イヌガミと彼女
初めまして、僕の名前は浅木裕也。
つい先月までは何の特徴もない中学生だったけれど、今月からは何の特徴もな高校生になった。そんな僕の高校生活を物語を始めようと思う。そう。
魔術と霊術とヤンデレな物語を……。
おかるとかのじょ
「あれ? 帰るの?」
学校の玄関口で声をかけられ振り返った。
「浅木ってバトミントンやってなかったっけ?」
「あ……高校ではやらないんだ。朝日はこれから部活?」
朝日は僕の中学校以来の同級生だ。少し短めに切られた髪はいかにもスポーツ少年、いやスポーツ少女という感じがする。そんな彼女は中学校から陸上部一筋で、高校に入った今でも毎日あきもせず走っている。中学校ではそこまで仲が良いわけではなかったけれど、高校という新しい環境に放り出された僕達は、同郷という事もあり自然と一緒にいる事が多くなったのだ。
「まだ高校の練習に慣れてないけどね」
少し困ったような顔をして首を横に振る。
「そういえば、浅木はもう授業決めたの?」
僕達の通う進学校は必須科目と選択科目で、自分の進路に合わせた授業を受ける事ができる。朝日の言う授業とはその選択科目で何の授業を選択したのか? という質問の事だろう。
「ああ、僕は現国は苦手だからな……物理とかかな?」
「じゃあたしも、そうしようかな――」
僕の顔色を窺うようにチラリと見る。
「朝日も物理得意なのか?」
「得意ってわけじゃないけど……。あ、部活始まっちゃう!」
そう言って慌てて廊下を走っていく朝日を眺めながら、元気な奴と思った。
駅へ向かう歩道は国道沿いにあり、立派なガードレールが一直線に並んでいる。僕はそのガードレールを横目にアスファルトの上を歩いた。
部活。朝日が言ったように中学校の頃はバトミントンをやっていたが、僕が高校に進学した時に母親も働き出したため夕食等の家事をやる事にしたのだ。そのため部活をやっている時間がない。高校で部活ができないのは残念だったけれど、それを悲しいと思った事はなかった。毎晩遅くに帰ってくる母と父を見てると、家のために何かしなくてはならない気がするからだ。
(できる事を一生懸命やればいいさ)
僕は駅へ続く横断歩道を渡った。
翌日、体育館で1年生全員が集められ選択授業の講座が始まった。内容はとどのつまり、何とかして良い大学入りなさい。だそうだ。先生たちは並んで「将来のため」だとか「君のため」だと声高に語る。そんな事を言われ続けて16年も経つがそれでもピンと来ないのは、その将来が見えてないからなんだと思っている。
それでは物理を選択する者はこちらへ。と先生が促すままに教室を移動する。
なるほど必須科目以外の授業は科目別にクラスが用意されるわけだ。本来の自分のクラスがあって、更に科目別にクラスがあって、クラスメイトが何人いるのかも分からなくなりそうだった。今年は難易度の高い物理を選択する生徒が多いらしく用意していた資料が足りないだとかで、しばらく待たされる事になった。
科目で分けられた新しいクラスは見た事のない顔ぶればかりで、いたたまれない感じがする。そんな時に限って朝日が欠席するのだから息苦しくてたまらない。今まで朝日がいてくれてどれほど助かっていた事か痛感した。はぁとため息をついて窓を眺めた時、僕とその窓を挟んで隣に座っていた子がこちらを向いた。
(あ。僕が彼女を見てたと勘違いされちゃったかな)
恥かしさにとっさに顔を背けてしまった。
「亘理沙織と言います。よろしくお願いしますね」
隣の子が僕を見て、にこっと微笑んだ。まっすぐ伸びた綺麗な黒髪で瞬きするたびに長いまつ毛が揺れる。言葉では上手く説明できないけれど何か不思議な雰囲気だな……と思った。
「あ……浅木裕也です、よろしく」
僕は軽く会釈した。彼女はもう一度、呟くような小さな声でよろしくねと言って前を向きなおした。
やがて先生が資料を持って教室に戻ってきた。説明の内容は参考書だとか授業内容とかそんなところだったけれど思ったより時間がかかった。選択授業の講座が終わり僕が校舎を出る頃には外は既に日が落ち、辺りは暗くなっていた。夕食を作るのは僕の仕事だったけれど、このままでは妹が帰ってくるまでに間に合いそうもなかった。
