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時空戦艦『大和』  作者: キプロス
第8章 戦時の大和~1944年
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第92話 バグラチオン作戦(中)

 第92話『バグラチオン作戦(中)』

 

 

 1944年3月24日

 EU(ヨーロッパ同盟)領/レニングラード

 

 かつてのロシア帝国首都、“北のヴェネツィア”こと――レニングラード。ラドガ湖からフィンランド湾へと至る無数の運河を連ねるこの街は、現在、EU(ヨーロッパ同盟)軍によって支配された“占領地”の一角に過ぎなかった。ソ連第2の都市、交通の要衝、何より共産主義の象徴――“ウラジーミル・レーニン”の名を冠したこの街を奪取されたことは、ソ連にとっては大きな痛手であった。ソ連赤軍と労働者達は、この街を死守すべく地獄の戦火の中を耐え抜いてはいたが、EU軍の猛攻の前に1943年9月、英雄都市は遂に陥落する。

 死臭と硝煙に包まれたレニングラードにEU空軍が駐留を始めたのは、9月下旬である。ドイツ空軍、及び英空軍の戦略爆撃機が市内に配備され、迎撃網の構築が始められた。10月上旬には、遂にEU空軍は爆撃圏内に収めた首都モスクワに対し、大規模な戦略爆撃を開始する。

 モスクワはソ連の首都であると同時に、ソ連産業の心臓部でもあった。戦車、戦闘機、列車、爆弾、弾薬、銃火器工場が密集しており、ソ連赤軍の膨大な需要を満たしている。10月の爆撃は、そんな産業の心臓部を釘で貫くような、強烈な意図を持つ行為でもあったのだ。爆撃は“クレムリン”を除いた戦略爆撃であり、これら工業地帯と民家密集地を数千tの爆弾で焼き払った。

 これは、ソ連軍の基本戦略にも大きな影響を与えた。極東戦線を3ヶ月で終結させたかった軍上層部は、今回の爆撃によって兵器生産が著しく低迷することを見据え、長期的な戦略にシフトチェンジさせることを指導者スターリンに承諾させた。即ち、モスクワの工業地帯をウラル山脈以東へと疎開させ、一時的な持久戦に移行させる――ということである。これはあくまでも“一時的”な措置であり、兵器生産量の回復と徴兵数の増大によって1944年3月までには大反攻作戦を立てられることを前提としていた。

 そして1944年3月1日、ソ連軍は『バグラチオン作戦』を発動。

 120個師団将兵400万名がそれぞれ北部方面、中央方面、南部方面の3方面に振り分けられ、一大反撃攻勢を仕掛けたのだ。ソ連の国力を見せ付けた今回の作戦は、本来なら600万名の兵士を前線投入させることを目標としていたが、極東戦線における予想以上の損失が計画を狂わせていた。

 しかしながら、400万の兵士の投入も、EU軍に対しては十分過ぎるメッセージであった。EU優勢下にあった欧州戦線は一転、ソ連優位となったのである。ポーランドは“ワルシャワ・ライン”まで攻め込まれ、ドイツ・イタリアの生命線ともいえる石油供給国ルーマニアは、ソ連軍によって全面的に占領されてしまった。そして此処、レニングラードもまた、三度戦火に包まれようとしていた。

 


 1943年9月以降、北部戦線は一進一退の攻防戦を繰り広げていた。レニングラードを橋頭堡とするEU軍は、その強大な空軍力と機甲部隊を前面に押し出した電撃戦を展開。一方、ソ連軍はモスクワへと至る各地を要塞化し、EU軍の進撃にストップを掛けた。これに対し、名将ロンメル率いる軍団は、これら堅固な防御陣地を避けて進むという手段、及び包囲殲滅するという手段を用いて対抗し、モスクワ目前まで迫ることが出来た。

 しかしながら、敵も馬鹿ではない。学習を重ねたソ連軍は、EU軍の統制を欠いた戦力配置と伸び切った補給線に狙いを定め、攻勢を仕掛けたのである。即ち、側面の弱い部分――フランス軍やスペイン軍――を狙って攻撃を仕掛けたり、背後から半包囲を掛けて補給線を寸断したりしたのだ。

