4月10日(水)☀:図書室にて、2人
『おーい京一、早く来いよ』
遠くから僕の名を呼ぶ声。陽気な男の子の声である。
雑木林の中に僕は立っていた。頭にぼんやりともやがかかったような感覚がある。
『みんな遅いよー』
さっきに続いて、女の子の声が飛ぶ。どちらも幼い声だ。
立ち上がった僕の目線の高さも幼子のそれであった。
生い茂る草木によって姿が見えないが、どうやら向こうで声の主二人がきゃっきゃと騒いでいる様子。
『もう。晃もイブも、急ぎ過ぎ』
そう言って、すっ、と僕の隣に少女が立ち並んだ。
『クララのことも、ちゃんと待ってあげればいいのに』
その傍らに、さらに背の低いもう一人の少女。
『あうう。ごめんなさい』
僕の隣に立つ少女は凛、そして彼女の服の裾をつかみつつ、もう片手で小さなクマのぬいぐるみを大事そうに抱える少女はクララだ。
どうやら僕らはこの雑木林に虫捕りに来たらしい。
昔はよくこの五人で遊んでいた。
僕と晃と凛は同い年、イブとクララは一つ下だ。
少し離れたところで、晃とイブがはしゃいでいる。
いかにもやんちゃ少年といった半袖短パンの少年が、目当ての虫を発見したのか前方の樹を指さして駆けていき、少女が追いかける。
少女のそのブラウンの髪は、木々の合間から差し込む陽光を受けてきらきらと光っていた。
『私たちも、行こ行こ』
凛がそう言って、後ろ頭に垂らしたポニーテールをふわりと翻し、クララの手を引いて歩き出した。僕も並んで歩き出す。
風がそよいで、木の葉の触れ合う音が広がる。
それはまるでさざ波のようだった。
深閑な森の中。
とても穏やかな気持ちになり、なんだか体がふんわり浮いてしまうような心地だ。
すると突然、視界がぼやけ始める。
そしてそのまま、グラデーションのように色彩が沈下していった。
草木の輪郭線がぼやぼやと曖昧になり、視覚映像が途切れていく中、子供たちの楽しげな声が耳の奥でこだましていた。
…………
……
かくん、と首が揺れて、スイッチが切り替わるように意識が覚醒した。
ゆっくりと、頭を上げる。呆けた頭が次第に働き始める。
視界の中に緑はない。ここは屋内だ。
そこでようやく、今さっきまでの情景は夢だったのだと気付く。
どうやらうたた寝をしながら幼い時分を夢に見ていたようだった。
ここは図書室だ。
室内は、しん、と静まり返っている。
窓の向こうにグラウンドがあり、運動部員のかけ声が遠く聞こえる。それがちょうど心地よいBGMのようだった、なるほど眠くなるわけである。
「あ。小智くん、起きた?」
顔を覗き込むようにして、隣に座る女生徒が小さく声をかけてくる。
「ごめん。すっかり寝てたや……」
「もう、小智くんってほんとう居眠り多いんだね」
宮本有紗が、詰るようにそう言う。
僕が授業中にいつも眠りこけているのを分かって言っているのだろう。
「ま、でも仕方ないよね。座ってるだけだとどうしても眠たくなっちゃうもの」
図書室のカウンターの中で、僕と宮本は二人で並んで座っていた。
「図書委員って楽な仕事だと思ってたけど、あんまり退屈なのも考え物だね」
宮本は僕にだけ聞こえるように小さく言って、肩をすくめた。茶色がかったセミショートの髪がふわりと持ち上がる。
立候補だと時間がかかるからという担任教師の意向によって、生徒の担当委員はクジによって決められた。
僕がいま宮本有紗と一緒に図書室のカウンターの中で座っているのは、つまり僕のクジ運がそのとき抜群に冴えわたっていたということだ。
宮本はかわいい。いやもう抜群に。
クラスのマドンナという言葉があるが、宮本はまさしくそれである。
同じクラスになってまだ短いが、彼女の魅力はよくわかる。
明るい笑顔で周囲を和ませたり、どこか抜けているような天然さで不意に相手を笑わせたりする。