連絡を取ろうとポケットをまさぐるが携帯電話がない。どうやら教室に置いてきてしまったらしい。こういう時に限って下らない忘れ物をするものだと思いながら、出てきたばかりの校舎へ戻った。
校舎内は既に消灯時間が過ぎたらしく、さっきまでついていたはずの廊下の電灯が切れていて真暗になっていた。とはいえトイレの前や非常扉、職員室前などには電球が点いているので何も見えない。というわけではなかった。おそらく点検のための切らずに残しておいてるのだろう。
急いで帰らないといけないし、暗い校舎が薄気味悪いという事もあり僕は急いで階段を駆け登りガラリと教室のドアを開けた。
教室の中も当然のように電気は消えていて真暗だった。一瞬電気をつけようか迷ったけれど、僕が入って来たのは教室の奥側なので、少し屈めば机の中が見える。なので電気をつける時間さえも惜しいと思った僕は、その暗闇の中を並んだ机の間を縫うよう自分の座っていた机に歩み寄った。少し屈んで机の中で手を伸ばすと、指先にコツンを何かがぶつかる感触がした。そしてそれを掴むと確信する。
(僕の携帯電話だ)
使い慣れた物は形だけで分かるものだな。なんて思いながら体を起こしたとき視界の隅に何かを捉えた。
「あさぎ……」
「ふおっ!?」
教室は暗いけれどその声で分かる。朝日だ。
いつの間に入ってきたのだろう? いやもしかすると僕よりも先に教室の中にいたのかもしれない。どちらかは分からないが、朝日は僕の机から1つ離れた机辺りにいた。ペタペタと素足で床を歩く音が聞こえ、ゆっくり朝日が近づいてくる。よく見るとここが校内だというのにも関わらず、着ているものは制服ではなくパジャマのような私服だった。どうして制服を着ていないのか? いやそれ以前に朝日は今日、学校に来ていなかったはずだったし、もちろん選択授業の講座にも来てなかった。こんな所にいるのが不思議で仕方ない。むしろ不自然。と言った方がいいかもしれない。
「どうしたんだ? その格好……パジャマ?」
「浅木……あたしどうしよう?」
俯きながら僕の方へとゆっくりと机と机の間を歩いてくる。下を向いているので顔はよく見えないけれど、今の朝日が普通じゃない事は一目瞭然だ。靴も履いてないし、そのパジャマのような服もところどころ汚れている。
やがて僕の目の前まで来て、顔を上げた朝日はボロボロと涙を流していた。
「どうしよう。あたし変なんだよ……」
「朝日……うわっ」
突然、僕の手を取りぎゅっと握りガラガラと机を巻き込みながら僕を押し倒した。
腕に激痛が走る。制服の上からだというのにまるで刃物が刺さるような鋭い痛みが突き抜けたのだ。一瞬、何が起こったのか分からなかったけれど、なんと朝日が僕の腕に噛み付いているのだ。僕は焦りながらも噛み付く朝日を引き剥がそうと、そのの額に手を当てて押し上げた。そしてハッとする。赤く血走った目が暗い教室の中で赤く光っているのだ。
「フッ! フー!」
「痛てぇ! お、おい!」
必死に引き剥がそうとするけれど、ギリギリと歯と制服の袖が擦れるだけで朝日は離れない。フッフッと短く息を吐きながら、僕の腕を引いたり左右に振ったりするそれは犬の仕草に似ていた。
そして段々とより強く力で噛み付いてくる。頑丈な制服の生地が破れそうなほど引っ張り、僕の体が少しずつ宙に浮いていく。何とか朝日を振り払おうと腕をゆするが、いっこうに離れる気配もなく制服の下から血が滲んでくるのが見えた。
ふいにパチリと小さな音を立てて教室に電気がついた。
「誰かいるの? ……きゃ」
朝日は僕の腕を口から離すと、教室のドアの所で不思議そうに立っている亘理さんを押しのけ教室を飛び出して行った。
おかるとかのじょ
僕はふぅと息を吐いて目の前にある椅子に座った。噛み付かれていた腕は未だ噛まれているかのように痺れている。
「浅木くん大丈夫?」
亘理さんは椅子に座る僕の前に立ち、さっきまで噛まれていた腕を痛そうに見る。
「大丈夫、それより……今の見た?」
今の。というのはもちろん朝日の事だ。どうして学校にいるのか。どうして噛み付いてきたのか。どうして瞳が赤いのか。そのどれにも答えが見つからない。
僕の腕を眺めていた亘理さんが少し屈んで、僕を覗き込むように言った。
「イヌガミ憑き……」
ん?
