだ。アル・エヴァンズっていいます。西宮町の写真館でカメラマンしてます」

「あ……はい、国坂です」

「国坂さん。また来ます」

 にこりと、もう一度人懐こい笑みを浮かべて、彼――アルは丘を下って行った。朝靄はもうほとんど晴れて、ランニングをする人もちらほら増えてきた。アルから背を向けて、ほぼ無意識のまま最後の樹のチェックを終えて、ようやく八重は自分が現実に戻ってきたという実感を得た。




二、


 翌日の朝も、同じように八重は桜の樹に向かい合っていた。その内に軽快な足音が聞こえてきて、八重は何となく昨日のカメラマンが来たのかと音の方を見やる。しかし視界に捉えたのはランニング中のおじいちゃん。一瞬八重はきょとんとした表情を浮かべた後少々残念そうにもう一度桜に向かった。

 確かに名乗りあったし、彼は撮影した写真を見せたいと言ってくれた。しかし別段、八重はアルと約束を交わしたわけでもないしアポを取ったわけでもない。消極的な彼女がとった行動といえば、昨日あの後研究室に戻ってアルの言っていた写真館の位置をインターネットで検索したくらいだ。それでも知らず内に期待は募る。チェックマークをつけるボールペンに、不必要な力が篭った。

「――国坂さん。おはよう」

 突然背後から声がかかり、驚いて八重は振り返った。すぐ近くまでアルが来ていて、一度二度、パチパチと目を瞬かせながら八重は慌てて口を開く。

「お、はようございます。」

「ごめん、まだ写真はできてないんだけど……来ちゃいました」

 はにかみながらそう告げるアルは、相変わらずどこかの国の王子のようにきらきらとしている。その日の朝日が一層輝かしい所為もあってか、思わず眩しくて八重は目を細めた。

「樹のチェック、今日もしてるんですね。俺そっちの方写真撮ってきます」

「はあ」

 生返事のような返し方をしてしまって、咄嗟に八重は口元に手を当てた。アルはそんな彼女の仕草に気を留めることもなく、八重がチェックを終えた方の桜へ歩いていく。彼の手には昨日と同じく黒い一眼レフが抱かれていた。

 大きな桜の樹の下で、アルがすっとカメラを構える。高い背丈、レンズを覗き込む真剣な眼差し。黒のジャケットから覗く大きな手に、長い指。カメラを構えてシャッターを切る一連の流れを見ながら「なんて美しい動きだろう」などとぼんやりと見惚れていたことにようやく気が付いたのか、はっとして八重はまた、チェックのペンを動かした。


 全ての樹のチェックが終えると、アルも写真を取り終えたのかこちらへ歩いてくる。カメラを肩にかけながら、ジャケットのポケットを探って中身を八重へと差し出した。

「コーヒー、飲みませんか?」

 人懐こい笑みで、差し出されたコーヒー。八重はコーヒーとアルを交互に見やった。

「そんな、申し訳ないです」

「大丈夫。ちゃんと俺のもありますから」

「ええ……で、では、お言葉に甘えて。いただきます」

 恐る恐る手を伸ばして、コーヒーを受け取る。まだ春の朝は肌寒く、コーヒーのスチール缶からじわりと温かさが伝わってきた。

 桜並木のある小高い丘を下って、公園のベンチに二人で座りながらコーヒーを飲んだ。白いベンチは先週ペンキが塗り直されたばかりで綺麗だ。二人一緒に座った時にわずかにギシギシと音を立てる。昨日知り合ったばかりの男性とこのように行動を共にしているというのは、八重の人生の中で初めてのことだ。それも、こんなにきらきらした人と。なんだか非現実的で、八重は未だに夢を見てるような心地ですらいた。コーヒーのプルタブを押し上げる。ふわっと良い香りが漂い、今、この空間が夢ではなく実に気持ちの良い朝であることを八重に理解させてくれた。朝の公園では、ランニングやウォーキングをする人の数が徐々に増えてきている。隣に座るアルの体温が、うっすらと八重の右側を温めるような錯覚をおぼえさせ、妙に気恥しい気分でいっぱいだった。

「コーヒー、嫌いじゃなかった? 大丈夫ですか?」

「はい、コーヒー好きです」

「よかった」

 ホッとしたような表情を浮かべ、アルはベンチに深く凭れかかる。そんな彼の様子に少しだけ八重も表情を緩めながら口を開いた。

「よくここに来て、写真撮るんですか?」

「はい、たまに。この公園は綺麗だから。営業時間中は店にいますよ」

「西宮町にある、写真館でしたね」

 アルは西宮町の写真館でカメラマンをしていると昨日言っていた。西宮町の写真館はここからそう遠くもないために、八重の大学でもよく生徒たちが卒業式の写真撮影や証明写真の撮影などに利用している。

