イッチサイドアップ
西暦二六〇〇年。人類は、南極に潜んでいた宇宙人たちによって殲滅された。彼らは地球の構造を大きく変え、やがて大陸は一つになった。新・ムー大陸。後にその大陸はそう呼ばれる。
宇宙人たちの最高指導者、ピピクロス=パナマウンガ。彼は数十年にも渡る地球開拓の後、地球の構造が彼らに順応したことを確認すると、故郷の星と連絡を取った。その音声が残っている。
「もしもし?」
「お、パナマウンガ。元気か?」
「おう、元気元気。そっちは?」
「何も問題ないよ。ちょっと、度を過ぎた異常気象で海が沸騰してるくらい」
「そりゃあよかった」
「で?要件は?」
「あ、そうだ。地球開拓終わったんだ。そっちの奴ら何人か寄越してよ」
「えっ......ああ、そのことなんだけどさ、もうそれ大丈夫だわ」
「大丈夫?」
「うん。もともとお前らが地球獲ったのって、うちの星が人口増加しすぎて耐えられなくなったからじゃん?」
「うん」
「でもさ、ここ数年の異常気象で、うちの星の人口、四割くらい減ったんだよね。だからもう大丈夫」
「は?おまっ、俺はもう数十年も......」
音声はここで途絶えている。
それからも爆発的な発展を見せる「彼らの地球」であったが、そこには当初から唯一不足しているものがあった。労働力だ。故郷から援助を断られ、彼らは両手で数えられるほどの人員のみで活動していたが(両手といっても、彼らの両手では十六まで数えられたが)、その状況も限界を迎えつつあった。
そんな中、宇宙人たちの最高指導者、ピピクロス=パナマウンガが、ある画期的な改善案を提示する。
開拓打ち切りの瀬戸際で彼が着目した労働力。そう、「人間」である。彼らは全技術力を結集し、殲滅した人類を蘇らせた。宇宙人たちの支配の下、人類は独自の社会を築き上げ、その人口は宇宙人たちのそれを遥かに凌駕するものとなった。
これは、そんな最後に見出された希望による最高に素晴らしい日常の切れ端である。
マリンバの軽快なサウンドに起こされて、レイは窓から飛び降りた。両踵の骨が砕け、その痛みで眠気が飛んだ。この世界における「起床」である。痛みに必死に耐えながら彼は高層マンションの扉をくぐり、ロビーにある転送装置の前へ向かった。
彼が転送装置に手をかざすと、転送装置から無機質な声が流れ出した。
「目的地を選択してください」
画面に表示された選択肢から「自室」という項目を選択し、彼は転送装置のカメラに顔を近づけた。虹彩認証のためだ。
人類はこの虹彩認証に内心うんざりしていた。虹彩認証自体は人類による素晴らしき発明であったが、そもそも転送装置は起動時に利用者の手を分析し、個人の識別を完了している。虹彩認証は本来必要のないステップであるのだ。
「自室」に転送されたレイは、まず踵が完治していることを確認した。転送装置は利用者の転送を行うと同時に、人体を再構成する際、大抵の病気や怪我を完治させてしまう。人類の眠気覚ましとして骨折や自傷行為が利用されるようになったのは、そのためである。
レイの室内にはまだマリンバのサウンドが鳴り渡っていたが、彼はそれを気にも留めず軽やかに朝食を作り始めた。冷蔵庫の前へ向かい、その扉に埋め込まれたディスプレイに映し出される「朝食」の文字をタップする。それだけで人類は、栄養バランスにも、料理というもののあり方についても思い悩む必要はなかった。
冷蔵庫に用意されたクロワッサンとコーンポタージュのようなものを持って、レイは椅子に腰を下ろした。一見硬そうな椅子であったが、それは彼が腰を下ろした途端に形を変え、彼の骨格に最も適した形に変化した。流石は新時代と言ったところだ。
クロワッサンを一口かじり、やっと彼はマリンバのサウンドを止めた。突然静まり返った室内の様子を伺い、彼は両肩と眉をくいっと上げた。
