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時空戦艦『大和』  作者: キプロス
第8章 戦時の大和~1944年
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第94話 覇号作戦(前)

 第94話『覇号作戦(前)』

 

 

 1944年4月18日

 ソビエト社会主義共和国連邦/沿海州



 

 『誅一号作戦』によりウラジオストクを占領された1943年9月以降、日国共満4国からなる『中国同盟軍』を前にソ連極東方面軍の苦戦は続いていた。ソ連太平洋艦隊が壊滅を喫し、シベリア鉄道の破壊による補給遮断を狙った『断号作戦』が発動され、兵站を欠くこととなったソ連極東方面軍は著しく衰退の一途を辿っていた。武器や弾薬が届かないのならまだしも、石油や石炭といった燃料の補給が滞ってしまったのは、近代軍隊たるソ連軍にとっては致命的だった訳である。極東方面では燃料の自給もままならず、食糧についても限りはあった。アメリカからの補給支援もあったものの、数百万の軍隊を支えるには足りない量であり、しかも太平洋艦隊の拠点を奪われてしまっていたため、送りたくても送れない、受け取りたくても受け取れない……という状況が続いていた。

 1943年11月、ソ連極東方面軍総司令官のセミョーン・K・チモシェンコソ連邦元帥は、これ以上は戦線を支え切れないと判断し、満州国からの完全撤退と戦線の北上化を決断した。これにソ連軍最高司令部(スタフカ)は、レニングラードを巡る戦いのことを考慮し、渋々ながらも認めた。

 しかしソ連軍最高司令官のヨシフ・スターリンは、この戦線後退に1つの条件を付けた。それは悪名高きスターリンの命令――“ソ連国防人民委員令第227号”である。この歴史的汚点のような命令は即ち、いかなる理由を以てしても“後退”を認めない――というものだった。例え敵との戦力差が圧倒的であれ、多大な損失を被ったとしても、この第227号に従いソ連兵は一歩も後ろに引く事が許されなくなってしまったのだ。それでも後退してしまった場合は、督戦隊や懲罰部隊による容赦無き粛清を覚悟しなければならないため、ソ連極東方面軍は前後に敵を作ってしまっている状態だった。

 スターリンはこれを“愛国心の高揚”になると考えていたが、実際には真逆の結果となってしまった。元々、極東の満州国に大義も無く攻め入ったソ連兵達にとって愛国心など欠片も無く、戦争の早期終結と故郷への帰還を切に願うばかりであった。そのため、第227号令は極東で戦うソ連兵に対して、恐怖と猜疑心を与えることとなる。

 第227号令が発動された1943年11月以降、極東戦線は北上し、沿海州内で膠着した。大日本帝国軍が本土や中国大陸、そして東南アジアからの確固たる補給網を構築している一方、ソ連極東方面軍は海路・空路・陸路の3つの補給線を遮断され、兵站を欠く状況に陥っていた。12月にもなると厳寒な冬将軍が忍び寄り、ソ連兵の命を次々と奪っていった。これまで冬将軍によって守られてきた歴史、そして史実のことを考えると、それは皮肉の何者でもなかった。

 1943年12月、ソ連極東軍の内情は悲惨の極みであった。シベリア鉄道が破壊されたこと、そして北極・アメリカルートの海路を遮断されているため、ろくに物資も届かない状況だった。木は次々と切り倒されて大地は丸裸となり、各地で焚火が見受けられる。だが、12月の気候は残酷だった。次々と凍死者が生まれ、食糧も足りないために餓死者も後を絶たなかった。かくして、1943年から1944年に至る冬季は、ソ連極東方面軍を苦しめ続けたのである。



 4月に入り、両軍の大規模な攻防戦は再開された。冬将軍の収束とともに訪れた“泥将軍”も去って大地は固まりつつあったが、ソ連軍の情勢は芳しいものではなかった。航空機と中国国民党・共産党のゲリラ部隊によって継続されている『断号作戦』により、未だ補給線が遮断されていたからである。これによりシベリア鉄道や輸送船団による大規模な補給を受けられないソ連軍では、深刻な物資不足が続いていた。数多くの戦車には1滴のガソリンも残されておらず、小銃用の弾薬も乏しく、また食糧に関しては現地調達が当たり前となっていたが、冬を越すために大方を消費していた。

 それぞれの部隊は物資・士気・人材不足に悩まされ、ろくに戦闘を行える状況では無かった。なかでも人材不足は深刻で、士官の著しい減少が問題となっていた。これは戦死や凍死、餓死に加え、粛清や異動による所が大きかった。特に異動は、3月1日に発動された『バグラチオン作戦』以降、顕著な問題となっており、数多くの士官が極東戦線から西部戦線へと引き抜かれてしまっていた。

