ーーの、話。(2)
アリスというらしい、顔馴染みの新聞配達は戸惑いのない様子で彼の隣に座った。突然開けた視界を襲う太陽光に目を細めながら、隣席へ視線を移す。
顔馴染みへの安堵からか、呼吸は整いはじめていたが視界は変わらず色褪せている。それが戻ってくるのを待つか悩んだが、日のもとにいる新聞配達の姿に湧く興味のまま、モノクロの視界で静かに見やった。
今まで出会っていた時間は陽も昇っていない夜であったし、そんな時間に家の近くは街灯が少ない。そのせいでわかっていなかったが、まずは予想以上に小さな子だという印象だった。
ボブカットの黒髪にセンター分けの前髪、丸い瞳はキャップの下に隠れている。大きめなストライプシャツにジーパン、ダウンという格好という言葉を並べれば少年のそれのようだが、柔らかそうな足や若干覗く胸元の膨らみから誰でもその予想は外れと気付くだろう。
そんなアリスという少女はどこか子供らしく足をぱたぱたと動かしながら
「で。こんな真っ昼間にどうしたんです? 明らかにこの時間に慣れてなさそうなのに」
むしろ起きなさそう、と付け加える。いつもの夜明け時の会話と違わない、歯に衣を着せぬ言い回しに慣れ親しみ、どことなく安堵を感じてしまう。その気持ちに押されるように、口下手な彼は意外にもすんなりと、ことの顛末を説明し始めた。
あの喫茶店での目まぐるしい出来事を、人間ゆえの強欲さで自分にとって非が少ない言い方を通し提供するが
「んー」アリスは首を小さく傾げ「聞く限り、貴方が悪いっすねぇ」
「……う」
やはり、逃げ出してしまっている時点で相手の心証は悪いようだ。ぐうの音も出ないとはまさにこのことか、と何も言えずに俯く耳に優しく声がかかる。
「返し辛いなら自分が代わりにーーって言いたいっすけど、着替え? 元のシャツ? ……どっちでもいいっすけど、それもそこなんでしょう」
「……まぁ、そう」
「家に持ち帰って着替えてからーーは、貴方絶対出てこれなさそうですし。これは今いっちゃう方がいいと思うんですけど」
その提案には「行けない」と反射と言ってもいいスピードで口が動く。驚き丸くなる目を見れずに己の指先をいじり遊んでいる中、変わらず優しい言葉が諭すような声音に乗って飛んでくる。
「行けないって……逃げたのは確かに悪いっすけど、でもそれだけで行けないはないでしょう」
「……だとしても、いけないから」
「なんでそんな頑ななんすか……。っていうか」俯く彼を覗き込むように「そもそも。なんで逃げちゃったんですか?」
大きな瞳から逃れるように更に俯く。伸びっぱなしの前髪は玉のれんのように彼の顔を隠すが、興味を隠しきれない視線はそれを越えて彼の顔を突き刺してくる。諦めたように何かの覚悟を決めるように、一つ大きく息を吐いてから
「だって……呪ったから」
「呪ったから? そんなこと誰か言いました?」
言われた事実は飲み込み俯く。少なくとも、あの黄緑は彼と同じ結論を抱いているはずだ。呪った癖に、呪って消えた癖に、なんでそんなお前がなんで今更ーー
「呪ったって自覚してるなら謝ればいいじゃないですか。ごめんなさいって」
思考を断ち切るような言葉に顔をあげる。気づいた時には体が宙に浮いていて、力点となっている片腕には少女の小さな手があった。
視界を瞬かせている中、こちらを見ていた綺麗な琥珀色と目が合う。そのまま前へ前へと引っ張られそうになるが、二十代の男が踏ん張れば流石に引っ張ることはできなかった。色彩が戻りきっていない中で不思議に綺麗な色が怪訝そうに目を細める。下に位置する小さな口がそれとは反対に開き
「言えばいいじゃないっすか」
「……そんなことで。許されるわけがない……し、軽はずみに言っていいものじゃない」
簡単に言うなと、言葉を絞り出すように発する。両手に力を込めると長くもない爪は掌に食い込んで痛みを叫んだ。最早前の少女を見ることもできず掌へ集中しようとした時
「でも、自分は許されるでしょ?」
予想外な言葉が頭を突き刺した。そんな彼の視線に交わるためか、アリスは落ちた視界に入るべく距離を詰め
「ごめんなさいって、自分だけが許されるための言葉っすよ? 言われた方は気分がいいもんじゃない。だって許すしかないんだから。どんなに気持ちを込めたって、結局自分のための言葉です」