彼が朝のアラームをマリンバのサウンドに設定しているのは、遠い昔の記憶に依存しているからだ。
宇宙人は一度人類を滅ぼし、やがて復活させたのだが、なにも彼らに蘇らせられたのは彼らによって滅ぼされた者とは限らなかった。蘇った人々には人類が本格的な文明を築く前に既に死んでいた者や、ニ〇ニ〇年の東京オリンピックを経験した者、ピラミッドの建設に携わった者など、多様な年代の人間が含まれていたのだ。
レイが死んだのはニ〇一七年である。当時の日本ではスマートフォンなるものが流行していて、その機能である「アラーム」のサウンドの一つがマリンバだった。彼もその機能を利用していた一人であり、現在もそのサウンドの中毒者である。
コーンポタージュのようなものを飲み干し、クロワッサンのようなものをかじっていると、彼はその中に虫が混入していること、そしてその虫を既に飲み込んでしまったことに気がついた。
「うえっ」
咄嗟に嫌悪感にまみれた声が出た。この世界では、「一日の産声とは、一日そのものである」というマキシムが広く知られており、それを思いながら彼は力強く溜息をつき、クロワッサンを窓の外へ放り投げた。
放り投げたことに多少の罪悪感はあったものの、虫への嫌悪感と腹立たしさで、そんなものは殆ど打ち消されていた。
レイは、起きてそのままの格好で大きなマンションを出た。周りの建物も充分大きかったが、それらが霞むほどに大きなマンションである。
マンションの前には広い公道があったが、そこに車は一台も見受けられなかった。
転送装置が普及してからの人々は、車に乗るどころか、徒歩で道を歩くことをやめた。そんな人間が見られるのは、テーマパークの中か、転送装置が不具合を起こしたときくらいである(そんなことは起こったことがなかったが)。
転送装置で移動を行うことは多くの人々にとって当然であり、むしろそれ以外の選択肢はなかった。転送装置は彼らの生命活動の一部となっていたのだ。
つまり、レイは異常だった。
彼はマンションの前にある公道を俯きながら渡り、無意味に残された歩道の段差に足をかけ、そこでほつれた靴紐を結びなおした。
靴紐を結び終え、顔を上げた彼はその目を疑った。
目の前の高い塀。その地上3メートルあたりに一人の少女が埋まっている光景が見えたのである。彼女の目はまっすぐ前を見据えていて、その方向にはレイの住むマンションがあった。
「ねえ?なにしてるの?」
レイがおそるおそる声をかけた。少女は黒目だけを彼の方へ動かしたが、返事を返す様子はない。レイはまた声をかけた。
「大丈夫?話せる?」
数秒にわたる沈黙の後、少女はやっと口を開いた。
「ポーランド語なら」
「それは僕が無理だよ」
レイがツッコミを入れると、少女は目を細め微笑んだ。レイが首を傾げ、それに返事をするように少女は眉を上げた。不毛なやり取りである。
「それで?なにしてるの?」
やり取りを先に途切れさせたのは、レイだ。
「埋まっちゃった!」
少女が無邪気に答えた。
「うん、それはそうだね......。そうなんだけど......」
レイが言葉に詰まる度、少女は右に首をかしげる。その動作は不思議とレイの思考を妨げた。彼は眉間にしわを寄せながら、やりづらそうに話を続けた。
「どうして埋まったの?」
「クロワッサンに轢かれたの!」
「クロワッサン?」
「そう、クロワッサンが落ちてきて、リコを突き飛ばしたの!」
少女の名はリコというらしい。レイはリコの可愛らしい返答につい顔をほころばせたが、すぐに彼女の言動を振り返った。
「クロワッサン......?」
レイは勘付いた。彼は部屋を出る直前、窓からクロワッサンを投げ捨てている。彼の部屋は二階、クロワッサンを投げ捨てたのは公道に面した窓だ。
