4月11日(木)☀:化学準備室にて、3人
【京一】
放課後。
授業が終わった後、さて帰ろうかと教室を出るとき、山本に話しかけられた。
山本耕太郎。
昼休みに話題に出た、僕と晃が共によくつるんでいるクラスメイトである。
ひょろひょろと細長い体で、いかにもひ弱そうな外見をしている。
「わりい京一。ちょっと頼みがあるんだけど、今からヒマ?」
山本の頼みというのは、担任の真田先生から頼まれた化学準備室の掃除を代わってほしいというものだった。
山本は僕らのクラスの副委員長であり、掃除の仕事を頼まれたのだが、今からどうしても外せない用事があるとのことで僕に代役を頼みに来たのだ。
「用事ってなんだよ。彼女とデートか?」
「違う違う。新聞部の取材でさ」
「やっぱりデートじゃないか」
山本の交際相手は同じ新聞部員だ。取材であれ、彼女と行動を共にするのは事実だ。
掃除なんて面倒だし、何よりそんな用事で掃除を押し付けられるというのは解せないが、
といってもこれからヒマなのは事実なので仕方なく引き受けることにした。
化学準備室に到着した。引き手に指をかけ、戸を横にスライドさせる。
そこには先客がいた。
入室してきた僕のことをじっと見るその先客は、……凛だった。
「…………、山本君が来ると思ってたんだけど。なんであんたがここに?」
「いや、山本の代役で……」
「ふうん」
素っ気ない返事だけして、それ以上は何も聞いて来なかった。
凛の方こそなぜここにいるのかと聞こうと思ったが、よくよく考えればわかることだった。
そもそも掃除の仕事は委員長と副委員長に頼まれたものだったのだ。
副委員長は山本、委員長は凛である。
狭い室内で二人きり、会話もなく淡々と掃除をする。
化学準備室なのだから本来ならば化学部の部員などがやるべきであろうが、残念ながらうちの学校には化学部どころか理科系の部活が一つも存在しないのだ。
生物と化学担当の真田先生にとって、自分のクラスの学級委員しか頼む相手がいなかったのだろう。
僕と凛、しばらく無言のまま二人で掃除を進めていると、
コンコン、と丁寧なノックの音が聞こえ、女生徒が一人入室してきた。
「ごめんね、遅くなっちゃったけど。手伝いに来たよ」
天使、否、宮本有紗がそこにいた。
宮本は、学級委員の二人が化学準備室の掃除を任せられたと聞いて、二人では大変だろうと思って手伝いに来たのだという。
さすが宮本。心遣いが素晴らしい。
ただし、副委員長である山本ではなく僕がいることは意外だったろう。
三人がかりとなり、化学準備室の清掃はすぐに終わった。
「ふう。こんなもんだね」
腕で額をぬぐいながら、宮本が言う。
「私、カギ返してくるから」
凛がそう言って職員室のほうへ廊下を歩いて行った。
残された僕と宮本は二人でゴミ出しに向かう。
掃除によって生じたゴミ袋は二つ。
僕一人で良いと言ったが、そこはやはり優しい宮本、「一緒に行くよ」と。
僕は宮本と並んで集積所までに向かって歩いている。
さきほどまでは凛がいたのであまり意識しなかったが、二人きりになると途端に緊張しだしてしまう。
昨日の図書室に続いて、本日もまた宮本と二人きりの状況になるとは。
「耕太郎くんの代わりに掃除を手伝いに来てくれるなんて、小智くんは優しいね」
「いや、僕は代役を頼まれたから。それを言うなら自主的に手伝いに来た宮本の方がえらいよ」
「ふふ、そう言ってくれるとうれしいな」
柔らかく微笑む宮本。間近で見ると思わず動悸が逸る。
そこでふと、昨晩の夢のことがフラッシュバックした。
朝、凛を見て、魔法少女モノの意味不明で稚拙なあの夢を思い出して動揺していたものだが、そもそもあの変な内容になる前に宮本の夢を見ているのだ。
宮本に告白して、勝手にオーケイさせて、あまつさえキスまで迫るあの不埒な夢。
本人を目の前にすると、なんとなく罪悪感が込みあげてくる。
僕がそんな夢を見たなんてことは絶対に本人が知り得るわけはないのだが、なにか下手をすると自分がそんな低劣な妄想をしていたことを悟られてしまうような気がして、つい気を張ってしまう。
「小智くん」
宮本に名を呼ばれ、僕ははっと我に返る。
「いきなりなんだけど、ちょっと聞きたいことがあって」