だから自分に後悔があるなら言った方がいいと続け
「向き合った方が貴方の感情は正解を見つけられるし、『ごめんなさい』で区切りをつけた方が救われますよ」
自分もそうでした、と新聞配達は笑う。アリスというらしい名前には似合わない、行く道を見出した強い瞳を細めて。
矢継ぎ早な言葉に呆然としていれば、少女は悪戯っぽい笑みに切り替えて力強く腕を引っ張った。不意打ちには流石に二十代の運動不足では踏ん張れない。一歩踏み出してしまうと、彼女はその勢いを殺さぬように更に力強く引っ張った。
二歩、三歩と流されるまま歩行してしまえば停止するタイミングを見失う。慌ててブレーキをかけようとしてももう遅く、彼の体はまんまとアリスのペースに乗せられていた。
彼女は心底嬉しそうに
「行きましょう! 自分もお手伝いするんで。ね?」
言葉に釣られ、不意打ちの力に負けていつの間にか足は進んでいる。どんどん進む足元は土を踏み、しばらくしたら舗装された道へ辿り着いてしまった。
「……手伝うって何を」
彼は問う。代わりに謝ってくれたりするつもりかと考えながら。
「自分は一緒に行くだけですよ。ここで放置は自分が気持ち悪いだけなんで気にしないでください」
彼女は笑う。どんどんと先へ進みながら、彼が立ち止まる隙を与えないように。
「謝るもいいし、やっぱ無理と逃げてもいいんじゃないんですか? どっちにしろ、一回動かなきゃわかんないんだからこれは無駄じゃない」
隣に立ってくれと言うなら立ちましょー、そんな間延びした声は目の前へ散らされる。見下げれば彼女のつむじがあり、腕には小さな手があった。こんなもの振り払おうと思えば容易いだろうし、全力を込めた未来で彼女が転ぼうと正直心配もしない間柄だ。
なのに、この手を振り解けないのは何故だろう。
何故、このきっかけに頼ってしまうのだろうか。
道はどんどんと進んでいく。足元の舗装色が変わり砂利も入り込んだ時
「道こっちで合ってますー? 踏み切り越える感じ」
声に釣られて視線をあげると同時に少女が止まり、彼も慌てて足を止めた。その時ようやく踏切の警告音を自覚し、そういえば踏切を慌てて渡ったと思いながら、いやここで嘘をついて道に迷い続ければいいと考えながら
「……はい」
正しい解答をしてしまうのが、自分の行動ながら不思議でたまらなかった。
そんなことはつゆも知らなそうなつむじは、そうですかー、と軽く返事をすると
「うーん、なんだか自分のバイト先行く感じで変な感じぃ」
「……新聞配達の場所なんてあったっけ」
「あぁ! 色々かけもちしてるんすよ。新聞配達とか学校の清掃員とか、あと喫茶店!」
警告音に掻き消されると思ったのか、少女の声が自然と大きくなる。宝物を見せびらかす子どものように、わざわざ彼を振り返り向日葵に負けない笑顔を浮かべながら
「ガラじゃないでしょ? でもこれがまた楽しくって! 自分のバイト生活の中での数少ない楽しみっていうか。最高なんですよ、うちの喫茶店」
「……そう」
「なんです! あっ、じゃあこの話終わったら後で自分のバイト先遊びに行きましょうよ。みんな優しいし、お客さん連れてきゃあ何か奢ってくれそう」
「……そう」
「です。あっ、開いた。いきましょー」
止まっている間も握っていた腕を引っ張りながら進行する。その速くもなく遅くもない歩みに乗りながら変わらず抵抗もなく進めていると、突然前の少女が速度を早めた。ぐいっと引っ張られた腕を起点に前のめりとなるが一歩を大きくすることで踏みとどまる。そんな事もつゆ知らず、彼女は遠慮なく引っ張りながら進み「拓也だぁ!」と前を歩いていた茶髪の方を叩く。
「え、アリス?」
肩を叩かれた茶髪が振り返る。いつの間にか色彩を取り戻した世界は、茶色以外もしっかりと視認させてきた。焦げ茶色に天然物であろう外側へ跳ねた髪。それが見下げる側からは秋の名産物のように思えていると、突然こちらへ視線を合わせてくる。まだ輝きの消えていない、綺麗な黒い瞳がふたつ。
少年は不思議そうに彼を見上げてにこりと会釈した。その表情にどこか見覚えがあるが、何かは思い出せないでいる中軽く頭を下げる。年下の少年すらまともにできる挨拶を自分はできない事実に少しだけ落ち込みを覚えている中
「もう部活終わったん?」
