5月2日(木)☀⇒☽:私は弱い
【凛】
高校二年に上がって一か月が経った。その日、私は初めて遅刻をした。
小学生の頃から、始業時間に遅れて登校したことは一度もない。
それがここへきて初めての遅刻。
駅のホームに立ち、憂鬱な気分で電車を待つ。
仕方ないとはいえ、遅れて教室に入るなんて屈辱だ、まるであいつみたいじゃないか……。
いつもいつも遅刻ギリギリで教室に入って来るあの男の顔が頭に浮かんだ。
閑散としたホームに人が入ってくる気配がした。
見ると、頭に浮かんだその顔がそのままそこにいた。
最悪だった。
人生初めての遅刻をしてしまった今日この日に、よりによって京一と鉢合わせるなんて……。
京一と並んで座り、電車に揺られる。
いつもの登校時にはちょうど他校の生徒や出勤する会社員で騒然としているのに、いまは微妙な時間なので人気が少ない。こうして静かな車内で彼と一緒に登校するのはとても違和感がある。
「もしかして、寝坊した?」
隣に座る京一が訊ねてきた。
「あんたと一緒にしないでよ」
「じゃあなんでこんな時間に?」
「…………、うるさいな、もう。なんだっていいでしょ」
過剰に拒絶しすぎたかもしれない。
でも、それ以上は聞かれたくなかった。
遅刻の理由を明かすには、色々と事情を説明しなければならない。
……私が、最近悩んでいることについて。
自分が悩んでいると他人に打ち明けるなんてどうしても気が引けるし、しかも相手が京一ならばなおさら。
こいつはいつも適当だ。
毎朝のように遅刻ギリギリで登校してくるし、
放課後になるととそそくさと帰っていくし、
そもそも授業中だって居眠りばかり、
そのくせ課題の提出だけは一応ちゃんとこなしていて……。
要は、落ちこぼれない程度にだけ最低限力を入れる。
結果的になんとかなってさえいれば、その過程でどのようなことを為していたかの意義は求めない、そんなやつだ。
彼に、私の弱い部分を見せたくはなかった。
・・・
私の父はシステムエンジニアの仕事をしている。
その仕事はとても忙しいらしく、いつも帰りは遅いし、あまり休みもない。
それがこの春になってから、父の仕事はより一層多忙になったようだった。
帰宅すると疲れ切った様子だし、朝早く出たり夜遅くに帰ったりが続いている。
私は父が心配になり、ある日、帰宅した父に言った。
「最近忙しそうだけど、大丈夫?」
それに対して、父は笑顔で言う。
「大丈夫、このくらいじゃあ父さんへこたれないよ」
さらに父は、家事を任せっきりで手伝いもできなくてすまんな、とまで言ってきた。
自分の方が大変な状況なのに、私のことを気遣ってくる。
ゴールデンウィークが目前に迫っていた。
仕事詰めの父も連休の間にゆっくりと体を休められるだろうと思って、私は安心していた。
しかし昨日の夜、連休を目前にして、やはり仕事を休めなくなったと父が言ったのだ。
この年になって、どこか遊びに連れて行ってほしいなどとは思わない。
ただ、父に休んでほしかった。
そんな中、今朝、父の様子がおかしかった。
いつもようにお弁当を作っていたとき、ふと時計を見ると、起きる時間になったのに父が起きて来ていないことに気付いた。
父にしては珍しい。起こしに行こうと思い、父の部屋に行った。
父は目を覚ましていた。
でも、様子が変だ。
父は私に気付くなり、うまく体を起こせないから手を貸してくれと言うのだ。
一人ではどうにも起き上がれなくて、でも私が手を貸すと、いつも通りには起き上がれた。
自然ではない。それは疲労の蓄積によるものではないか。
いや疑う余地もなく明らかにそうだ。
だから、私は父に言った。
「父さん。大丈夫なの……?」
しかし、父の返答は相変わらずだった。
「大丈夫。心配かけてごめんな、平気だから」
胸が、とても痛かった。
父は私に心配をかけさせたくないのだ。
それをわかっているし、父がそう言うのだから、それ以上はもうなにも言えなかった。
私にとっては父のことを想っての言葉でも、父は私にそれを言わせたくない。
ならば、下手に強く言うと父の気を悪くさせるかもしれない、そう感じた。
……でも、そこで強く言えない自分は弱い人間なのかもしれない、とも感じていた。
本来、助けになりたいなら、相手のこだわりを折ってでも自分が強く出ることの方が好ましいのではないか、と私には思えた。
結局、父は出勤していった。
起き上がった後は普通に体を動かせているようには見えたが、さすがに心配せずにはいられない。
そうして動揺してしまっているばかりに、自分の登校の用意がままならず、遅刻してしまう始末……。
やっぱり、どうにも自分は弱い人間のようだと、強く感じてしまった。
・・・
その日一日を終えて、私は帰宅した。
父は今日も帰りが遅いだろうか。
心配に思いながらも、とにかく夕ご飯の用意をする。
父からメールがあった。やはり帰りは遅くなるようで、先にご飯を食べておいてくれとのこと。
いつものことだ。別に孤食が寂しいわけではない。
夕食を済ませ、お風呂に入り、数学の課題をある程度解き進めていたところで父が帰宅した。
改めて聞いてみたが、変わらず、明日も仕事なのだという。
休みなよ、とは言えず。
しかし、頑張ってね、などとも言えず。
逡巡したあげく、そっか、とだけ言って、私は自室に戻った。
ベッドに横になりながら、目を閉じる。
脳裏には、母が浮かんだ。
病気で入院し、徐々に体調が悪化していく中でも、母は私にはいつも『大丈夫』だと言っていた。
私に心配をかけさせたくないためだ。
母は、体は病弱でも心はとても強かな女性だった。
そんな母に憧れていた。今でもそうだ。
だが、私は母のようにはいられない。
自らの弱さを実感しながら、私は眠りに落ちていった。
…………
……