「私も昔そこで写真撮りました。成人式の時なので……何年も前ですけど」

 八重が写真撮影にその写真館を利用したのはもう六年ほど前だけれど、確かその時には彼の姿は無かった。これだけ目立つ容姿なのだからいればすぐわかりそうなものだけれど。

「ええと……エヴァンズさんは結構前からそこで働いてるんですか?」

「アルでお願いします。名字で呼ばれると気恥ずかしいので」

 顔立ちは派手なのに、恥ずかしがるポイントが意外で、八重は面食らった。右頬を掻きながら照れ臭そうに笑うアルに、それよりもよっぽど照れた顔を隠すように若干俯きながら、八重は答えた。

「……じゃあ、ええと。……アルさん」

「はい」

 大して社交的でもない、むしろどちらかと言えば内向的な性格の八重は、この年になってから下の名前で人を呼ぶなんてことは滅多に無い。しかしアルがそれを望んでいるのだから、と、少し口ごもりながらも八重は彼の名を呟いた。小さく、だが確かに発されたファーストネームの響きに胸の奥がこそばゆい気もちになった。けれど、名前を呼ばれたアルは嬉しそうににっこりと笑ってくれて、それが八重を安心させた。

「俺は三年前からその写真館にお世話になってるんです。生まれ育ちはもっと田舎なんで」

「田舎……」

「あ、日本のね」

 八重の言いたいことを察したのか、アルは笑い飛ばすように付け加えた。

「昨日も話しかけた時ちょっと国坂さん驚いてたの分かったからさ。ほら、顔はめっちゃ外人なのにめっちゃ日本語! みたいな」

「あ、ええと……ばれてましたか」

「うん。大体みんなそういう反応するから。名乗る時も名字、名前の順番で言った方がいいのかなーなんていつも結構悩むんですよ」

 砕けた雰囲気で話すアルに、八重も穏やかな表情で頷く。話の流れからアルは日本で生まれ育ってきたようで、それならば八重にもこの流暢な日本語の意味が納得できた。アルはどちらかと言えば外国人が一生懸命勉強して話している日本語とはまた違った、完全に日本語の『発音』が身についている、といったイメージだからだ。

「国坂さんはこの町の生まれですか?」

「いえ、地方出身です。進学でこっちに出て来ました」

「桜の研究を?」

「いいえ、普段は温室で植物――地味なんですけど、苔の研究をしてます。この桜並木は代々うちの研究室で管理してるんで、毎朝チェックしてるんです」

「すごいなぁ。地味かな? 苔って庭作りに欠かせないしたくさん種類あるんじゃなかったっけか……すみません、素人だからそういうの全く分からないんで、とにかく尊敬します」

「いやいや。いやいや……」

 アルはからりと笑いながら答えてくれる。

「アルさんは、ハーフなんですか?」

 流暢な日本語を話すことに加え、先ほどアルの言っていた『生まれ育ちは日本の田舎』というポイントから八重は問うた。するとアルはんー、と考える素振りを見せながら、口を開く。

