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僕らの硬貨  作者: 高戸優
7/22

君の話。(3)

昨夜、ベランダで寝落ちたのが悪かったのか。


暖房を効かせた自室でくしゃみを繰り返す後ろ姿は、そんな後悔に浸かりきっていた。


洒落っ気がなく物も最小限に抑えられたリビングには足の短いテーブルと背もたれの低い座椅子、簡易的な棚に置かれたテレビしか家具と呼べる物はない。座椅子やテーブルは「その人」が使うには小さいようで、大きな室内で体育座りをしながらパソコンを打ち込む様はどこか滑稽にも見えるほどだった。


「……鼻痒い」


真正面に座っているパソコンへ素直に告白するも返事はなく、開いているワードソフトは珍しく保存に時間を要している。それが無言の抵抗に見えるのは、起きてから休みを与えず働かせ続けているからか、はたまた自身の心が折れているからか。


「……眠い、つらい」


三重苦を告白しながら席を立つ。そのまま寝る支度をするのかと期待したパソコンを裏切って向かったのは台所だった。無造作に置かれていた黒いコップにインスタントコーヒーの粉とスプーンを突っ込む。使用を待ち望んでいたやかんの中身を注ぎながら円を描けば、コップへ沈んだ透明色が茶色へ変化し始めた。空と化したやかんはコンロの上に、コップとスプーンは己の手中に。スプーンでかき混ぜながら席へ戻れば、定時退社を諦めた相棒がキーボードの動きを待っていた。


着席後一口含む。口に広がる味はかろうじてコーヒーと呼べる程度の薄さで、苦味酸味より粉っぽさを前面に押し出している。お世辞でも美味しいとは言い難い出来だった。


あえて感想を言わずにコップをコースターの上に座らせ、ようやく開いた両手でキーボードを叩き込む。横目で画面時刻を確認すれば、健全な子どもは寝ていそうな時間を表示していた。


予想以上に開始から作業が進んでいない事実に絶望しながら自分の考えを打ち込んでいく。気になった言い回しは隣室へ足を運んで辞書を引いていたが、終いにはその行為が面倒になって何冊もの辞書をリビングへ引っ越しさせた。


「……なんでこんな言い回ししてるんだろ、こいつ」


他の誰でもない、自身が考えた登場人物の言い回しに苦言を呈する。これがなければ辞書の出番は格段に減ったはずなのに、とため息を漏らしてももう遅い。完成まではあと三場面程度の現状、修正労力を考えればこのまま走ってしまった方がいい。


「まあ、連載物で急に口調変えるのとか無理か……」


馬鹿なこと考えていないで取り掛かろう。そう思った矢先、自身の集中力が切れたのを自覚する。キーボードを打ち込む手が止まり、先程まで溢れかえっていた言葉の波が一気に引く。無意味に単語を打っては消しを繰り返しても、意味ある言葉へ昇華することはなかった。


意味のない行為を続けて早十分。最早これ以上は無意味だと自覚した己の口を突いたのは


「……駄目だ。出かけよ」


現状からの逃げだった。


転がるように立ち上がり隣室へ向かえば、横たわっている衣装ケースと静かに寝息を立てている同居人だけが迎え入れる。同居人を起こさないよう、リビングから僅かに射す人工灯を頼りに近づいた衣装ケースの引き出しを開ければ、静かに眠っていた黒い一張羅を発掘できた。長い眠りから叩き起こし身につけながら稼働していたエアコンを見上げる。次いで同居人の顔を見下げれば、同居人の寝顔は僅かな明かりの下でも視認できるほど穏やかなものだった。床に放置されたリモコンはそのままに、安眠を妨害しないよう部屋を後にする。


低速と無音を心がけて世界を閉じ、リビングの電気を消してから玄関へ向かう。履き潰したスニーカーに足を突っ込み、先ほどの要領で自身の領地から抜け出した。最後に鍵をかければようやく安堵が込み上げてくる。長く深いため息を吐いてから体を伸ばせば、想像以上に冷たい空気が身を抱きしめた。


季節感が掴めない今時分、どんな服装が正解なのだろうと想像しながら目の前の階段を下れば軽い金属音が耳を打つ。演奏し終えた後に迎えるはずの足音は姿の見えない車の走行音にかき消された。