レイは後ろにそびえ立つ彼の住むマンションを見た。試したこともなかったが、見る場所によっては彼がクロワッサンを投げ捨てている様子などは見えていてもおかしくない角度である。公道が無駄に広いためだ。
「ねえ、君を突き飛ばしたクロワッサンは、その後どこに行った?」
レイが急に優しい声で尋ねると、リコは純粋無垢な幼児のように答えた。
「どっか飛んで行っちゃった」
冷やかしだ。
レイは確信した。
彼女はレイがクロワッサンを投げ捨てたことを知った上で、あえて彼の前に現れ、彼をからかっている。そう考えたのだ。
顔半分を引きつらせながら鼻息を深く吐いたかと思うと、彼はいきなり目一杯の笑顔を作って話し出した。
「きっとそれは虫か何かだよ」
「虫?」
「そう、虫。近頃は虫の肥大化も進んでるからね」
「そっかあ」
レイは思わず目を逸らした。リコの目が大きく、ほとんど瞬きもせずに彼を凝視していたからだ。些細な動きでさえ指摘されそうな気がして、耐えられなかった。
彼は目を逸らしたまま、誤魔化すように口を開いた。
「リコは......何歳?」
「十六!」
間髪を入れず後ろから声がした。
正直レイには彼女の年齢などどうでもよかった。ただこの瞬間を、この気まずい状況を打開する術を考える余裕が欲しかった。
それなのに、話題が思いつかない。
彼は孤独だった。蘇って以来人混みを避け、極力人との関わりを絶っていた。この発達しすぎた世界に人と関わる必要性を感じなかったのである。そんな彼に同世代の女子と会話する機会など存在したはずもなく、無情に続く静寂の中、彼は必死に過去の記憶を辿った。
違和感に気づいたのはその直後だ。
はたき落とした虫を覗き込むような顔でレイはゆっくりと後ろを振り向き、ちょうど声が聞こえてきた方向まで振り返ると、彼は膠着した。
長く艶やかな黒髪に白い肌、眠そうな表情のリコがそこに立っていたのである。
レイはただ茫然としていた。
「わあっ!」
唐突にリコがふざけて手を広げ、笑いながら大声を出した。
驚くほどの声量でも、恐ろしい顔をしていたわけでもない、精一杯な動きさえも可愛らしいものに過ぎなかったが......。
レイにはそれが堪らなく不気味で、笑い続ける彼女が何よりも恐ろしかった。
彼女がお腹をかかえ下を向いて笑い出したのを見て、彼は逃げ出した。
マンションへ駆け込み、転送装置へ飛びついた。
選択肢が表示されるのも待たずにモニターを連打する。彼女から逃げられるのなら、とりあえず行き先はどこでもよかった。後ろを見ると、まだ彼女はお腹をかかえて笑っている。
ピピッという音が鳴った。転送準備が完了した合図だ。彼は転送装置に向かい、そこでやっとモニターを確認した。「ポルトピア」という文字が画面いっぱいに表示されている。ポルトピアはこの世界で最も人気のあるテーマパークの一つで、常に家族連れやカップルで溢れかえっている、つまりは彼の最も嫌う場所の一つでもあった。
いつの間にか虹彩認証も完了し、転送が始まった。何はともあれ、リコから逃げられたことに彼は安堵していたし、ポルトピアに送られてしまうことも、到着後その場で真っ先に自室への転送を行えばよいと楽観視していた。その気の緩みからか、彼は不覚にも後ろを振り返り、その光景に震え上がった。
マンションの入り口にリコが頬を押し付け、全身をへばりつけていたのだ。
彼が恐怖におののき、後ずさりをすると、彼女は彼が見ていることに気づいたのか頬を離し、何かを伝えるように口を大きく三回開いた。
おそらく声は発していなかったのだが、その言葉は転送中の彼の頭にこびりついて離れなくなってしまった。
「ま」
「た」
「ね」