「イヌガミ憑きは愛犬を殺す事で霊を憑依させて使役する呪詛の一種なのだけれど、もしかして霊が勝手に動いちゃったのかもしれないわね」
突然のオカルト話に返す言葉が見つからなかった。僕自身、悪霊だとか幽霊だとかそんなものは全く信じてない。そんな薀蓄を語られても理解も解決も出来るわけがなかった。
亘理さんは怪訝そうな顔をする僕の前にゆっくりしゃがみ込むと、朝日に噛まれた制服の袖をまくった。鞄からハンカチを取り出し、噛まれた傷口を押さえるとハンカチにうっすら血が滲んでくる。
「あ、あり……がと……」
僕はハッとして息を呑んだ。血をぬぐった朝日の噛み跡は犬の歯型だったのだ。
「……イヌガミって……」
僕の声に反応して亘理さんは見上げるように顔を上げた。
「誰かに憑く呪いなのか?」
「本来、イヌガミは他人ではなく自分自身に憑くものなのよ。もちろん他人に憑かせる事も可能だけれど、さっきの彼女のように表面に出てくることはまず不可能ね」
亘理さんそう言って立ち上がると制服のスカートを指でつまみ、ふわりと机の上に座った。
「例えば、赤い絵の具は人。青い絵の具はイヌガミだとする」
空中を指さして、くるくると回す。
「呪いを自分に受ける事で、赤い絵の具に青い絵の具を混ぜるの。紫になったその人は、朝日さんのようになるわ。そうして力を得る事をイヌガミ憑きというのよ。誰かに憑かせようとしても、自身から離れたイヌガミは微力でしかないわ。パレットいっぱいの赤い絵の具に微量の青い絵の具を足したところで、紫にはならないでしょ?」
信じられなかった。亘理さんの説明によれば、朝日が自分自身でイヌガミを生み出して僕を襲ったという事実に他ならないけれど、襲われる理由も見当たらないし教室にいた朝日を思い返してみれば、自身の変化に気づきながらも、その対応に窮してるように思えるからだ。
「それは治せないのか?」
「浅木くんは、絵の具で作った紫を赤と青に分けられるのかしら?」
できない。という事らしい。
「本来、宿主である朝日さんの方が色が濃いはずで力も制御できるはずなのだけれど、半々になってしまうと猫娘ならぬ犬娘ね」
机からぶら下がった足をふらふらさせ、空中を蹴るようにつま先を遊ばせる。
「呪いを解く方法は分からないけれど、呪いを終わらせる事はできるわ」
亘理さんはそう言うと机から降りて僕の顔を覗きこんだ。
「イヌガミの、願いが、叶えばいいのよ」
おかるとかのじょ
僕は屋上のフェンスの寄りかかって空を見上げた。
夏に向けて雲が流れてるけれど、まだ少し湿った風が吹く。
僕は朝日を中学校から知っているけれど、犬を飼ったという話は聞いた事がない。おそらく他の誰かによってイヌガミを憑けられたのだろうと思う。しかし亘理さんが言うには、そうした場合朝日自身には影響が出ないらしく、結局何も分からないのだ。
(いっそ朝日本人に聞いた方が早いんじゃないか?)
僕はフェンスを掴んだ。
「そうだ。もういっそ……」
「早まらないで、浅木君」
振り返ると風になびく髪を押さえながら、伏し目がちに僕を見ている亘理さんが立っていた。その風にぱたぱたスカートが揺れている。
「浅木君、割り込みはいけないわ」
「僕は誰にも割り込んでないよ……」
ここにいると思って。と小さく呟いて亘理さんは僕の隣でフェンスに背中を預けた。
「あの時イヌガミは偶然ではなく、僕のところへ来たんだよな?」
「……そうね」
それはイヌガミの目的が僕にあるという事だったが、逆に言えばそのイヌガミの望みを叶えれば朝日は助かるという事でもある。僕は屋上の床に置かれた鞄を手に持った。
「どこへ行くの? 浅木くん」
亘理さんが横目で見る。
もはや呪詛主が朝日だろうと他の誰であろうとどうでも良かった。イヌガミの目的を果たしてやればそれで解決できるのだ。僕がここまで頑張るのは、あの時の朝日の泣き顔が目に焼きついて離れないからだ。
(僕に助けて欲しかったんだ……)
それはバカな勘違いかもしれないが、それでもいいと思った。
「あなたがイヌガミの望みを叶えると言うの?」
「……できるならね」
「そう。優しいのね」
おかるとかのじょ
今が何時だか分からないけれど、既に日が落ちてきている。
