苦い話。(3)
布団を干した後に乗った電車は普段より余裕のある時間に最寄駅へ辿り着いた。ホームに降りたと同時に空を見上げれば、変わらない快晴に安堵する。
改札を抜けながら干したての布団の心地よさを思い出す。楽しみが増えたと喜んでいるのは隠しながら階段を降りれば、いつの間にやらバイト先へ繋がる道へ辿り着いた。
昼時に突入する頃だからだろうか、駅前から直結している商店街には様々な人が往来していた。材料を買い込んで帰路を歩く人、食事する店を真剣に悩んでいる人、迷いなく真っ直ぐに店内へ突撃する人、駄々こねで泣きじゃくる子どもを連れて歩く人。個々の意思で予測不可能な動きをする人たちの間を通り抜けながら、自身の目的地を目指し行く。途中鏡のように同じ方向へ避けそうになった人ともたつきながら、様々な誘惑をこれ見よがしに匂わせる店々に湧く興味の芽を必死に摘みながら。
そうしてようやく辿り着いた自身のバイト先を立ち止まって眺めれば、太陽光を反射した真白い壁が眩しくて目が自然と細まった。侵入防止というよりはデザイン性に特化した申し訳程度の木製の柵、直属の先輩が世話している庭の花々、店へ続く平坦な一本道。他の店は商店街道と入口が直結しているというのに、わざと距離を置いた作り。女子受けやなんとか映えとやらが良さそうな、何処か現実離れした佇まいの喫茶店。
きっと近づけば喫茶店にはありえない賑やかさが待っているのだろうと諦めたような笑いをひとつ。けれど今日もいい日になるはずだ、と根拠のない自信と覚悟と共に足を踏みいれようとした時。
店の前、正確に言えば店を囲う柵の前、蹲っている人がひとりいるのに気がついた。
驚きに足が止まり目が大きく開く。同時に口も開くが、母音でさえ喉に張り付いて出てこない。掠れた息だけが急かすように口を飛び出し、酸素が小さな音を立てて体内へ飛び込んでいく。それを数回繰り返した後にようやく出てきた言葉は「えっ」だけで、人間は突発的な出来事に弱いものだと痛感した。
その間も一切改善しない状況に意識を強く取り戻し、近づいて顔を覗き込む。潤いが戻り言葉が形成され始めた時、見返された目に言葉を再度失うしかなかった。
それは、恐ろしいほど美しい顔だった。
全く焼けていない血管の透ける肌、顔を覆ってしまいそうなほど長い前髪、鋭く吊り上っている事実に反して激しい光は宿さない瞳、全体像がよく見えなくとも全てが黄金比で整っていることがわかる顔。顔面偏差値が高いバイト先の面々であっても余裕で負けてしまいそうなほど、同性の自分でさえ惚れ惚れしてしまうほどの造形の持ち主だった。
壊れ物を取り扱うように肩へ手を伸ばす。触れるか触れないかの段階で大きく跳ねた肩には、拒絶の色がわかりやすいほどに塗りたくられていた。
ゆきの手から逃げるように動いた結果、怯えた身体が柵へ大きく打ちつけられる。柵が広範囲に震えるほどの音が鳴り、想像した痛みでこちらが険しい顔になってしまう。が、相手はそんな痛みは微塵もないのか、苦悶の表情は一切浮かべずに濁った瞳がただただこちらを見つめる。黒目の奥が拒絶と謝罪を色濃くする。
「……あ」
震えが止まっていない段階でその人が立てば、身体が大きく揺らついた。慌てて支えれば、先ほど以上に大きく驚いた身体が離れ、皮肉なことに伸ばされた助けを引き金に体の芯を取り戻す。
それでも放って置けないと「あの」と声をかければ、相手はこちらを見ることもなく
「だい、じょぶ。です」
「でも」
「だいじょぶ、ですから。……大丈夫」
ゆきへ伝えるというよりは自身へ言い聞かせるように呪うように、大丈夫を重ねる唇は血色が悪い。瞳も焦点が合っていないようで、目の前にいるゆき自身のことでさえしっかりと認知できているかわからない。
それでも拒絶を重ね、その場から立ち去ろうと踏み出した足をどう止めろと言うのだろう。思わず後ろへ下がってしまった足を踏ん張らせたのは、思いがけない声だった。