「今日は休み。アリスは何してんの?」
「知り合いさんの謝罪に同行してる」
「知り合いさん……? どんな関係それ」
「知り合いさんだよ。ですよね?」
いつの間にか始まっていた会話に突然巻き込まれ全身で驚く。驚き方が大きかったからか、少年少女が首を傾げて純粋な疑問を視線で投げかけてきた。その無垢さが居た堪れなく、咳払いをひとつし
「……まあ、間違ってはないと、思う」
「っすよね? ちなみに方向はこのまま右で合ってます?」
「……うん」
「りょーかいです。じゃあ拓也も同じ方向じゃんね、途中まで一緒に行こうぜ」
「どういう状況……まあいいけど」
どうせ一本道だし、と栗色頭の少年も前へついた。再度、歩みは再開される。改めて考えても、抵抗も拒絶も逃避も出来ぬままついて行く。周囲の音を無意識に遮断する中でも、前を歩く少年少女のくだらない会話は自然と耳に届いた。アキちゃん先輩がなんだ、らいさんの新作が楽しみだ、なんだ。
真正面を歩く少女より、若干横にずれた少年の表情は簡単に窺い知れてしまう。それを盗み見る感覚に罪悪を抱きつつも、笑い方に幸せがにじみ出ている少年だと感想を抱いた。あの笑顔は愛情を注がれて育った人だと感じる。それほどまでに無防備で無邪気で温かく優しく、何処か既視感があるような。
そうだ、件の空色の目をした男性があの日にカウンターの向こう側で笑っていた時のようなーーと、思考がまた過去へ引き摺り込まれそうになった時。
「あ」と、自然と足が止まってしまった。
「「あ?」」と、少年少女が追いつくように止まったと同時に
「ここ」と、つい数時間前に蹲っていた柵を指す。
これまた素直になってしまったのは、反射的か、はたまた彼女の自己中心的な行動に必要以上の警戒が解かれてしまっていたからか。間違っていた、気のせいだと慌てて言い直そうとするが
「……ここっすか?」と、聞かれてしまえば
「ここ」と、突発的に嘘をつけない不器用さを露呈するしかない。
「……うーん、こんな偶然ってあります?」
アリスは振り返って苦笑した。隣を歩いていた拓也、というらしい少年も不思議そうに喫茶店と彼を見比べる。彼も訳がわからず首を傾げている時
「ーーここ、自分がバイトしてるとこなんですよねえ」
その言葉を認知するが早いか体温を感じるのが早いか。腕には少女以外の大きな力、視界には突然黒髪と隙間から覗く青目が飛び込んできた。驚く彼の目の前、息を激しく切らした青目は彼の腕をなぞりながら
「なんっ、あっ、みっ……」
そのままずるずると地面へ座り込む。肩で大きく息をしている青年は公園にいた時の彼のようだったが、最後にひとつ付いた大きな安堵のため息には他人を思う余裕が滲み出ている。
なぞられた腕を自身で撫で直しつつこれがあの最後に会話していた青年だと気づく前、駆け寄る足音が複数あることに気づく。
視線を向ければあの赤目と白髪の少年がいた。店内から様子を伺う黄緑、初めて見る金髪ふたりとのっぽの黒髪は走り寄る赤と白を不思議そうに眺めている。
反射的に後退りした彼の手を赤目が取った。先ほどのように電流が走りそうなこの体に
「ーー心配するでしょうが!!」
重しを乗せるような叱咤した大声に、自然と芯が通る。猫背な背筋が伸びる中、動揺する白を無視して赤目が続ける。
「確かに?! 僕らも勢いで悪かったですけど!? さっきまで青ざめてた人がもう一回青ざめて走り出したらどっかでぶっ倒れてないかなとか思うでしょ!! ……ああもう、体は平気ですか!? 気分は!?」
「……だい」勢いに気圧されながらも「じょぶ、です」
「ならいいですけどーー手ぇ冷たっ!! えっ今日そんな冷えてないですよ!?」
「あっ……つか……しんどぉ……」
「晶くん大丈夫……? ノープランで走り出すから……」
「まじ……無理……みず、ちょーだい……」
「あの、事情全くわかんねーんすけど……」
「こっちのセリフだよアリスちゃん……なんでこの人見つけられたの……」
「いやそれ以上に俺がわかんないんすけど」
「拓也くんもなんで一緒なの……?」
目の前で会話劇が繰り広げられる。たくさんの声、大量の情報。簡単に回りそうな目は、いつの間にか近づいてきている空目の男を映した途端正された。