「ハーフですよ。ドイツとイギリスの」

「えっあ、そうなんですか」

「日本にいるのは、両親のおかげ」

「おかげ?」

「そう」

 楽しそうに話すアルにつられて、八重も悪戯っぽく微笑む。それが嬉しかったのか、アルは何度もうんうんと頷いた。

「俺の両親って、えーと、母親がイギリス人で父親がドイツ人なんだけどさ、どっちも日本が大好きなんだよね」

 まるで自分の過去を懐かしむように、アルは少し遠くを見据えて青い目を細めた。少し朝日も高く昇ってきて、朝靄は晴れ始めている。

「へぇ……なんだか、嬉しいです。日本が好きって言ってもらえて」

「うん。でも日本が好きな結構理由が面白くって。……理由、なんだと思います?」

 ニヤッと八重を見やりながら、片頬だけでアルが笑う。どんな笑い方をされても様になっているので、八重は長く目を合わせていられず俯いた。

 アルの両親が日本を好きな理由とは。しかもその理由はなんだか面白いらしい。外国人ウケする日本の長所をいくつか頭の中で思い浮かべながら、八重は解答を選んだ。

「うーん……理由…ご飯がおいしいからとかですか?」

「あー確かに日本食っておいしいからね。でもハズレ」

「えぇ…じゃあ……漫画? 日本の漫画に憧れて?」

「ん、んー…!惜しいような惜しくないような……」

「えぇえ」

 渋い表情で唸るアルのリアクションに思わず八重も笑った。肩を震わせて笑ったために、結われていない彼女の長い黒髪がさらりと白衣を滑り落ちる。

「降参です。教えてください」

 両手を小さく上げてそういえば、アルは満足そうに頷いた。

「答えは『好きな人が日本人だった』から、でーす」

「え? へぇえ……ていうかさっきの一つも惜しくないですよね、私の答え」

「まあまあ」

 少々不貞腐れたように話す八重を宥めるように、アルはにこにこと笑いながらコーヒーを一口飲んだ。そして、おとぎ話を聞かせるようにゆっくりと話し始める。

「それぞれ現地の学校でさ、日本人留学生がいたんだって。父さんは父さんで大和撫子に惚れて、母さんは日本男児に惚れこんでさ。めちゃくちゃ日本語勉強して卒業して日本に戻っちゃった留学生たちを追っかけて日本に来たんだってさ。」

「ドラマみたい」

「だろ?」

 恋い焦がれた人を追いかけて国を飛び出すというその行動に、八重は素直に感心した。そこまで慕われるほどの日本男児と大和撫子もすごいと思うけれど、話の腰を折らないためにも大人しくアルの話の続きを待った。

「でもさ、ダメだったみたいなんだよねお互いに。で、失恋した気持ちで沈んでた時に丁度父さんと母さんが出会って意気投合したらしい。ちなみに出会いの場所は富士山の頂上」

「富士山!? 登ったんですか!?」

「謎ですよねー! でも『運命っぽいよね!』とかって親はよく楽しそうに話すよ」

 偶然別の国でそれぞれ日本人留学生を追いかけて日本まで来て。偶然同じ時期に失恋して、同じ日に富士山に登って。そこで出会って意気投合、なんて。本当に何かのドラマのように、運命の筋書きが決まっていて引合さったようなアルの両親。ただただ八重は感服して何度も頷いた。

 話をして盛り上がっている内に、公園を通る人も増えてきた。出勤のサラリーマンや学生の姿も見え始めたことで、八重は腕時計を見やる。もうそろそろアルと話し始めて一時間ほど経ちそうだ。あっと言う間の時間の速さに驚きながら、八重は少々残念な気持ちを押し殺してアルに向き合った。

「すいません、アルさん。そろそろ研究室に戻らないと」

「あ……っ、いや、俺の方こそ。なんだか俺ばっかり喋っててすみません」

 八重の言葉に慌ててアルがベンチから立ち上がった。昨日出会ったばかりで今日も小一時間話していただけというのになんだか名残惜しい。八重は思い切ってアルを見上げた。

「あの……。写真って、いつごろ出来上がりますか?」

「えっ」

 八重の言葉に、アルは一瞬ぎくりとしたような表情を浮かべた。しかしそれも一瞬のことで、すぐに笑顔に変わる。

「ええと……今日これで店に行ったら焼くつもりです」

「じゃあ、その……」

 八重はぎゅうとコーヒーの缶を両手で握りしめる。アルからもらったコーヒーの中身はもう空っぽだったけれど、ずっと八重に握られていた缶は人肌が移って温かかった。

「あの、私今日夕方お店に行ってもいいですか?」

「へあっ!? ……あ、はい! 喜んで!!」

「じゃあ、今日、また」

 一瞬アルがものすごく間抜けな返事をしたけれど、肯定の返事をもらえたことが八重には嬉しかった。笑顔を浮かべてお辞儀をして、大学の方へ向かおうと歩みだす。そこではっと気が付いたように振り向けば、まだ八重を見ていたアルとしっかり目があった。

「あ、あの」

 ばっちり目が合ったことで少々動揺しながらも、八重はどうにか自然に笑おうと試みた。

「コーヒーご馳走様でした。またお話聞きたいです」

 八重の言葉に、アルが無言で大きく頷く。もう一度軽く会釈をしながら、八重が歩み始めたその背中に、アルの大きな声がかかった。

「待ってます! 今日、店で!!」

 少し遠くなったアルの姿に、八重は振り向いて小さく手を振った。大学へ視線を戻し、どきどきと高鳴る胸をコーヒーとバインダーでぎゅうっと押さえた。




三、


 研究室の中、窓際に整然と並べられたサンプルとにらめっこしながらカリカリとメモを取っていく八重の姿に、同僚が声をかけた。

「国坂さん、今日夕ご飯一緒に行かない?」

「あ、ちょっと今日は……ごめんなさい、用事があって」

 ちらりと観察対象の苔から目を外し、八重は少しだけ微笑んで断った。するとどうだ、同僚の女性はたちまちニヤリと笑みを浮かべて八重の隣に身を寄せた。そしてこそこそと耳元で小声で話しかける。

