4月10日(水)☽:夢の案内人、その名はキューピー
【京一】
僕は夢を見ている。
夢というのは、記憶の整理だとか、その人が普段考えていることが反映されているだとか言う。
クラスメイトの宮本有紗に告白をする夢。
そんなのを勝手に夢に見るのは少々下劣かもしれないが、本日、彼女の笑顔に思わず惹かれてしまったこの僕がそんな夢を見るのは自然ととれる。
次に、薄紅色のもやに囲まれた空間になる。
これは夢の内容として不可解ではあれども、もしかしたら僕の頭の中がピンク一色煩悩塗れであることを暗示しているということかもしれない。誠に不本意であれ、それでも一応の辻褄は合う。
問題はそこからだ。
もやの空間の中で唐突に現れた謎の小人。
これは僕が見ている夢のはずだ。ということは寝ながら頭の中で考えていることだ。
こんな、天使なのか妖精なのか名状しがたい奇妙な小人が、僕の脳内妄想の産物だということか?
僕は頭がおかしくなったのだろうか。
小人は、仁王立ちしながら僕の方をじっと見ている。
仁王立ちと言っても、地面に足をつけているわけでなくその姿勢のまま浮遊しているのだ。
「アレアレ、固まっちゃってますケド、どうかしましたカ?」
得体の知れないそいつは、体をくねらせて僕の顔を覗き込むようにする。
「うーん、聞こえてまセン? ……返事がないデスね。屍デスか?」
「……聞こえてる、聞こえてるから」
「お、良かったデス」
「……なんだこれ、なにこの夢、なんなのこいつ」
僕は内心の困惑を吐露する。
いくら夢の中と分かっていても、こんなものが突然登場するなんて突拍子がなさすぎる。
「だから、ワタシは『夢の案内人』デスヨ。ワタシは夢世界の中を自由に行き来できるのデス。そして、迷える子羊サンを案内するのがワタシの役目なのデス」
小さな胸を誇示して言う。
とにかくこれが夢だろうと、目の前の小人が自身の妄想の産物だろうと、状況を理解せずには始まらない。ひとまず僕は小人とコミュニケーションを図る。
「……夢の案内人。そ、それがなんで僕の夢にやってきたわけ?」
「ふふん。いいデスか京一サン、ワタシは見ていたのデスヨ。あなた、さきほどずいぶんと不埒な夢を見ていましたネ?」
「えっ」
「なぜ知ってる、って顔デスネ。当然デス、ワタシは夢の世界を自由に行き来できる案内人なのデスから。
要するにまあ、夢世界をパトロールとかするわけデス。するとなんとまあ不埒な夢を見ている男がいることか。ふん、あと少しのところでキスできたのに、残念でしたネー!」
さっきの夢のことだ。
あれを、この小人に見られていたというのか。
「しかし、ご安心をば。不健全な夢を見る子羊サンを、健全な夢世界へと案内して差し上げるのが案内人たるワタシの使命なのデスヨ。……というわけで、善は急げデス。京一サン、あなたを健やかなる夢の世界へご案内いたしますデス」
キューピー、と名乗るそいつは当惑する僕にはお構いなしといった様子で、いきなり体を翻し、そのままもやの中にもぐっていった。
「あ、ちょ、待って」
「ふふん、いろいろと説明するよりはお見せしてしまうのが手っ取り早いデス。ホラ、こっちデス」
手をひらひらとなびかせながら先を行くキューピー。
僕はあわてて小人を追った。
頭上にかかげた輪っかから放たれる輝きが、まるで夜道を走る車のテールライトのようにもやの中に線を引いていく。
小人に続いて、もやの中を泳ぐようにして進んでいく。
視界いっぱいの薄紅色の中、ぴろぴろと小さな羽を上下させて推進してゆく小人。
「着きますヨー。気を付けてくださいネ」
その言葉の直後、もやを抜けた。
ぱっと晴れた視界に、突然アスファルトの地面が見えた。
あ、地面だ。と思った瞬間、今まで浮遊していた体にいきなり重力を感じた。