 また、これまでにロシアを守り続けてきた『冬将軍』の到来も、EU軍の進撃に歯止めを掛ける要因となった。先の『冬戦争』で厳寒な気候に慣れたとはいえ、あの時は長期間の遠征など行いはしなかった。フィンランドの地勢は鬱蒼と茂る針葉樹林と複数の湖、そして無数の川からなるが、母なるロシアに広がるのは長大な平原と丘陵である。どこまでも続く平原には、寒風から身を守る遮蔽物も無ければ、暖を取る為の薪も無い。また、方向感覚が狂ってしまった。これらの要因から、EU軍の進撃スピードは初期に比べれば圧倒的に遅く、ソ連軍につけ込ませる隙となってしまったのだ。

 更に、侵略者が逆転してしまったこともEU軍の侵攻を妨げる要因となった。つまり、これまでフィンランドに攻め入っていたソ連軍は一転、祖国の防人となったのである。これまでフィンランドの限られた土地で、コンパクトな戦いを繰り広げてきたソ連軍だが、このロシアの母なる大地においては、アグレッシブな戦いを繰り広げることが出来たのである。



 1944年3月1日時点で、両軍の攻勢境界線はカリーニンだった。革命家ミハイル・カリーニンにその名を貰ったこの街は、首都モスクワの北西約170キロの地点に位置し、ヴォルガ川とベルツァ川の合流点である。その近くにはヴァイダル丘陵もあり、交通の要衝であった。

 しかしソ連軍の攻勢は苛烈だった。3月8日、EU軍はカリーニンを放棄し、後退を始める。一方、ソ連軍は前進に次ぐ前進を続け、17日にはルイビンスク、18日にはノヴゴロドを放棄する派目となってしまった。敗走を重ねていたEU軍は、ドイツ陸軍のエーリヒ・フォン・マンシュタイン元帥、ヴァルター・モーデル上級大将、そしてドイツ空軍のアルベルト・ケッセルリンク元帥の3名を擁立し、北部戦線死守に当らせることとなった。

 『ドイツ陸軍最高の頭脳』、『ヒトラーの火消し屋』、『微笑みのアルベルト』

 この3名に共通する事項といえば、各々が“防御戦の天才”であるということだった。遅延戦術、攻勢防御のスペシャリストである彼等はまず、前線に少数の軽歩兵部隊を残して戦力を後退させ、続いて強固な防衛線と反撃戦力の貯蓄に移った。これは、ドイツ軍の基本防御戦術――前線に薄く広い防衛線を展開し、突破されれば更に強固な陣地や戦力で押し止め、更に深奥の防衛線によって敵の攻勢を完全に抑え込む――であったが、ここでマンシュタイン元帥は、戦史に残る機動防御戦術である『後手からの一撃』を狙っていた。

 更にこれを補佐するのが、フランス軍であった。第一次世界大戦時、MP18による“浸透戦術”で一次期を席巻したドイツ軍を、“攻勢防御”によって叩きのめしたフランス軍は、防御戦ではドイツ軍より上の存在であった。電撃戦を取るドイツ軍ならともかく、ただただ前進あるのみのソ連軍に対しては、フランス軍の方に分があったのである。

 かくして、レニングラードを巡る大攻防戦がその幕を開けようとしていた。



 1944年3月21日、レニングラード近郊の工業都市コルピノに対し、ソ連北部方面軍は大規模な攻勢を開始する。キリル・A・メレツコフ元帥を総司令官とする北部方面軍の陣容は、40個師団125万名である。そのうち、4個戦車師団、2個空挺師団、2個自動車化狙撃兵師団、15個狙撃兵師団が今回の戦闘に備え、前線配置されていた。後方には更に2個戦車師団と、10個狙撃兵師団が配置されており、最終的な戦力は6個戦車師団、2個空挺師団、2個自動車化狙撃兵師団、25個狙撃兵師団である。

 これに対し、EU軍は12個装甲師団(独6個、英2個、仏2個、伊1個、芬1個)、5個自動車化歩兵師団(独2個、英1個、仏1個、伊1個)、4個騎兵師団(独1個、英2個、仏1個)、42個歩兵師団(独15個、英10個、仏5個、伊3個、芬3個、蘭2個、西2個、白1個、洪1個)という膨大な量の兵力を保有していた。合わせると59個師団200万名近くとなる。数では優勢だが、各国軍の統制は全くといって良い程取れておらず、補給の統一化も進んでいないので、悪く言えば“烏合の衆”のようなものだった。それはソ連軍にもいえたことだが、彼等は政治将校という“規律”を有しており、補給の面でも分はあったのだ。