 そしてこれは何も人間だけの問題ではなく、武器や弾薬や食糧にも関わる問題であった。戦車や航空機が西へと送られる一方、それを補う増援は全く無かった。ソ連極東方面軍総司令部は幾度にも渡り、最高司令部にこの現状を伝え、物資の増加と増援兵力を要請したものの、最高司令部はこれを黙認している。スターリンは、極東戦線を見捨てたのだ。

 かくしてソ連極東方面軍が防戦に手一杯な一方、大日本帝国軍は一大反攻作戦を計画していた。作戦名称は――『覇』である。この『覇号作戦』はソ連沿海州に対する大規模な侵攻作戦で、その最終目標はソ連軍の殲滅とハバロフスクの占領にあった。ハバロフスクはソ連極東方面軍総司令部が居を構える地であり、ソ連軍の重要な補給中継地点でもあった。ここを攻略、占領することはソ連極東方面軍の兵站を崩壊させるとともに、頭脳を叩き潰すことにもなるのだ。

 大日本帝国軍の準備は万全であった。帝国海軍は戦艦『大和』を旗艦とする“連合艦隊”、軽巡洋艦『大淀』を旗艦とする“海上護衛総隊”を駆使し、日本海の制海・制空権を完全に掌握しており、抜かりは無かった。最近では、占領地ウラジオストクを前線基地として活用しており、戦艦『ソビエツキー・ソユーズ』を始めとする艦艇をその手中に収めていた。

 しかし今回、帝国海軍にとってはソ連太平洋艦隊から鹵獲艦艇を得た事よりも“通商路防衛”の経験を得た事の方が、よっぽど嬉しいことであった。一連の戦闘を経て、海上護衛総隊と通商路防衛の重要さが海軍内で見直されつつあり、兵站の盤石化こそが『日本海海戦』や『第二次日本海海戦』の勝利に繋がったのだと見る声が強まっていた。これは1945年以降の悲惨な通商路を見てきた『大和会』の面々にとって、喜ばしい限りであった。

 そして帝国陸軍も同様に、兵站の重要さを見直す動きが強まっていた。これはソ連軍の“第88独立狙撃旅団”を始めとする工作部隊が関係している。これら工作部隊によって行われた一連の兵站妨害は、開戦初期から中期にかけての帝国陸軍を引っ掻き回し続けたからである。この経験を基に、帝国陸軍は対抗策として兵站の拡充や諜報・防諜の徹底化を推し進め、補給を盤石なものとしていた。

 そしてこのような細かな努力によって成し得たのが、戦力の増強であった。1943年9月の開戦と同時に各工場では戦車・軍用車輛の生産が続けられていたが、旧来の帝国陸軍であればこの増援戦力を前線まで持ってくるのに膨大な時間を費やしたであろう。

 しかし、今物語の帝国陸軍は違った。『大和会』一員であり、補給の重要さに目を瞑ることの無かった関東軍総司令官の今村均陸軍大将は、フィンランドから帰還した『遣欧陸軍』の士官や将官を中心に兵站の強化を図り、輜重兵の地位向上や重機の大幅投入、道路網の整備によって前線への補給を滞らせないようにしたのである。この結果、増産された戦車・軍用車輛の多くは逐次投入され、前線の機甲戦力の不足分を素早く補ったのだ。

 また、EU(ヨーロッパ同盟)の植民地軍の準備も万全であった。英印軍を主力に仏印軍、蘭印軍、豪軍などが集結し、関東軍や中国同盟軍の手の届かない部分を補填する。さらにこれらの軍の宗主国の多くが、自国の兵器や物資の供与を行っており、『マチルダ』戦車といった海外製兵器が関東軍のなかに組み込まれていた。

 そして大日本帝国軍がその力を注ぎ続けてきた航空機については、既に両軍の間では雲泥の差となっていた。度重なる戦闘で消耗を続けてきたソ連極東軍空軍には、もはやYakシリーズといった新型戦闘機の姿はなく、倉庫で埃を被っていた旧式のI-16などしか残されていなかった。また、爆撃機なども軒並みモスクワへと引き戻されている。

 その一方、帝国陸軍では主力戦闘機が従来の一式戦闘機『隼』から三式戦闘機『飛燕』へと移行し、四式戦闘機の順次配備が続いている。また、帝国海軍では零式艦上戦闘機から三式艦上戦闘機『紫電』へと移行しており、さらなる新型機開発が続いていた。爆撃機、戦闘爆撃機に関しても抜かりは無く、大日本帝国軍はソ連沿海州の制空権を握りつつあった。

