ある夜の話。(3)
どこかの店員と客が息を切らして電車に乗り込んだ同時刻、別地点では静かな夜を迎えている人がひとりいた。
もうどれほど、このベランダにいるのだろう。
僅かな寒さとはいえ長時間もいれば体温は削られ鳥肌が立ち始める。普段であれば室内に戻るはずの状況にも関わらず「その人」は気にすることなく作業に没頭し続けていた。取り組んでいるのは、眼前に広がる紙の海に文字をばら撒くこと。ばら撒いた餌に言葉の魚が引っかかるのを待つこと。引っかかった魚を釣り上げ料理すること。その行為を幾度も重ねていた中で出来上がった料理は別の紙に書き貯められており、コピー用紙は皿と化してペンケースに負けないほどの高さで料理を積みあげていた。
和洋中問わず、料理と呼べるものであればどんな完成度であれ作り上げる。そんな作業を何度も何度も繰り返し、時にコーヒーと友人に風とは敵になり、酷使を続け鈍った脳を叩き起こし最早眠気も飛んだ頃、気づけば空は白と赤が勢力を拡大し始めていた。
現実を直視すれば、ベランダの床には魚がかからなかった海が散乱しテーブルの上には料理がペンケースを優に超える高さで完成していた。それを認めた瞬間糸が切れたように調理中の言葉へ上体を倒す。勢い任せに行ってしまった代償で鼻と額を強く打ち付けてしまい、特に痛む鼻を抑え言葉にもならない呻きを漏らした。
涙が浮かび歪んだ視界で、最後に料理した紙に手を伸ばし眼前へ運ぶ。そして左手で鼻をさすりながら右手で料理を支え、口は味を確かめるように声を転がす。
「……愛し抜く夢を求めていた」
それは誰に向けた言葉なのか。
「此方から愛を渡す夢を見たかった」
それは何処に向かうための言葉なのか。
判らぬ振りをしたまま味わった料理は予想以上に甘く、判断力を鈍らせる。
続きを味わう余裕もなく満腹感に誘われるように瞼を閉じれば、思考も記憶の記入も遮断され短な死が迎え入れられた。
意識を手放す寸前で押さえた料理の山が風に靡く。その中から抜け出して床に落ちた皿は
『僕は、はじめましてからはじめたい』
甘さの残る料理を誰かに差し出していた。