そして、勢いよく迫りくる地面に対して為すすべなくそのまま顔から突っ込んだ。
「いってえ……、いや、痛くないな」
やはり、夢だから。
体を起こして辺りを見回すと、そこは見慣れた風景。
近所の町並みだった。
さきほどまでのもやだけの空間と打って変わって、とても『現実的』な風景。
しかしここは夢の中のはずだ。
もしすでに僕が目を覚ましているのなら、寝ぼけて夢遊病のごとく一人で家を出てきたことになる。
さすがにそれはないと思う。それに空を見上げると頭上に太陽があり、夜ではないこともわかる。
試しに頬をつねってみたが、やはり依然として痛みは感じなかった。
「なんでこんなところにいるんだ……?」
僕のつぶやきに、返される言葉はなかった。
「おい、キューピー?」
気がつくと、あの胡散臭い小人の姿はなかった。…………。
つまり、僕はあの奇妙な小人に、先ほどまでのもやの空間からここに『案内』されて来たということなのか。
しかし当の案内人は、案内をするだけして忽然と姿を消してしまった。
あくまで相手を目的地に送り届けることがヤツの役割なのだろうか。
立ち竦んでいるだけでは何も起こりそうにないので、僕は歩を進めてみた。
アスファルトを踏みしめる硬い感触が足裏にしっかりとある。
足音も鮮明に耳に入ってきた。夢とは思いがたい感覚の鮮度だ。
ここは確かに僕の住む住宅地の中。僕の家からそう遠くない位置だ。
夢なわけだから、つまりこの風景は僕の記憶の中から作られているだろうか。
人の気配は全くない。
閑静な住宅地を、ただ無心で歩く。
気がつくと小学校の前に来ていた。記憶のままの懐かしい学び舎が目の前にある。
僕の足は自然と校門を抜けていた。
足裏にはグラウンドの土を踏みしめる感触。所々に馴染みのある遊具が並んでいる。
校舎内に入ると、静かな玄関ホールに足音が反響した。
木製の靴箱にはひとつひとつ名前が記されている。古い作りのため開け閉めの際に軋んだ音がするのだ。
昔は一番高いところには背伸びをしなければ届かなかった気がするが、今見るとずいぶん低い。
靴箱の隣には傘立てがあり、いくつもの『置き傘』が並ぶ。持ち手部分にはしっかりと名前が書いてある。中には折れて使い物にならなそうなものも見受けられる。
玄関ホールの高い天井を見上げる。ふう、と息をつく。
ひとたび冷静になると、いよいよこの状況に対する疑問がぐっと湧き上がる。
本当に奇妙な夢だ。
ここへ案内をした小人の目的も分からない。
これからどうすればいいのだろうかと途方に暮れていると、ふと声が聞こえた。
「あー、きょーいち、こんなとこでなにしてんのー!」
溌剌とした少女の声だった。
唐突な呼びかけに我に返り、天井を見上げていた顔を戻し、正面に視線を向ける。
「どしたの? 変な顔して」
腰に手を当ててこちらを見据える少女。後頭部には立派なポニーテールを携えている。
驚いた。
そこにいるのは凛だった。
しかも、幼い。
小学校低学年ぐらいの時分の姿。
ちょうどその背景にぴったりと馴染んでいる。
「もう、急いで、授業始まっちゃうよ!」
彼女は手招きをするようにして僕に言う。
突然の事態に思考が追いつかない。
しかし彼女は僕の動揺など知る由もなく無慈悲に急かす。
「ほら、上履きに履き替えてさ、早く」
僕は幼い凛に促されるまま外靴を脱ぐ。
靴箱の蓋に書き連ねられた名字を目で追ってゆくと、最上段のひとつに僕の名前が見えた。僕は靴箱の蓋に手を伸ばす。
……届かない。
自分の靴箱に手が届かない。
つま先立ちをしてようやく届き、外靴と上履きを入れ替えた。
上履きを履いて居直ったところで強烈な違和感に気付く。
先ほどまでと景色が違う。
いや、景色は一緒だが高さが違う。
目線の位置が低くなっているのだ。