「なになに、デート? ついに彼氏できたの?」

「えぇっ! そんな、違いますよ」

「その反応いつもと違うな、気になる!」

「も、もうー……」

 色っぽい話が好きな同僚に苦笑しながら八重はノートを閉じた。しかし彼氏ではないし、デートかと聞かれればそれも何となく違う気がする。迷った挙句、八重は口を開いた。

「写真屋さんに行ってくるんです」

 その後、同僚からの質問に八重は逐一答えていた。珍しく八重が定時に上がるというものだからそれだけで彼女にとっては面白いネタだったのかもしれないけれど、同僚は終始にこにこしながら八重の話を聞いていた。そして定時で帰ろうとした八重に手を振りながら「朗報を待つ」なんて古風な言い回しで送り出してくれたりもしたのだけれど。

 八重は自分の鞄を持つ手をぎゅっと握りしめながら町を歩いていた。今朝のコーヒーのお礼に何か持って行った方がいいだろうかと途中にある商店街をぶらぶらと歩く。行きつけのお団子屋さんの前で足を止め、少し考えた。


 確かアルの両親は日本が好きだと言っていた。しかし、アル自身はどうだろうか? 彼は日本で暮らしてきたという話だったから日本の食べ物は嫌いではないけれど今更取り立てて「日本らしい」ものを持っていくのもなんだかずれているような気もした。見た目に引きずられて外国人扱いしてしまうことが後ろめたい。

(そもそも、男の人ってどういうもの喜ぶのかな。まったく分からない……)

 八重の知る多くの女性陣は甘いものを好むし、お菓子やケーキに目を輝かせる人は多い。だけれど今まで男性に対して手土産を持って行ったことなど研究室の教授くらいで、その時は確か地元で有名なせんべいを持って行った気がする。せんべいではあまりに色気のない贈り物になってしまうだろうか、などと考えている内に、藍染めの暖簾の向こう側から団子屋の女将が出てきた。女将は八重の姿を見つけてぱあっと顔を明るくする。ふっくらとした血色の好い頬がくっと上がって、誰が見ても和むような素朴な笑みを浮かべながら女将は八重に話しかけた。

「あら、いらっしゃい。最近見ないから心配してたのよ」

「こんにちは。すみません、最近研究立て込んでたので中々買いに来ることできなくて」

「ちゃんとご飯とか食べてるの? 根詰め過ぎないようにねぇ」

「はい、ありがとう」

 団子屋の女将は八重がこの町に越してきて一番始めに仲が良くなった人でもある。きっかけは女将がスーパーで落とした財布を八重が拾ったことだったのだけれど、そこから団子をごちそうされてすっかりその味の虜になって通い詰めている内に、まるでこの土地における母親のような存在にもなっている。

 手土産で悩んでいたところだったけれど、女将に話しかけてもらったおかげで八重の気持ちもすっかり楽になったようだ。自分の好きなものを相手に勧める気持ちで持っていこうと、八重はみたらし団子と草団子をそれぞれ包んでもらい、女将に手を振って団子屋を後にした。


 商店街を抜けると、少し広い道に差し掛かる。商店街のアーケードの中も充分人でにぎわっているけれど、やはり広い道のオフィス街は別格だ。スーツを着てキリっとしているサラリーマンたちは、商店街で買い物をしている客たちと比べると聊か歩みが速い。まるで二つの世界が分離しているような錯覚に陥りながらも、八重は点滅中の横断歩道を駆け足で渡りながら広い道を横切った。

 横断歩道を渡り切ったところで、「西宮町」に入る。まだオフィス街は続いているけれど、写真館のある方向まで歩んでいけば徐々に町は落ち着いた風景へと変化していく。昔ながらの映画館があったり、古本屋があったり、ちょっと怪しげなアンティークショップがあったり。八重の住んでいる町の商店街とはまた違った、古き良き時代の名残が残る町並みが続いていく。街路樹に植えられているハナミズキの花が、白、赤、白、赤と順番通り並んでいて、レンガ造りの歩道はまさしく雰囲気づくりに最適なものに思えた。


 写真館はレンガの終着点にある。丁度この世界の終りがそこである、と言うかのように、一層古風な造りの写真館の外観は、八重が六年前に来た時と変わってはいない。木造で、少し古めいた緑色の屋根が特徴だ。『写真館』というロジカルな文字で書かれた看板が正面に掲げられている。一歩踏み出せばギシ、と、木の独特な音が響いて、扉を押せばカラカラとこれまた古風なドアベルが鳴る。ドアを開けた先に、店の奥から出てきたアルが笑顔で迎えてくれたのが見えた。

「お待ちしてました」

 にこりとアルが微笑んでみせる。サイドランプの光で決して明るくはない店内だというのに、やはり彼の笑みはなんだか眩しく見えて八重ははにかみながら「こんにちは」と返すのが精いっぱいだった。