その柔らかな空気感や、また僕のような者でも例外にせず誰にでも気さくに話しかける分け隔てのない優しさから、男子はもちろん女子にも受けがいい。いつもクラスの中心にいる。
ちなみにマドンナという言葉は聖母マリアを意味し、転じて魅力的な女性を指す言葉になったそうである。
なるほど確かに彼女の清廉潔白な笑顔と屈託のない優しさはまるで聖母のそれだ。
クジの結果が発表されたとき、小学校からの腐れ縁の友人が暑苦しく顔を近づけてきて言っていた。
『図書委員だってあれだろ、狭いカウンターでずっと二人で並んで座ってるじゃん。宮本と一緒に図書委員なんて、お前それ最高じゃねえか。フラグの一つ二つすぐに立つんじゃねえの』
表示される複数の選択肢を巧みに選び分けることで幾人の美少女を攻略していく類のゲームが大好きな彼は、すぐにそういうことを言う。あほか、とその時は返した。
もちろん僕にも宮本と仲良くなりたいという願望はある。
あるのだが、しかし気がつけば宮本の隣でうたた寝をこいていて、ばっちり夢まで見る始末。
授業中ならいざ知らず、こんな場面でも居眠りしてしまうなんて僕の睡眠欲の強さには我ながら呆れる。
「あ、もうすぐだ」
壁に掛けられた時計を見て、宮本が言った。つられて僕も時計を見る。もうすぐ、というのは図書室の閉館時間のことだ。
「本当だ。思ったより早かった」
僕がぽつりと言うと、宮本がこちらに顔を向けなおして、
「まあね、小智くんけっこう長く眠ってたものね」
と、わざと意地悪っぽく言った。
「う、ごめん」
「ふふ、いいよ。誰もカウンターに来なかったし。……気持ちよさそうに眠ってたけど、なにかいい夢でも見てたの?」
「え? いや、そんな、別に大した夢では……」
僕は慌ててそう言った。
さっき見ていた夢というと、幼い頃の自分が友人と虫捕りをして遊んでいた情景……。
それを説明するのは妙に気恥ずかしかったし、何より本当に大した夢じゃないと思う。
「えー、そうなの? ……ま、どんな夢見てたかなんて聞かれたら恥ずかしいよね」
そう言って潔く身を引く宮本。察しが良い上に気遣いが出来る、さすがだ。
壁に設置されたスピーカーから、聞き馴染んだチャイムの音が鳴った。
「時間だね」
宮本はそう言って席を立ち、読書をする数名の生徒に退室を促していった。
僕も立ち上がり、周囲の簡単な片づけをした。
読書家たちが退室し終えたのち、僕らも帰り支度を済ませる。
「そういえば、」
鞄を背負って歩き出そうとした宮本が、何か思い立ったようにふと足を止めた。
「小智くんって、けっこうかわいい寝顔してるんだね」
「なっ」
突然、予想外なことを言われて僕は硬直してしまった。
「あ、ごめんね。悪いとは思ったんだけど、つい寝顔を覗き込んじゃって。……えっと、それはホラ、他人が恥ずかしがるトコこそどうしても見たくなっちゃう心理でさ」
宮本は歩みを再開してから、言葉をつづけた。
「でも、委員の仕事中に居眠りする方が悪いですからね。……今度からは覗かれないように、ゆめゆめ、気をつけることだねっ」
くすっと笑ってそう言い、彼女は足早に図書室から出て行った。
優しげな、しかしどこかいたずらっ子のようでもある笑顔。
そこには天使と小悪魔を同時に思わせるような怪しい魅力があった。
――「やられた」、と思った。
男子みんなの人気を博している宮本に対して、もちろん僕も例に漏れず好印象はあった。
だが、さすがに本気の恋をしていたわけじゃない。
勝ち目のない勝負に臨もうとするような気概を僕は持ち合わせていない。
でも、間近で、あんな不敵で素敵な笑顔を見せられると。
不覚にもときめいてしまった。いやもう、抜群に。
かくして、僕こと小智京一は、クラスのマドンナこと宮本有紗に惚れたのだった。