さかむけ騒動
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
おう、つぶらや、休憩か? さすがにかかり稽古を30分はきつかっただろ。
俺か? 見ての通り、竹刀の点検だ。分解しなくてもわかるだろ、竹がささくれ立っているのが。
これを放っておくと、打ち込んだ相手にケガさせる恐れがある。安全面とか、人間関係面とかに影響するからな。お手入れは大事ってことよ。
ささくれといえば、お前は最近、指にささくれはできたか? あ、「さかむけ」といった方がいいか。
できているんだったら、少し耳に入れておきたいことがある。俺のお袋から聞いた話でな。
転ばぬ先の杖、とでもいうか、ひとつの警戒警報みたいなもんだ。
お袋は若い頃から乾燥肌だったらしい。さかむけともお友達だったんだ。
「さかむけは親不孝の証」と、親から聞かされて育ったお袋。それを真に受けていた小さい頃は、水仕事などを率先して引き受けたりしたが、一向におさまらないんで、馬鹿らしく思えたそうだ。迷信をタテに、自分を手伝わせようとしているんじゃないかと、親への不信感も、じょじょに募り始める。
おかげで思春期になると、自分でさかむけをむくようになっていたんだってよ。痛い思いをする時には途中で断念したが、問題ない場合はどんどんはぎとっていくのが、半ば習慣化していたとか。
そんな中、お袋は学校で奇妙なうわさを耳にする。クラスメートのひとりが、登校中に「むけ犬」を見たといってきたんだ。
「むく犬」の間違いだろ、と一部の生徒が笑う。一説では「むくむく」の語源となったという「むく犬」は、毛をふさふさ生やした犬を指して使う言葉だった。
「違う、むけ犬だ」と改めて訂正する彼は、話し出す。
登校途中、前を通るいくつかの民家のうち、玄関口に犬を飼っている家がある。そのうちの一軒は、道路に面した玄関口のすぐ横に、小さい犬小屋を構えていた。
そこを寝床としているケアーン・テリアは「チャッピー」という名前で、飼われ始めた数年の間で、彼も何度か顔を合わせた。
話を聞いていて、毛をふさふさ生やしたテリアを想像するお袋。
「なんだ、やっぱり『むく犬』のことじゃん。あの訂正、意地張ったんか?」と頭の中で思ったが、まだ続きがある。
彼は家の前を通った時、テリアに吠えかけられたんだ。柵を挟んでいるから噛まれる心配はないものの、ここ最近、あまり吠えられたことがなかったから、珍しく思いながらも、犬に向き直った。
ひどいものだったらしい。テリアの左前足の爪から頭頂部にかけて、細く真っすぐ毛が刈られていた。1センチに足りない幅で目の上さえ横切りながら、一筋の線を引くかのごとく茶色い皮膚がむき出しになっていたとか。
気味が悪くて、その場は逃げてしまったとは、クラスメートの談。ほどなく先生が教室にやってきて、みんなは慌ただしく自分の席へと戻っていく。
お袋はというと、先の話に思うことがあったらしい。イスに座ると、日直が進めるホームルームの言葉を聞き流しつつ、両手の指にさかむけができていないか、チェックし続けたのだとか。けれど、さかむけは意識して防げるもんじゃない。
家に帰って靴下を脱いだ時、お袋は左足の親指の爪。その脇の皮がややむけていることに気づいたんだ。朝に聞いた話が頭をよぎる。
「まさか」と、「もしや」が、心でぶつかった。勝つのは後者。今のうちに芽を摘んでおこうと、さかむけに手を伸ばすお袋。
むけかけている皮の根元を片手で押さえ、もう片方で皮す先を引っ張る。必要以上に皮をむかないために、経験で身に着けた方法だった。
力加減は難しめ。ヘタに指の爪を立てたりすると、途中で皮を断ち切ってしまい、部分的なさかむけを残す羽目になる。
ぐっ、ぐっと、確かめながら引っ張っていくお袋。そのたびに、「つっ、つっ」と思わず声を漏らしたくなるような痛みがついてきた。かなり深いところまで響いている。
普段ならやめてしまうところだったけど、お袋は強行。涙がにじみそうになる痛みに耐えて、皮をむききる。
皮の根元には赤いものがつき、むききった箇所からもぷっくりと浮かび出す、血の玉。傷みをごまかそうと、口汚い恨み言をつぶやきながら、ティッシュで雑に出血を拭うと、ばんそうこうを貼るお袋。
しっかり押さえつけたためか、血は目立たない。このまま穏便に済んでよ、と祈りながら夜が更けていった。
翌日の朝方。ばんそうこうを取り替えたところ、血はすっかり止まっていた。ほっとしながら学校に向かったお袋だけど、あの話をしたクラスメートが時間になっても登校してこない。
いつも彼と話している友達に訊いてみても、知らないとのこと。教室にやってきた先生は「病院にいくため遅刻、もしくは欠席する」とみんなに告げる。
普段からよく休む奴だから、珍しい話じゃない。お袋は昨日の噂の主だけに、少しだけ気になったようだけど、すぐに自分の足の感触へ意識を向けた。