「写真できてますよ。こっちにどうぞ」

 アルはカウンターの奥から歩いて、入口から左手にある部屋の扉を開いた。そこは撮影の際の待合室だということは八重も知っている。部屋の奥にはアンティークの置時計が立っていて、中央に茶色のソファが三つと、丸い猫足のテーブルが一つ。テーブルの上には既に写真袋が乗っていた。

 六年前と変わっていない、と、八重は余韻に浸っていたけれど、はっと思い出したようでアルに包みを差し出した。

「あの、今朝のお礼です。よかったら食べてください」

「えっ? いいんですか?」

 アルは包みを受け取りながら、驚いたように一度二度と瞬きを繰り返した。団子屋の暖簾の色と同じ藍色の包みを見ているアルに、八重はロゴを指して口を開く。

「はい、商店街にある『月島』のお団子です。お団子、とか、甘いものとか……だめでしたか?」

「だめじゃないです、好きです。嬉しいな……あ、お茶入れます、食べましょう」

 アルは器用に包みを開いて、団子を取り出した。一度部屋を出て行った彼はお盆を持って帰って来て、湯気の立ったお茶とお皿の上に団子がちょこんと乗せられて八重の前に運ばれた。

「お店は大丈夫ですか?」

「うん、もう閉店してるんです。店長たちにも断ってあるから大丈夫」

「時間外にすみません」

「全然問題ないよ」

 三つあるソファの二つに、アルと、八重が並んで腰かけた。アルは草団子を手にとって、ぱくりと口に運ぶ。咀嚼して飲み込んだ時に上下する喉の動きだとか、細い串を持つ指のしなやかさだとか。ついつい目で追って見惚れてしまうのは最早八重も自覚していて、自分のそう言った行動がどんな感情を意味しているかも何となく分かっていた。

「おいしい、めっちゃおいしい。ありがとうございます」

「よかった。私もそこのお団子大好きで、よく買うんです」

「俺も今度行こうかな。……商店街の、月島。よし覚えた」

 何より八重の気持ちを高揚させるのは、アルの青い瞳がまっすぐ八重を捉えてそれが優しく細められる時だ。パッとヒマワリが咲く様な、何とも言えない、明るい笑顔。その表情を向けられると、八重もつられて笑いながら自分の鼓動が高鳴るのが分かった。ごまかすようにお団子を口に運び、出されたお茶を啜る。緑茶の程よい苦みがみたらしとちょうど噛み合って、上品な味わいが口の中に広がった。

 もぐもぐと団子を食べながらも何故こんな素敵な人が自分を写真に収めてくれたのか、と、八重は疑問に感じていた。だけれどとても嬉しいことだと。桜のついででも良かったけれど、『撮る気で撮った』というアルの言葉に少なからず嬉しさは感じていた。

(だけれど、ここで写真を受け取ったら、終わりかも)

 ふとそんな考えが脳裏に過ぎる。しかし隣から差し出されたアルの手には一枚の伏せた写真が握られていて、それが今回彼との接点を作ってくれたのだと考えれば落ち込まなくても良いような気持にもなった。

「これ、写真。見てください」

 アルの低い声が耳を擽った。それが心地よいなどと口に出しては言えないけれど、一瞬心を奪われたのは確かだ。しかしアルが手に持った写真をくるりと裏返したところで、八重も一気にその写真に釘付けになった。


 桜並木が美しく収められている。朝靄の淡い光の中で、突風に吹かれた桜の花びらが一枚一枚きらきら光っているようだ。そして、桜に向かい合うようにして立っている女性。紛れもなく八重の姿なのだけれど、まさに劇的な一瞬だったのだろうか。風に吹かれた白衣がひらりとはためいて、長い黒髪は綺麗に風になびいているようだった。光の粒のような桜の花びらが彼女を彩っている。

「……すごい」

 思わず八重も呟いた。まるで絵画のように、その一瞬だけを切り取った写真を見つめて。

 ふと八重は左肩に温かさを感じた。アルがそっと身を寄せて、写真を一緒に見ている。思わず近づいた距離に鼓動が高鳴ったけれど、アルは微笑みながら写真を指して口を開いた。

「俺さ、これ、アレに見えたんですよ。……花嫁みたいに」

 どきん、と。今度こそ隠せないほど胸が高鳴った。プロポーズの言葉でもなく、愛の言葉を囁かれたわけでもない。ただ彼の口から出た『花嫁』というワードにどうしようもなく八重は焦がれる思いを感じた。なんとか跳ねた心臓を宥めながら、八重も笑う。しかしアルの方を見る勇気はなくて、ただただ写真を見ながら話しに加わった。