合わせるように歩を進める。世界へ刻まれていく足音は世界の静寂に負けぬほど小さく、黒い背中は太陽が身を潜めた世界に溶け始める。街灯でのみ証明される後ろ姿は、世界に認められない程の儚さを有していた。






どれくらいの時間が経ったのかは、時計や携帯へ興味のない人には把握できない情報だった。ただ己の気の向くまま、進みたいだけ歩を進める様は帰り道さえ不確かなものへ昇華させる。


そこそこ賑わっている駅を見れば、既に最寄りから二つほど離れた駅まで進んでいることに気づくことができた。距離を実感しても歩みは止めることなく、駅を背にして真正面に伸びる暗い道へ踏み込んでいく。


商店街なのだろう、対面して建つ店は姿形や中身を変えながら一本道を守るように続いていた。駅の賑わいに付き合いをやめた世界で明かりが灯っている店はまばらで、見やれば閉店の字ばかりが主張している。稼働していない時間を覗く背徳感に心が踊れば、自然と足は軽くなった。


地面にすら認識されない程小さなステップを踏み進んでいると、生来より敏感な聴覚が人の足音と話し声を聞きつける。認知した三人分の足音、男の声音という情報の答え合わせをするかのように目を向ければ、正解音が頭に響いた。


だんだんと店の明かりが消えていく暗がりの中ではよく見えないが、街灯側に立っている男が金髪金眼という眩しい色彩を抱いていることは認識できる。が、それ以外の二人は黒髪ということ以外わかりそうにない。視覚的情報を諦めながら彼らの横を通り過ぎる時、意識しなくともその会話が飛び込んでくる。


「やっぱり店閉める前にミネストローネ食べたの正解でしたねー」


「な。あー、でも腹減った……」


「水島は食いすぎだろ。まさかパンまで出してくるとは思わなかった」


「いやあんたら二人が食わなすぎるんですって。夕飯食ってないでしょ」


「そうかね? あー、でもあれ食べたい。春雨スープ。あとサラダチキン」


「女子?」


「OL?」


「いいじゃないですか何食べても……ねえ晶、帰りどっかでコンビニ寄ろ」


「いいけど。礼さんも行きません? コンビニ」


「あー……まあ、うん、行くか。あれ欲しかった」


「あれ?」


「チョコ。コンビニ限定出てるらしい」


真横を通り過ぎたタイミングで顔を伺った。外側を歩く黒髪の目は深い青色だということが視認できたものの、青目と金眼に挟まれている男はマスクをつけていることしかわからない。こちらが進めばあちらも進み、表情がわからなくなるほど距離が開く。ついには視界から失せていったが、くだらない会話は耳に届き続けていた。


「アメリカンドッグ買ったら一口食べます? 先に口つけていいんで」


「え、じゃあ俺はフライドポテト買うんであげますよ」


「……何でそんな食わせたがるんだ?」


「礼さんがほんと食わないからでしょ? さっき自分で『家帰ったら何も食べない』って言ったの忘れました?」


「元々食わないから」


「今更だけど元々食べない人に揚げ物ばかり勧めるこの仕打ち……」


「胃もたれルートじゃん……礼さんごめんなさい……」


「だからチョコ食べれば十分」


「いや、それはないんですけど」


くだらない、生産性のない会話。それでも続ける声音は通常運転を知らない身でもわかるほど弾んでいて、口元や表情も緩んでいるところが容易に想像できてしまう。振り返って三人分の背中を見やれば、遠目でもわかるほどの仲良さげな距離感、楽しげな空間が迎え入れてくる。それを刻むように見つめてから視点を戻し、中断してしまった歩みを再開した。


ほんの少し浮かんだ感情を掻き消すように、特に何も考えることなく闇を彷徨い続ける。そうして進んで行った先で静かに足を止めた。まだ少し道は続くのを理解してはいるが、その場から踵を返し今までの道を戻り行く。


そうして辿り直した道の先では駅から少し離れた所にあるコンビニが出迎えてきた。丁度自動ドアから出てきた先刻の青目と目が合った気がするが、表情を伺うこともなく自分の領域へ向かい歩く。


ようやく辿り着いた自室の鍵を回しドアの隙間に身を滑り込ませた。そうして入り込んだ世界は温い空気だけが充満していて、決して帰りたいと思える空間ではなく。


挨拶も何もないまま後ろ手に鍵を閉め靴を脱ぐ。体を伸ばしながら、逃げ出した原因にあたる稼働したままのパソコンへ近づいていった。

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