お袋は、足を過保護に扱ったつもりだったという。にもかかわらず、学校から帰った後に靴下を脱ぐと、またかさぶたができていたんだ。
ばんそうこうで覆った、昨日のむきあと。その延長線上に。
むいたあと、下にできた皮がまたむけて……という二重のさかむけだったら、今までにも経験があった。なのに、ばんそうこうをかわすようにして、生じるさかむけなんて初めてだ。
靴下の拘束から解かれて、のびのびと息を吸うかのように、「ぺろり」とお袋の足の皮はむける。その範囲も、母指球から土踏まずの半ばにかけてと、先のさかむけよりもずっと長い。
もう指で手に負えるレベルじゃなく、はさみを持ち出したお袋は、むけた皮の根元をチョキン。新しくガーゼをあてがってテーピングしたものの、「もし、このまま皮がむけ続けたら……」という不安は拭えなかった。
次の日も彼は休み。
話に出てきた「チャッピー」から何か手掛かりは得られないかと、お袋は彼の家とチャッピーを知っている友達を探す。ほどなく見つかったものの、例のチャッピーに関して、あの日の放課後に調べてみたら、特に異状はなかったそうなんだ。
自分の身に起こっていることもあり、信用できないお袋。今度、甘味をおごるという条件で、友達に放課後、例の場所へ案内してくれるよう依頼したらしい。
「チャッピー」の飼われている家は、お袋の家とは反対方向に、およそ学校から10分の場所にある。
ブロック塀を持つ家が連なる通りの一軒。引き戸となっている玄関と外扉の間の空間に、「チャッピー」はいた。
毛をふさふさと生やした、いかにもケアーン・テリア然とした顔で、犬小屋の中で寝そべり、両前足を外に投げ出しながら目を閉じている。彼の言っていた刈られたようなあとは、足にも顔にも見当たらない。他に「チャッピー」と呼ばれる犬は近くにおらず、犬違いということも考えられなかった。
彼の言っていたことは、ウソだったのだろうか。
退屈そうにしている友達を先に帰し、チャッピーをにらみながら物思いにふけるお袋。
ふとチャッピーが目を開き、身体を起こしてお袋とにらめっこ。ほどなく盛んに吠えたててきた。
玄関のすりガラスの向こうにも、家の人らしき影が浮かび、お袋は退散姿勢に入ったが、完全にきびすを返す直前に見た。
ふさふさと生えていると思われた、チャッピーの顔周りの毛が、「パサリ」と音を立てて落ち、黒や茶色や黄色など、様々な色をした皮膚をつぎはぎしたような頭皮が露わになったんだ。
逃げ帰ったお袋は、制服から着替えて真っ青になる。
今やさかむけは、ガーゼの下を優に超え、足首、ふくらはぎ、ふとももの上を通過し、腰に至るまでになっていたんだ。つまようじにも劣る幅でありながら、数十センチにも及ぶその姿は、ピーラーでも使ったかのようだ。
すぐにハサミではがれかけの皮を断ったものの、表皮の下から現れる赤い部分が、ひとつなぎに線を成している姿は、お世辞にもきれいとはいえないし、空気にあたるためかひりひりする。
その日の風呂を断ったお袋は、代わりに濡れタオルで念入りに身体を拭く。特に件のむきあとを丁寧にさすりながら、細長く切ったガーゼを当てて、早めにベッドへ入る。
寝付くことができず、しばらく目を閉じては開き、閉じては開きを繰り返して、時刻が午前2時を指そうとした頃。
ガーゼを貼り付けた腰のあたりから、何かがめくりあがっていく違和感。それに伴う皮下へ響く痛みも、お袋は覚えがある。
さかむけを、むきにかかる時と同じだ。しかも、身体は金縛りにあって動けない。
腰を越えて上がり続けるむき手は、お袋の胸を外側から周り込んできて、ほどなく鎖骨の上へ。
お袋が必死に下へ視界を向けると、ここまでむけてきた皮が、へびのごとき長い胴を成して、首元へ丸まり出していくのが見える。皮の下から露わになる赤みさえも。
歩みは止まらない。鎖骨を越えて、首の谷間を抜ける。あごの峰を乗り越えて、ほおを一直線に駆け上る。その先には、お袋の左目。
「やめて、やめて……」と何度も心の中で懇願したお袋だが、聞き届けられない。「ずるり」とまつ毛が引っ張られるや、まぶたを閉じていないのに左目が見えなくなる。
その後も眉毛、額、頭と駆けのぼった末に、むけは去っていく。そこでようやく、お袋は痛みに涙を流すことができたんだ。
翌朝の自分の顔はみじめなものだった。昨晩の感触通り、あごから頭部に至るまで、細い筋が入っている。
左目には傷がないが、右目を隠すと周囲がぼやける。視力が落ちていた。
皮が張るまでは外に出られたもんじゃないと、親に顔の惨状を見せて、数日間学校を休ませてもらったお袋。
どうにかあとが目立たなくなってから登校したクラスには、あの話を持ってきた彼もいたけれど、その両頬には大きなガーゼをくっつけていたとのこと。
チャッピーはというと、昨日から犬小屋を残していなくなってしまったらしい。捜索依頼の張り紙などがされていないところを見ると、死んでしまったのではと噂されたとか。