「確かに……丁度ロングスカート履いてたから、ですかね」

「白い着物みたい。裾がひらーって。あ、ええと、俺変態みたい? 引いた?」

「引いてないです、大丈夫」

 真剣に言っているかと思えば急に慌てたようになったアルに、八重もくすくすと微笑んだ。安心したようにアルがソファに沈み込んだため、彼の温度が離れる。ようやく八重もアルの方を見やることができた。

 アルは写真を目の高さに掲げて、じいと見やっている。ソファに沈み込んだ彼の横顔は彫刻のように美しい、など。この古風で美術的な写真館の中にいる所為か随分八重も芸術的なことを考えるものだ、と、自分の思想に面白そうに笑みを浮かべる。写真を見ながらアルがぼんやりと呟いた。

「――……俺、この写真すげー自慢したいんです。両親に」

「え?」

 まるでうわごとのように呟いたかと思えば、アルはいきなりバッと凭れた身体を起こして、写真をテーブルに置いた。膝の上に肘を乗せて両手を組む恰好のまま、アルは八重を見上げるようにして笑った。


「『最強の大和撫子見つけた』って言ってさ」


 アルの言葉に、表情に、まるで囚われたかのように八重は身体を硬直させた。最強の大和撫子という言葉を頭の中で反芻させる。髪の毛が黒くて長いからだろうか?白い着物を着ているように見えたから? 手土産にお団子なんて持ってきたから? いくつか自分の『大和撫子っぽい』要素を探してみたけれど、どうにも八重は自分と大和撫子像が結びつかないようで、首を傾げる。そんな彼女の様子にアルは少し苦笑しながら、組んでいた手を解いてきちんと椅子に座り直し、八重をまっすぐに見やった。

「出会ったのが、たった昨日のことで……いきなり写真撮られて、こんなこと言われて、気持ち悪いって思われるかもしれないけど。本当に昨日の朝、たまたまあの公園に行って、桜を撮ろうと思ってて……ふと国坂さんを見た時に、思ったんだ。」

 八重を見やるアルの視線は、八重が今朝見ていたアルの、あの、カメラを覗くときの真剣な視線とよく似ていた。真摯で、それでいて、一切迷いのない。そんな彼の表情が、ふと変わる。目を細めて笑う、あの、温かくて眩しい表情だ。

「ああ、綺麗だな、って」

 思わず八重は自分の手を握りしめた。綺麗だ、なんて言われたのは初めてのことでそれにももちろん反応したのだけれど、何より自分をそう称してくれたアルの表情の方がよっぽど綺麗に見える。そんな恥ずかしいこと口に出すのは素面では到底無理で、八重は熱が集まる顔を隠そうと俯くことしかできなかった。

「あはは、ドン引きですよね! ほぼ初対面なのにこんなこと言ってほんとすみませ――」

「あの……っ」

 だけれどアルがあまりに自虐的に笑ってごまかそうとするものだから、思わず八重も口を開いた。今さっきの彼の表情を綺麗だ、なんては言えないけれど、それでも伝えたいことはある。終わらせたくはないのだ。

「私も、思いました。カメラ構えてるアルさん、すごく、すごく綺麗だって」

 言い切ったところで恥ずかしくなって、余計に八重は俯いた。だけれど沈黙が続いたことで八重がようやくちらりとアルを見やれば、アルが左手で口元を覆っているのが見える。アルの顔も赤く見えるのは、八重の気の所為だけではない。

「あの、ええと」

「は、はい」

 ぎこちなくアルが口を開いたので、八重もぎこちなく返事をする。アンティーク調の置時計がかちかちと分を刻みながら二人を見守っていた。

「ナンパみたいで嫌なんですけど……、いやもうこの際ナンパでもいいです。国坂さん」

「はい」

 まっすぐに、アルが八重を見やった。透き通った空のような青い瞳の中に、八重は自分の緊張した表情が写っているのが見える。どうしようもなくそれが嬉しく感じてしまう時点で、彼女の気持ちは傾ききっているのだけれど、八重はアルの言葉を待った。

「一目惚れです。俺、あなたのことが好きです」

 カメラを覗くときと同じくらい真剣な表情。今後、もしかしたらカメラの先の被写体に嫉妬心を覚えることはあるだろうか? 八重は何処かずれたことを考えていた。アルの青い瞳には自分がどう映っているだろうか。きっと今八重がアルの瞳に見ている自分の姿とは、何か違うのかもしれないけれど。それでも『好き』という言葉は間違いない事実であってほしくて、その気持ちは自分も同じくらい大きく共有しているもので、きっと合っているはずだろう。確信して、八重は頷いた。

「はい。私もアルさんのこと、好きです。……一目惚れです」

 丁度八重が返事をした時だった。カチッと大きく置時計の針が動き、時間を知らせる鐘を鳴らす。二人共同時にその音に驚いて時計を見やって、そして、同じようにおかしくなって微笑み合った。