「ねえ、どうしたの」
声に釣られて顔を上げると、柵の向こう側でホースを握りしめている長身の男と目が合った。マッシュヘアの薄い茶髪、眉上の前髪の一部を無意味に留めている葉デザインの髪留め。眠たげな目蓋の下にて輝く葉を思わせる鮮やかな緑目。胴体は自身がこの後着用するはずだったものと同デザインである厨房服の上から、瞳と同色のジャンパーに身を包んでいる。そんな生まれ持った色を裏切るような赤々しい名を持つ青年に
「え、あれ、楓さん?」と困惑気味に問えば
「うん。楓さんだよ」と自然体に返される。
声は温和なものだというのに、見慣れない人間を認めている瞳はどこか険しい。身体に纏っている雰囲気もどこか苛立ちと怒りに塗れている。何故かの理由はわからないまま
「あの、この人具合悪そうで、それで」
状況説明をしようとした口の前をホースを持った手が遮った。驚いて見上げれば、楓の目はこちらを一切見ることなく異常値を叩き出している存在へ注がれている。何故こちらを見ないのか、と疑問が重なる思考を突き破ったのはどちらの対象へも投げた楓の言葉だった。
「それはわかってる、けどね。君にじゃない。そっちに聞いてる」
嫌悪感に塗れた声だった。
「ねえ、何で来てるの」
感じたままに例えるならば、殺意さえ感じる声だった。
「何で来てんの。何で来た。どの面下げて、あんたがさ」
ホースが向けられていたのは、今ゆきの目の前で苦しんでいる男だった。
「……なん、で」
か細い声が反射的に、鳥が覚えた言葉を反復するように、深い意味なく生まれる。
「そう。何で?」
返事があるとは思っていなかったのか。楓の眠たげな瞼が静かに開き、緑の丸い月を露わにする。その視線は何を誘うつもりなのだろう、ゆきを一瞬見やった後に男の喉元に焦点を合わせた。
「来る権利なんてないんじゃないの。うちの」
その喉から望む答えを絞り出そうとするかの様に
「うちの店、呪っておいて」
言葉を直感的に選び、核心をついた問いをする。ゆきを無視して、問われた男の足を釘打つように。
今の言葉で完全に部外者にされたゆきには、全く理解の及ばない話が眼の前で繰り広げられるのをただただ眺めるしかなかった。呪い、呪われ。頭の中を何周もした疑問は停留所を見つけられず、そのまま周回を続けていく。ふざけたような言葉が真面目な問いであることは、楓の目を見ればはっきりとわかる。わかってしまう。それが余計に混乱をきたしていく。頭に何個も浮かぶ漢字が合っているのかさえ不安になる。呪いと鈍い、どっちが正しいのかわからなくなる。そうして終いには思考は脱線し始めて、今日の天気の良さや日光を浴びる布団に心を運ばせたその時。
眼前で、鮮やかで儚い虹が架かった。
随分と小さな虹だな、というのが最初の感想。
あれ、雨なんか降ってないのにが最初の疑問。
虹が楓の手にあるホースから生まれていることに気づくには、水が男の体に降り注いでいる事実に気づくには、恥ずかしいほど時間を要して。
全てを認知したのは、何かの理由を持って男が意識を手放した時。楓が遠慮なく男の体を受け止めた時。それでも男の体が軽々と楓の肩に乗ったのを見た時、随分と軽そうだと思ったのは現実逃避を望んでいたからか。
全ての事柄を理解をした時には、既に楓の姿は店の裏口へ向かっている。慌てて追いかけ名を叫べば、不思議そうな顔が振り返ってきた。それに再度楓さん、と叫び
「何してるんですか……!?」
「何って。気絶したから看病」
「気絶させたの間違いじゃ!?」
「いやいや。たまたま僕の手元が狂って、たまたま水が相手にかかって。たまたま相手が気絶しただけ」
「そんなっ」
続く言葉を遮るように裏口のドアが開かれれば、着替え途中の晶と湊が会話を止めこちらを見やる。そうして晶の口と湊の目が大きく開き、この現状を問いただす雨が降る前に先手を打った加害者の声が場を制す。
「ごめん、僕やっちゃった。スタッフルーム借りていい?」