 防衛線はドイツ軍式に3つの層から形成された。第1層のもっとも薄い部分はドイツ軍とイタリア軍、第2層はドイツ軍とフランス軍で、第3層はドイツ軍とイギリス軍である。これは大まかなものなので、実際は第1層にイギリス軍が混じっていたり、オランダ軍やベルギー軍の姿もあったりする。


 「コルピノ正面、戦闘開始しました!」

 レニングラードに位置する『サンクトペテルブルク要塞』に築かれたEU北部方面軍総司令部。その作戦指令室では、『ドイツ陸軍最高の頭脳』ことエーリヒ・フォン・マンシュタイン元帥が渋面を浮かべながら、コルピノの戦略地図を見据えている姿があった。横には兵棋盤があり、レニングラードの中に青い駒が多数置かれ、その周りを紅い駒が埋め尽くしていた。

 「戦闘爆撃機部隊を送り込め。空軍力で正面を押し返すのだ」

 その声を聞き、幕僚の一人が兵棋盤に置かれた航空機の駒をコルピノ正面部に押し出す。駒の数は5つ、ドイツ空軍のJu87やイギリス空軍のホーカータイフーンである。

 「敵機来襲! 数は200」

 「こちらも戦闘機部隊を出しなさい。ここは景気良く、第52戦闘航空団が良いな」

 次に答えたのは、『微笑みのアルベルト』ことアルベルト・ケッセルリンク空軍元帥である。神経症により歪む顔は常に笑みを湛えており、その渾名の所以となった。

 それから数十分後、レニングラードに駐留する第52戦闘航空団は、多数のMe109とFw190を吐き出した。この第52戦闘航空団には、ドイツ空軍トップ・エースであるエーリヒ・ハルトマン大尉の他、『アフリカの星』ことハンス・ヨアヒム・マルセイユの姿もあった。第52戦闘航空団は史実同様、航空の歴史上で最も多大な撃墜記録を挙げた戦闘機部隊であった。ドイツ空軍の精鋭達が集まるこの第52戦闘航空団は史実、約9000機にも及ぶ撃墜記録を有しており、これはどの国の航空部隊にも破られる事の無い記録であった。

 激戦地レニングラードは、陸のみならず空でも激戦が続いていた。連日、スターリンによって送り出される未熟なソ連空軍パイロットはEU空軍のベテラン達にとっては絶好のカモであり、点数稼ぎに丁度良い獲物であった。しかしながらEU空軍もその圧倒的な物量を前に多大な出血を払っており、一方的な勝利――というものは未だ得られていなかったのである。それでもドイツ空軍を中核とするEU空軍は強く、レニングラードを始めモスクワ周辺の制空権を掌握する程であった。

 第52戦闘航空団第2飛行長を務めるハルトマン大尉は、相変わらずMe109を愛機とするエース・パイロットであった。彼は一時期、第7教導航空団にも所属していて、Me262を操縦したこともあったが、やはり自身の愛機はMe109の他に無いと考えていた。

 以降、北部戦線において連戦に次ぐ連戦を戦い抜いた彼は、1944年3月の時点で総撃墜数200機を超すトップ・エースとして、ドイツ空軍の王座に君臨していた。彼の凄い所はその撃墜数のみならず、一度も僚機を撃墜されたことが無い――ということだった。これは彼の『僚機を撃墜されたら負け』という自論から来るものであり、一撃離脱戦法の集団使用を確立していた彼は、“如何に多くの敵機を撃墜するか”ではなく、“如何に僚機を失わないか”ということに重点を絞っていた。

 「各機、攻撃開始!」

 ハルトマンの号令とともに、Me109戦闘機編隊はLaGG-3の編隊めがけて急降下を開始した。上空を得たMe109は高速でYak-9の背後に忍び寄ると、重厚な30mm機関砲による鋼鉄のシャワーを浴びせ掛けた。LaGG-3の木製の翼はいとも簡単に引き裂かれ、粉砕されて空中に飛散した。火を噴くLaGG-3は最早、Me109の敵ではなく、ハルトマンは部隊に撤退の合図を出した。

 その眼下には、Il-2『シュトゥルモヴィーク』戦闘爆撃機の姿があったが、Il-2は『空飛ぶ戦車』といわれる程に頑丈だ。相手とするならば、それ相応の犠牲を覚悟しなければならなかった。