口が乾き喉が渇く。見開いた目すら乾いて行く。アリスに捕まれ赤目に握られた状況では逃げられる訳もない。後退りも叶わない中、空目の男性がだんだんと近づいてくる。
距離が詰まる中、彼は頭の中でいくつものプロットを立てていた。場面は件の空目が目の前にきた時。予想できる台詞を何個も並べ、そこから枝分かれさせ様々な展開を用意していく。
まずはシャツのことを謝ろう。心配かけてごめんなさいだ、そうだこのまま、シャツと同時にあの時のことも謝ってしまおうか。そして誘われても全て断って着替えておしまい、それがいい。そうすれば何もかも気づかれないまま、自分はどうにか区切りがつけられるーーと思考を回す中、ついにその時が来てしまった。
空目が、彼の目の前に立った。とても心配そうな瞳をして。先手を打ったものが勝ち、と口を開く。そうだ、まずはーーと最初の一文字を空気に発した時、近しい夜の自身の言葉が脳裏に蘇る。
『……愛し抜く夢を求めていた』
やめろ、と思った。今それを思い出すなと心が叫んだ。だが、思考に反して記憶は再生を止めようとしない。
『此方から愛を渡す夢を見たかった』
明るく澄んだ水色の視線と交わる。ゆるりと逸らしながら、気づくなと願う。
だが、気付いてしまう。気付かざるを得なかった。
彼の手から伝わる体温も。彼の足元に蹲る青年の整わない息も。心配そうに覗く黒目と琥珀色も。青年の背中をさする真っ白も。何より、あの日以上に穏やかで鮮やかで光を蓄えた水色の瞳が。痛いほどに伝えている、苦しいほどに伝わってくる。
あの日あの時、彼が此処にかけた呪いが、幸せに塗り替えられた事実。
それは、とても強いことで、とても誇らしいことで、それはとてもとてもーー
「ーー……羨ましい」
「えっ?」
突然の発言に動揺を隠せない周囲の面々に視線を巡らす。全員が面白いほどに不思議そうな顔をしていた。最後、件の空色の目を捉えた彼は息を短く吸って吐き、今まで組み立てたプロットを全て捨て
「……俺、貴方に言わなきゃいけないことがあるんです」
「……うん?」
「……こいつは、言うだけ言って逃げればいいって言ってくれたけど」
アリスという少女を見下げる。彼女はことの展開に追いつけない様子で、全体の視線を集めた時困ったように苦笑した。そんな小さな手を腕から離し
「……言えません。やっぱり。貴方に答えを見せてもらうまで」
一度羨ましいと思ってしまったら止まらなかった。羨ましい羨ましい、とあの日から立ち止まったままの彼の中の少年が泣き続ける。
「……それまで、言えるようになるまで。どうか」
先程までのどもっていた事実が嘘のように口が回る。そのままの勢いで奥から様子を見続けている黄緑を一瞥し、終わったらクビでも煮ても焼いても切っても殺しても構わないので、と頭を下げながら
「ーー俺を、雇う余裕があるのなら」
沈黙が場を支配する。遠くを通る自転車の音、伴う子どもの笑い声が近くに感じるほどのものだった。
下げた頭はもう戻せず、発した言葉はもう戻らない。何故なら此処にいる店員全員が承認だった。見つめる足首にはいつの間にか括り付けられた呪いの紐が見えた気がした。自分で呪いをかけ直すなんて正気じゃない、と思う中
「……話は、奥でゆっくり聞こうか。ここじゃ、他の子の目が気になるでしょう?」
言葉に顎を持ち上げられた気がした。自然と顔が上がった先、いつの間にか差していた夕陽を背負った空色の男性が優しく笑う。
首にはきつく締められた呪いの痕が見えた気がしたが、そんなのを微塵も感じさせない柔らかな声音で
「でも、まず自己紹介から。私は卓人。ここの店長をしています。さて、君の名前は?」
口を一度開き、閉じる。言ってしまえばもう2度と逃げることはできない。それでもいいかと自問する。
だが、案外あっさりと過去の彼も現在の彼も答えを見つけ出していた。過去の彼が、頭の奥で泣き腫らした赤い目を隠すことなく呟いた。
後押しされるように赤目に握られた手を外し、何にも縛られない状況下であの日には伝えられなかった名を伝える。幾つもの視線を一身に受けながら言う名は、案外すんなり口から飛び出した。
たったひとつの嘘を乗せて。
「ーー『はじめまして。』俺は、ひかる。北原洸、です。もしいいのなら……」
よろしくお願いします、と頭を下げる。
そんな彼は、此処の愛の呪いを信じたかった。