朝日の家は駅からすぐの距離だったがずいぶん遠くに感じたような気がした。朝日の家はアパートやマンションではなく白い外壁で四角い鏡餅のような形をした2階建ての戸建だ。新興集合住宅に囲まれた場所にポツンと1つだけ戸建があるのだが、目立たないようで意外と目立つ。
僕はその玄関に立つと僕はゴクリと唾を飲み込んだ。勢いでここまで来てしまったけれど、イヌガミに憑かれた朝日を思い出すと、とてもじゃないけど元気におじゃまします。という気分にはなれなずインターホンを押す指が震えるのだ。
(バカ野郎。朝日が犬だろうと何だろう友達じゃないか)
自分に喝を入れるとインターホンを押す指に力が入りピンポンと鳴る。
が、反応はない。
引き返そうか迷ったがドアに手をかけノブを回してみる。こういう時に限ってちゃんと開くもので、ゆっくりドアが開いていく。玄関はしっかりに掃除され、足元には綺麗に並んだ靴があり靴箱の上にはおしゃれな観葉植物が置かれている。そしてその靴箱の横には赤い傘立てが置かれ、何本か傘が刺さっている。
靴があるところを見ると誰かしら家にはいるのだろうと思った。
「すみません。朝日……遥さんいますか――?」
割と大きな声で言ったつもりだったが、返事はなく僕の声は静かで暗い家の中に吸い込まれていった。
無用心だな、不法侵入されてしまうぞと思ったけれど、この場合それは僕だと思いながら、そっと靴を脱いで玄関に足をかけた。1階を一回りしてみたがリビングや風呂場があるだけで人の気配は無かった。
続いて2階へ上がろうとしたが階段の電灯のスイッチの位置が分からない。暗闇の中でイヌガミに会うのは当然ながら怖い。しかしここまで来て引き返すわけにもいかず、ギシギシと音を鳴らしながら細く暗い階段を登る。
部屋は3つあったが、とりあえずと一番手前の部屋のドアを開けてみた。
机には教科書が綺麗に整頓され、ベッドの横にはテレビが置かれている何の変哲もないごく普通の高校生の部屋だった。電気はついておらず薄暗い部屋の中をカーテンの隙間から僅かに残る日の光が差し込む。その光の先を視線で辿っていくと誰かの足が視界に映った。
ハッとして顔を上げると、足元だけを日に照らされた朝日がそこに立っている。僕の後ろにはドアがあり目の前には朝日がいる。そしてその奥にはベットがあるという光景だ。
「いるなら返事くらい……」
「何しに来たの?」
朝日は僕の言葉を遮るように声を重ねる。
「知ってるでしょ? あたし変なんだよ……」
朝日はとても悲しそうな顔で微笑むと下を向き俯いた。悲しい笑顔、というものは生涯初めて見たかもしれない。それはとても歪なもので、本当の意味での人の絶望なんてものは分からないが今の朝日の様子を言葉にするならば、それが一番的確なのだろう。
やがて俯いている朝日からグルグルと喉を鳴らすような音が聞こえると、ふいにその顔を上げた。瞳はみるみる赤に染まり、まるで犬のように呼吸が短くなっていく。その様子を見つめながら僕は背中にぞくぞく寒気が走り心臓がどんどん早くなっていくのを感じていた。これがイヌガミ憑きの瞬間なのだ。
「お、お前は何がしたいんだ?」
イヌガミの赤い瞳が僕を捉えて離さない。恐怖で声が裏返りそうだ。いや裏返っていたかもしれない。
「欲しぃ……」
イヌガミから発せられた声は、当たり前だけど朝日の声だった。
「欲しい……?」
「お前が欲しいっ!」
イヌガミが体を屈めたように見えた。が、次の瞬間にはイヌガミの顔が僕の目の前にあった。
突然飛び掛ってきたイヌガミのあまりの速さに、僕はなすすべなく押し倒されたれた。赤く光る瞳は焦点が合っておらず、僕の行動を全て観察するように左右に細かく振れている。イヌガミがすかさず噛み付こうと口を開ける。僕はとっさに顔を腕で覆ったが、すごい力でその腕を掴まれぎしぎしと骨が軋んだ。
「ぅあ……!」
「フッ! フッ! フッ!」
考えが甘かったと後悔した。イヌガミは話なんて通用する相手ではなかったのだ。
顔を覆う僕の腕がゆっくりと除けられていく。体は朝日のはずなのに、どこからそんな力が出てくるのかという程に押しのけられていく。腕の隙間から僅かに見えるイヌガミは、この状況を楽しんでいるかのように口の端を引いて歪んだ笑みを浮かべている。
