甘い話。(1)
あの日の私は、どうかしていたのだと思う。
もし私がどうかしていなかったのなら、世界がどうかしていたのだ。
朝焼けが照らすのは酒瓶が溢れ返った室内。充満するアルコール臭。1度では捨てきれなかった空き箱のコンビニ弁当。いつの間にか腐ったパン。私が入るのは許されない、奥にある母の部屋。そこから離れた場所に位置する薄い布団は私の陣地。
ぼんやりと、今に至るまでを思い出す。
求人票を片手に見ていれば、当てつけのつもりかと気まぐれに帰宅した母に痛みを貰う。バイトを決めるも、嗅ぎつけた母の行為によって辞めざるを得ない。夜中公園をふらつけば、時間帯に見合ったバイトを大人に勧められる。流されるままついて行っても、踏ん切りがつかず逃げ出してしまう私がいる。
明け方帰れば家から出てきた見知らぬ男とすれ違う。ドアを潜れば朝帰りをして金と寝ている母がいる。私以上に母と寝ているであろうそれを確認しながら、彼女の価値が損なわれていないことに安堵する。
視線に気づき起きる母がいる。この歳の子どもがいるとは思えない、美しく艶やかな花が醜く咲く。細い腕が私の足を引っ張り出す。しゃがみ込めば前髪を掴まれる。私の顔を眺めてあの男の名前を呼ぶ。何で迎えに来ないのと叫んで私の頭を下駄箱へ打ちつける。反射的に閉じた視界の奥、北極星が瞬いたように見える。何度も何度も打ち付けられ、何度も何度もあの星が瞬いてみせる。
齢を考えれば簡単に止められる、むしろ反撃さえ可能な私は大人しく痛みを受け入れる。気が済んだのか、母の手が私から離れる。安堵の息を零すには早いと息を止めれば、脇腹に尖ったヒールが飛んできて二酸化炭素が無理矢理吐き出される。
千鳥足で母が部屋へ戻っていく。薄っすらと開いた世界で姿を認めながら、立ち上がる気力が湧くのを待つ。立ち上がろうと思った瞬間、戻ってきた母の尖ったつま先が今度は腹を刺してくる。ドアが閉まる音、遠ざかる足音が耳を突く。
世界が私の息遣いだけになる。下駄箱を支えに立ち上がり、壁に添うように歩を進める。ようやく辿り着いた自身の領地に身を転がす。天井を見上げれば、見慣れた染みが迎え入れる。
安堵感と痛みに連れられて単純な死を迎えた後、たった数時間で目が覚める。そんな時分を越えて今に至る。
ゴミを丸めながら、ふと段ボールの中身に目をやった。伸び切った服の下、私を覗き込んでくるぼろぼろの貯金箱。
身を裂いて中を露わにすれば、予想を遥かに超える量の黄金色の硬貨が私を迎え入れた。
それを認めた瞬間から、私はおかしくなっていたのかもしれない。
黄金色の硬貨で自由になろう。
使い切った時には命を断とう。
そう決めてしまった、その時から。
決まれば話は早いものだと、鍵もかけず、外の世界に逃げ出せば、ポケットに詰め込んだ硬貨が軽やかな音を鳴らしていた。
氷水あすな『黄金色の硬貨』より一部抜粋