急に改まるようにして言う宮本。
「な、なに?」
「凛ちゃんのこと、どう思ってる?」
「……へ?」
まさかの質問に思わず変な声が出た。
「あ、別に、深い意味はないんだけどっ。なんかちょっと、気になったっていうか。ほら、小智くんと凛ちゃんって家が隣同士なんでしょ? どんな感じなのかな、ってさ」
「……どう思ってる、て言われても……」
他のクラスメイトも、僕と凛が幼馴染と知るや否や、そういった質問をしてきたやつは今まで何人かいた。
男女の幼馴染ということで、なにか漫画的なおもしろい話をよく期待されるのだ。
しかし宮本の口ぶりは彼らのような茶化す言い方ではなく、なにか迫真的な言い方のように聞こえた。
「いやまあ、ただの幼馴染だよ。別に特別なもんじゃないと思うけど」
僕は今までそうしてきたように、面白みのない言い回しで答えた。
「あ、そうなんだ……」
宮本は、何とも言えない表情。
何だろうこの空気。どう答えるのが正しかったのか。
それから特に会話が盛り上がるということはなく、僕は宮本と集積所までゴミを運んだ。
僕は彼女がなぜそんな質問をしたのか気になったが、ついにその疑問を切り出せず、結局もやもやとした気持ちのままゴミ出しを終えた。
学校を出ると、宮本とはそこで別れ、帰路が同じ凛と二人で帰ることになる。
校門を抜けて別れるとき宮本は、
ゴミ出しのときの神妙な表情とは打って変わって、やけににこやかに「じゃあねー」と、僕らに挨拶をしていった。
結局、宮本有紗の心の内はよく分からない。
・・・
十分後、僕は電車に揺られていた。
少しスペースを空けて、隣に凛が座っている。
彼女は文庫本にじっと視線を向けている。僕は対面の窓の向こうの景色をぼうっと眺める。
昨日と同じ。
二日連続で彼女とこうして同じ電車で帰ることになるとは。まあ別にそれほど感慨深いわけではないが。
「あのさ」
凛が不意に本を閉じて口を開いた。
「ん?」
「……有紗に、なんか変なこと言われなかった?」
「変なこと?」
「その……、あんたとのこと、みんなによく面白がって言われるから。有紗もあんたに何か言ってなかった?」
彼女も僕と同じく、その手のいじりには若干うんざりしているようだった。
「……別に、なにも言われてないけど」
どう思っているのか、と聞かれた。
しかしそれをありのまま凛に言うのは少し気が引けた。
当の本人にそれを言って、もし、その質問にどう答えたのかと聞き返されたら、またその返答にも困る。
だから何も聞かれていないことにした。
「そう」
凛はあくまで冷静なままそう返した。
「あ、えと、そういえばさ、今日、イブとクララと一緒に食堂で昼食を食べたよ」
僕は少し強引に話題を変える。
「ふうん。あの子たちは元気?」
「元気も元気、昔のまんまだよ」
そこで僕は、クララが言っていたことを思い出した。
「……凛も一緒にどうか、ってクララが言ってたんだけど」
あくまでクララがそう言っていたという事実だけ、伝える。
「一緒に……?」
しばし考え込むような間をあける。
「……ごめん、私は、遠慮しとくよ。いつもお弁当だし」
「そうか」
「私、あの子たちが入学してから、まだ話してないんだよね」凛は、本の表紙を指先でなぞりながら言う。「ちょっと話しかけづらいっていうか。……美代には、たぶん嫌われてるような気がするし」
電車が、がたん、と揺れた。
この車両内には僕ら二人以外にはほとんど乗客がいない。
他の数人はそれぞれ寝ていたり携帯電話をいじっていたりしていて、言葉を発することはない。
僕らの会話の切れ目には、電車が線路の上を走る音だけが響く。
僕は、凛の言葉に対してなんと返せばよいのかわからなかった。
僕の目線は外の景色のまま。視界の隅に見える凛は手元の本を見つめたまま。表情はうかがえない。
気休めの一つでも言うべきだったかもしれない。
ここで言葉が出ない僕は非力だろうか。
それから電車が駅に到着するまで会話はなかった。
電車を降りて改札を抜けると、そのまま凛が足早に歩き出す。
僕も彼女に続く。
数分歩いて、お互いの家の前までたどり着いた。
「じゃ」凛が短く言う。
僕は、「あ、うん、じゃあ」と返し、帰宅した。