殺される。と思った。
「あらあら。興奮したわんちゃんね。発情期かしら?」
なんと微笑みながら僕達を見下ろしている亘理さんがいる。
何でここに? 助けて! 逃げろ! 色々な言葉が喉の奥で詰まったまま出て来なかった。
「使役されたはずの霊が勝手に動くなんてオカルトは奥が深いわ。それにしても浅木君、私のいない所で女の子に押し倒されるなんて良いご身分ね」
残念ながら今の僕に軽口を返してる余裕はなかった。
「わ、亘理さん……何とかできないのか?」
「どうしようかしら。2人の邪魔はしたくないわ」
「いや……ほんとに……お願いし……ます」
「仕方ないわね。浅木くんは本当に仕方ない子ね。うふふ」
そう言ってしゃがみ込むと、イヌガミの耳に顔を寄せると囁くように呟いた。
「朝日さん……オスワリ――」
おかるとかのじょ
もう外は暗かったけれど点々と続く街頭が駅への道を照らす。それは湿っぽい風だったが今の僕には十分気持ちが良かった。
「別に送ってくれなくてもいいわよ、駅はすぐそこなんだし」
「いや、一応ね」
理由は分からないけれど亘理さんの一言で朝日は落ち着きを取り戻し、そのまま眠りについた。亘理さんによるとイヌガミが消えたわけではなく押し込めただけなのだとか。消えたわけじゃない事に後味の悪さが残ったけれど、それでも亘理さんという解決法が分かっただけマシだと思った。
「オスワリって何かの呪文?」
「躾の良い犬だったのでしょうね」
「そんなんで納得できるか!」
「使役する霊を戒める呪言ね。飼い主専用――のね」
飼い主……!?
「イヌガミはお前の差し金か!?」
「差し金だなんて人聞きの悪い事を言わないで。ちょっと私のわんちゃんを預かってもらってただけよ」
言葉を失うとはまさに今の僕にピッタリだった。呆れて怒って何を言えばいいか分からない。
「これでも反省してるのよ。わんちゃんが勝手に暴れちゃったのは事実なの。いつもは、朝日さんの中で大人しくしてるのだけど……」
「朝日の体は犬小屋か。でもそうした場合、イヌガミは表面に出て来れないんじゃなかったのか?」
確か呪詛主以外の人間に憑いた場合、本来の力が出せなくなるはずで亘理さんが呪詛主なら朝日がイヌガミに体を奪われる事はないはずだった。
「もしかしたら朝日さんとわんちゃんの意識が同調しちゃったのかもしれないわね」
残念ながら僕の頭では理解できなかった。
「それより、どうしてそんな事をしたんだ?」
「……だって……朝日さん、浅木くんと同じクラスじゃない……」
「そうだけど、それが何なんだ?」
「……私、浅木くんが……好き。だから……」
(!)
「つ、つまり僕の事が好きで、同じクラスの朝日にイヌガミを忍ばせる事で、イヌガミを通して僕を見ていたわけか。どうりで選択科目でも一緒になるわけだ」
亘理さんは目を逸らしたまま俯いて小さく何度も頷いた。耳まで赤くなってる。これが普通の人なら可愛いなと思えるんだけれど……。
(亘理さんは変な人だ!!)
僕のそれは確信だった。
ふいに亘理さんが立ち止まり、僕の腕をぎゅっと掴んで互いの鼻が触れ合いそうな程に顔を寄せた。
「私の事、嫌いになった?」
「そ、そんな事ないけど」
僕達の出会いは偶然ではなかった。
「もし私が危険な時は、朝日さんみたいに助けに来てくれるかしら?」
「あ、ああ……もちろん」
かと言って運命でもなかった。
「いいえ、朝日さん以上に助けてくれるかしら」
「助けるのに以上も以下もないだろ」
亘理沙織という物語のシナリオだった。
「じゃあ約束のキスをしましょう」
「なんでだよ。そんな事しなくても約束するよ」
それでも僕は……。
「それなら、ただのキスをしましょう」
「だから何でだよ?」
それでも僕は。
「彼氏と彼女は帰り道にキスするものよ」
「そ、そっか……それじゃ仕方ないか」
まっすぐ伸びた綺麗な黒髪で、瞬きするたびに長いまつ毛が揺れる。不思議な雰囲気の子だと思った。
「でもラッキーだったわ。あのハンカチは家宝になる」
何か呟いたような気がしたけれど、僕の耳はそれを拒否した。