「時計にお祝いされてるみたいだ」

「タイミングばっちりでしたね」

「国坂さんは花嫁みたいだから……じゃああれは祝福の鐘だ」

「祝福の鐘は教会じゃなかった?」

「うん。白い着物でも教会の鐘」

「今、白衣着てませんよ」

「それでも」

 ふと、柔らかくアルの瞳が細められた。どうしようもなく愛おしいものを見ている視線に、八重も同じくらい柔らかく微笑んだ。

「……両親に『大和撫子ゲットした』って報告しようかな」

「はは。ゲット、されちゃいました……」

 頬に伸ばされた温かい手のひらの感触に、八重は愛おしげに自分の手のひらをそっと重ねて、笑った。部屋の片隅で置時計はただ時を刻み続けている。それが彼女に『終わりではなかった』、と示すかのように、規則的に、温かく、ただただ秒針の音を刻み続けていた。


 八重は自分の黒い瞳に写るアルがどれほど鮮やかか、アルにいつか話したいと思った。そうすれば彼はその青い瞳で八重がどのように写ったのか、また話してくれるだろうか。鮮やかな桜色の中でも、ただ、八重を綺麗だと言ってくれたように。


 そうしてきっと八重はまた思う。アルの見たままの世界が彼女に視えるわけではないし、逆も然りだということは重々承知だけれど。

 それでも、ああ、今、幸せだな、と。またこの時のように言い合うことができれば、それで充分だと、きっと思うのだろう。




エピローグ


 カメラを覗けば、どんなに辛い世界でも絵画のように見えた。写真にしてしまえば全てのものはぴたりと動きを止め、それがどんな性質かも分からずただの『もの』として俺の目に映る。だから俺は写真が好きだった。


 俺が生まれたのは日本だった。でも生後間もなく母方の実家に帰った時期があったらしいから正式に俺が日本で暮らし始めたのは小学校に上がる少し前からだ。両親は片言でも日本語が喋れる程度で日常生活に支障はなかったけれど、それまで英語やドイツ語がメインの環境にいた俺にとって聞き慣れない日本語はまるで宇宙人の中に放り込まれたような感覚だった。

 俺が昔住んでいた場所はドが付くほどの田舎で、外国人の存在は今よりもっと異質なものとして捉えられることが多かった。俺の髪の毛の色も、瞳の色も、物珍しそうに見る不躾な視線を嫌というほど感じる。大人などはまだそれでも「かわいい」などと言う程度に留まったけれど、子供相手はもっと大変だった。小学校に上がって暫くは言葉に不自由していたから友達も中々できなくて、散々嫌な目にあった。何処で覚えたか知らないけれど「国に帰れ」なんて言葉もぶつけられて、なんて酷いことを言う人たちなんだと、俺は学校に行くのが酷く億劫だった。


 だけれど、家に帰れば両親は嬉々として俺に話しかける。幸いなことは両親の周りには基本的に良い人たちばかりがいたということで、俺も随分大人たちには可愛がってもらっていた。両親から「日本は良い所」「日本人は優しい」と聞かされて育ってきた俺には、どこかでその言葉を否定したくなかった気持ちがあったんだろう。だから俺は両親の大好きなこの国を嫌いになりたくなかった。我ながらいじらしすぎて涙が出そうだ。

 子供の脳というのは便利なもので、言語力は次第に周りに追い付いていった。スムーズに話せるようになれば、周りと打ち解けるのは意外と容易かった。それでも尚、時折刺さる差別的な視線や言葉に、俺は冷静に蓋をした。


 そんな俺が中学に上がるお祝いに両親が小さなカメラをプレゼントしてくれた。高級なものではなかったけれど、俺はそのカメラで初めて撮った写真を見た時に何とも言えない感動を覚えた。


 ――ああ、この中には俺が欲しい「綺麗な世界」があるんだ


 写真の中の人は何も言わない。俺に対して何も言わない。ただ感動して景色を眺めていたり、親しい人と笑いあっていたり。俺のカメラは純粋にその光景を写すだけであって、俺はその感覚がたまらなく好きだった。このカメラを覗いている限り、俺はこの国を、両親の好きなものを嫌いにならなくて済む。嫌なことを言う人も、じろじろとこちらを見る人も、カメラ越しに覗いて写真にしてしまえば気にならない。むしろ写真にすれば自分の目には美しく写る。だから、写真を撮りつづけてきた。幸いなことに職業にすることができて、俺は今でも自分のために写真を撮り続けている。