「……もっと変な顔になってるよ? なに、どしたの?」
訝しげな顔で僕を見る凛。
その凛とも目線の高さが同じだった。いやむしろ凛の方が少し高い。
……そうだ、小学生の頃は彼女の方が、少し身長が高かった。
明らかに自分の体格が幼くなっていた。ちょうど小学校低学年の頃ぐらいと思われる。
「行こ行こ」
急な肉体の変化に驚いている間もなく、凛が僕の手を引いていく。
僕は彼女に連れられるまま廊下を歩き、教室へと入った。
教室内には同じ年頃の子供たちがいた。
当時の同級生たちの懐かしい顔が並んでいるのかと思ったが、みんなどれも見覚えがない顔だった。
顔をよく見ようとしてもぼやぼやとしてあまり判然としない。つまりこの夢において彼らはモブということなのだろうか。
子供の頃の自分。
隣の席には同じく幼い凛。
釈然としない気持ちのままとりあえず成り行きを見守ろうと席に座っていると、先生がやってきて授業が始まった。
小学生の授業。当然のことながら幼稚な内容。
何だろうかこの夢は。
次第に冷静になっていき、この状況の奇妙さが自覚されてくる。
おとなしく小学生の授業など受けている自分が途端に恥ずかしくなってきた。
しかし、かといってこの状況から黙って教室を出ていくのもなんだか憚られる。どうしたものかと考えてあぐねていると、突然事態が一変した。
地面が大きく揺れ出したのだ。
モブの子供たちが騒ぎ出す。
どうやら地震が起こっているようだ。先生の指示でみんな一斉に机の下にもぐりだす。
「きょーいちも早く!」
凛に言われて僕も机の下にもぐる。なんだか懐かしい感じだ。
しばらくすると揺れは収まり、みんなゆっくりと顔を出す。
地震にやたらテンションをあげた子供たちがわあわあと騒ぎだす。子供らしい。
先生が生徒の無事を確認していると、ある生徒が窓の向こうの校庭を指さして言った。
「みんな見て! 運動場になにかいるー!」
その子に促されるまま児童たちは窓に張り付くようにして外を見た。
僕も気になり、必死に背伸びをして群がる子供たちの頭越しに校庭を見た。
……そこには、得体の知れない何か巨大な生物がいた。
赤い塊。
異様なシルエットがうねうねと艶めかしく蠢いている。
「おっきなタコだーっ」
子供が叫んだ。
そこには、全長三十メートルはあろうかというほど巨大な、タコがいた。
「……へ?」
思わず素っ頓狂な声が出てしまう。
タコが、その大きな体躯をうねらせ、おもむろに校舎の方に顔を向ける。
子供たちが一斉に悲鳴を上げた。
僕はというと、あまりの超展開に思考が停止していた。
混乱しつつも、ふと周囲が気になって見回した。子供たちの中に、凛がいないのだ。
正直、この異様な事態の中で唯一現実的な存在に思える凛だったが、どこにも姿がない。
逃げたのだろうか。
しかし彼女が周りの子供たちに声もかけずに一人で逃げ去るだろうか。
「待ちなさーい!」
どこからともなく聞こえたその声が、騒然とする教室内に響く。
するとまた突然、子供たちが窓の外を指さしだした。
子供たちの指さす先、鋭い太陽光の中に小さな黒い影が見える。
その影は空からものすごい速さで飛来し、瞬く間に校庭に降り立った。
「あ、あれはーっ」
子供らは声をそろえて叫ぶ。
「「マジカル☆リンちゃんだっ」」
箒とステッキを携えてそこに立つ少女は、さきほどまで近くにいたはずの幼い凛だった。
黒いとんがり帽子を目深にかぶり、
黒いローブに身を包み、
ステッキと箒を携えている。
ローブの下に覗く服にはセーラーカラーの襟がついており、穿いていたスカートはチェック柄に代わっている。
古典的な『魔女』のスタイルに少々アレンジを施したような、そんな姿で、巨大生物と対峙している。
僕は今一度、心の中で静かに言葉を漏らす。
……なんだこの夢は。