 「『黒死病』はイギリス人に任せておけ。我々はヤクを叩くぞ」

 ハルトマンはそう言い、第2飛行隊をIl-2から遠ざけた。

 刹那、フランス空軍のD.520戦闘機が音もなく忍び寄ったかと思うと、Il-2めがけて火を噴いた。給弾システムに改修を加えたイスパノ・スイザ社製HS.404-20mm機関砲は、電動ノコギリでも掛けたかのような歯切れの悪い射撃音を轟かせ、Il-2に次々と銃弾を叩き付けた。しかし、Il-2は堕ちない。機体を引き裂かれようと、合板を引き剥がされようと墜ちる気配の無いIl-2だったが、1機のD.520が大胆な機動を描きながらIl-2の下方に張り付くと一転、Il-2は真っ赤な火を噴き、悲鳴にも似た音を上げながら堕ち始めたのである。

 『フランス人でしたね、『黒死病』を退治したのは』

 僚機パイロットの一人が無線越しにそう言うと、ハルトマンはフッと笑みを漏らした。

 「あのD.520のパイロットは一味違うのさ。奴だけが、Il-2の弱点を熟知していた」

 Il-2の弱点。それは機首下部に設置されたオイルクーラーである。Il-2は基本、その機体全体に重厚な装甲板を張り巡らせており、通常の機関銃でこれを撃ち抜くのは至難の業である。しかし、機首下部に設置されたオイルクーラーのみは露出した状態であり、これを撃ち抜くことでIl-2を仕留めることは容易なことだったのである。

 「フランス人にも骨のある奴がいるか……」

 ハルトマンは後ろを振り返り、D.520の機影を見張る。

 遠ざかるD.520を駆るパイロットがあのフランス空軍のエース、ピエール・クロステルマンだったことを彼が知るのは、それから数週間後のことであった。



 空中で決死の戦いが繰り広げられている中、市街地でも激戦は続いていた。

 一般的に市街地における戦車戦では、機動力の戦いとなる。その点、雪道や泥道でさえもろともしないソ連軍のT-34は、優秀な戦車といえた。小回りの利くT-34は歩兵の進撃路を切り開き、支援する存在としては申し分なかった。一方、EU軍はⅢ号戦車やⅣ号戦車、『マチルダⅡ』歩兵戦車や『チャーチル』歩兵戦車を投入し、これに対抗したが、T-34を相手としてはいずれも力不足であった。

 更に、ソ連軍は新型重戦車である『IS-2』を投入する。IS-2は重戦車ながらも機動力に富んだ戦車であり、また近距離戦闘となる市街地戦においては、命中精度の低さも補填出来ていた。

 それに対し、ドイツ軍は『ティーガーⅠ』や『ティーガーⅡ』重戦車を投入、IS重戦車に対抗するが、機動性に欠けるティーガーは、市街地戦闘ではソ連軍の敵ではなかった。このコルピノ市内でも、IS-2と撃ち合って大破、炎上する車体の姿は珍しくなかった。また、ソ連軍の常軌を逸した肉弾戦法により、キャタピラ部分を破壊され、擱座してそこを狙い撃ちにされるティーガーは後を絶たなかった。

 また、市街地戦は歩兵対歩兵の戦いとしても、その苛烈さを増していた。そもそも建物という遮蔽物の多い市街地戦では、1ブロックを制圧するにも平均数時間を要する。その間、歩兵は疲弊し、時間分だけ死んでゆく。負傷者を救いたくても身動きも取れず、出血多大で死ぬ歩兵は少なくなかった。

 そして、歩兵による市街地をさらにややこしくさせているのが――狙撃兵だった。戦場において、密かに隠れ忍び、兵士の命を遠距離から奪い取る。その行為の忌み嫌われること必至であり、捕虜になった狙撃兵の末路は、通常の歩兵よりも悲惨なものであった。これは、散弾銃を持った兵士や、火炎放射器を持った工兵についてもいえることである。

 

 そんな歴史上最も忌み嫌われるであろうフィンランド人狙撃兵――シモ・ヘイへは、この『コルピノ攻防戦』にその顔を見せていた。『冬戦争』で500名以上のソ連兵の命を奪ったという『白い死神』は、このコルピノでも多数のソ連兵の命を奪っていた。



 

 1944年3月21日、かくして勃発した『コルピノ攻防戦』は『レニングラード攻防戦』へと発展し、数ヶ月に渡る攻防戦が繰り広げられることとなる。

 

 



 

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