 でも、初めてだった。生身で、肉眼で目にして、ああこんなに綺麗な人がいるんだと。思わずカメラを構えた。ファインダーを覗きこんでシャッターを切った。出来上がった俺だけの『写真』は、まさしく俺が目にしたのと同じ光景を写している。それが写真本来の目的だったはずだ。自分が目にしたものを記録する手法として、写す。そんな簡単な作業が生まれて初めてできたような気がした。


 両親に話せば、「お前も単純だ」なんて笑われるんだろう。まったく、俺だってまさか親と動機が同じになるとは思っていなかった。


 八重さん。好奇の視線でもなく、差別的な言葉でもなく。ただただあなたが俺を見て眩しそうに、優しくその目を細める表情だとか、俺を労わる言葉だとか。そういうのが全て、すべて愛おしいんです。俺があなたを「大和撫子」だと言ったのは、あなたに「淑やかさ」を求めているんだとか「日本らしさ」を求めているんだとか、そういうのじゃない。ただ、この国で美しさを俺に感じさせてくれた。そういう意味で、あなたは俺にとって「最強の大和撫子」なんです。


 あなたをベンチに座りながら待っているこの時間に、自分の目で見る世界が美しく見えるようになった。カメラを覗かなくても。それはあなたのお蔭なんだって、あなたに感謝しているんだって、どう表したら伝わるのか俺には分からないけれど。


 大学の門から急ぎ足で出てくる彼女が見える。俺の姿にはまだ気づいていない。急いで来てくれたのか、綺麗な黒髪は少し乱れていて、そこがまた可愛いんだけど。なんて声をかけようか。今日のワンピース、似合ってるね、とか?そうすれば笑ってくれるかな。


 あ、気づいた。


 俺の方を向いた彼女の瞳が柔らかく細められる。ああ、俺の一番好きな笑顔だ。あなたは俺を見て眩しそうな表情をするけど、俺にはあなたがすごく輝いて見えるのに。


 カメラを構えて、ファインダーを覗く。大丈夫、彼女は輝いてきらきらして俺には見えているけど、太陽の光は俺の背中にあるから逆光じゃない、なんて馬鹿なことを考えながらシャッターを切る。彼女の笑顔が驚いた表情に変わって、でも写真は笑顔のままで捕えているから問題なし。


 ぱたぱたと急いで走ってきた彼女が、焦ったように口を開いた。ああもう、そんな走ってきて。ひらひらとグレーのワンピースが揺れている。

「ちょ……っ急に撮らないでください! 絶対変な顔してたでしょう!」

「大丈夫、最高に可愛かった」

「な、なに言……!?」

 驚いて真っ赤になって、本当に可愛い。走ってきてくれたから乱れている髪を手で梳いて直していれば、気恥ずかしいのか彼女は俯いた。

「……八重さん、ほら家帰ろ」

「ん」

 まだ何となく不服そうな表情のままだけれど、どうしたら機嫌が直るかな。カメラを肩にかけて、空いた右手で彼女の左手を握る。指をからめれば、きゅ、と彼女の指にも力が込められた。それがどれだけ俺を幸せにするか、あなたは分かってるかな?

「晩御飯、適当に家にあるものでいいかな?」

「うん? スーパー寄らないの?」

「んー……」

 男心を暴露してしまえば今すぐ抱きしめてキスしたいところだけれど。此処がイギリスとかだったらまだそれもアリかな。でも日本だし外でそういうことはしない方が良いって俺もよくよく分かってるから大丈夫。でもこのくらい許してくれる?

 彼女を覗き込んで、視線を合わせて。

「……早く帰って、八重ともっと仲良くしたいなー……なんてね」

「――っ!?」

 今、ここでは、あなたのその表情が見れただけで満足としよう。あなたの綺麗な黒髪も、今は赤く染まっている白い肌も、すべてこの綺麗な風景に溶け込んでいる。紛れもなくこの世界は美しいんだと、俺に示している。だから俺はあなたがいる限りこの国を美しいと思える。この国が好きでいられる。カメラを通さなくても、こんなに美しいんだと示してくれるのはあなたがいるから。


 だから、帰って二人だけの空間では。俺だけに見せる一番綺麗な八重を、俺だけの目に見せてください。


「……今度、私が撮る」

「え?」

「私が、アルさん撮ります。覚悟してください」

「いや俺自分撮られ慣れないからちょっと」

「覚悟してください」

「はい」


 ならいつか、あなたの目に俺がどう写るのか、教えてほしい。

 ――私も、思いました。カメラ構えてるアルさん、すごく、すごく綺麗だって

 嫌なものだと捉えないために行っていた、俺の『撮影』という行動を。俺が俺を浅ましいとさえ思っていた、その行動を『綺麗だ』と評価してくれたあなたの目に、俺がどう写っているのか。そうすれば、俺は俺自身も、日本のこの地にいる俺自身も美しいかもしれないと錯覚できそうな気がするから。



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