 

 

 ソ連沿海州の一都市、ダリネレチェンスクはウラジオストクとハバロフスクの中間に位置する街である。街は小さな丘のある平地にあり、北東部にはイマン河が流れている。イマン河はすぐ下流でウスリー河と合流し、ソ連沿海州を貫くようにしてその流れを続けている。そして、そんなイマン河の対岸には、去年9月から度重なる戦火によって焼き尽くされた地、虎頭要塞の姿があった。

 現在、ダリネレチェンスクはEU(ヨーロッパ同盟)の占領下にある。その地理的特徴からハバロフスクへの前線拠点として利用されているこの街には、関東軍から中国軍、そして英軍や仏軍の兵士達も駐留していた。

 「ビキンの包囲は完了しているのだな?」

 「はい、抜かりはありません」

 ダリネレチェンスクの町役場を徴発して設営された関東軍前線司令部では、今村均陸軍大将が関東軍参謀総長である笠原幸雄に訊いていた。ビキンとはハバロフスクの南西約230kmに位置する街で、『覇号作戦』では前線補給拠点に予定されている地でもあった。

 「現在、ソ連第14空挺師団が同市防衛についておりますが、数日の内には……」

 笠原のそんな言葉に今村は頷いた。

 「絶対が無いのは解るが、急いでな」

 「それは承知しております」

 笠原は言った。

 「……『断号作戦』はどうなっている?」

 報告書に一通り目を通した今村は、横目で笠原の顔を見た。

 「陸軍航空隊の奮闘とゲリラ作戦の甲斐もあり、順調です」笠原は言った。「しかし、同時に守備が強化され、工兵が増員されているという報告も入っております。いずれはこのような大戦果を聞けなくなる日が来るやもしれません……」

 ソ連軍もただやられていただけではない。一日一日の戦闘を経て学習を続ける彼等は、補給遮断戦には膨大な物資と兵員、そして時間が掛かることを知っていたのである。だからこそ、その対抗手段についても研究・実践を続けていた。

 「今回の『覇号作戦』は危険だ」

 今村は資料を手に取りつつ言った。「ハバロフスクまで攻勢点を広げるとなればその分、こちらの補給線も細長く伸びてしまう。そこを突かれてしまうと、奴らの二の舞になりかねん」

 笠原はかぶりを振った。「閣下はその点の対抗策を十分に取ってらっしゃいます。だからこそ、このダリネレチェンスクまで戦線を伸ばしても、美味しい米が食えていられるのです。これ以上を望むとするならば、最前線から兵を引き抜かねばなりませんよ?」

 「最前線からか……」今村は唸った。「内地からの増援は?」

 「内地もアメリカに睨みを利かせるのに手一杯とか……。大本営は、内地の防備ががら空きになってメキシコの二の舞になるのが嫌なんでしょう」

 今村は笑みを漏らした。「メキシコか、そいつは確かに嫌だな。“53番目の州”にはなりなくない」

 1944年1月の『第二次米墨戦争』以降、メキシコはバハ・カリフォルニア州をアメリカ合衆国へと明け渡している。これにより、バハ・カリフォルニア州はアメリカ合衆国の“52番目の州”となり、合衆国へと併合されてしまったのである。

 「とはいえ、超大なソビエトの領地にもなりたくないな。さて、どうすればいいかな」

 今村は腕を組み、唸った。補給の問題は常に悩まされる――いわば永遠のテーマであった。補給なき軍隊はいずれ滅びるが、補給に力を注ぎ過ぎて軍隊が滅べば元も子もない。

 「とにもかくにも、決戦は5月だ。気を引き締める必要がある」今村は言った。

 「閣下。EUから通告された作戦名称をお聞きになりましたか?」

 笠原の問いに対し、今村はかぶりを振った。

 「『ジャッジメント』……だそうです」

 「ほぉ、『ジャッジメント』……“審判”か……」



 ――『ジャッジメント作戦』。それはEU軍によるソ連軍への一大反撃作戦の符丁である。この極東戦線を始め、北部戦線、中央戦線、南部戦線と、全戦線でほぼ同時期に合わせて実行される予定のこの作戦は、各戦線のソ連軍を殲滅し、その拠点を破壊して敵の継戦能力を挫くことが肝であった。故に徹底して行われるため、予備を含めて大規模な兵力が戦線に投入されるのだが、その分、補給体制の盤石化が重要となってくるのだ。

 

 

 


 



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