断章 第二次米墨戦争(前)
断章『第二次米墨戦争(前)』
1944年1月13日
アメリカ合衆国
首都ワシントンDCの中枢、大統領官邸ホワイトハウス。
この日、コーデル・ハル国務長官とヘンリー・モーゲンソー財務長官の両名は、大統領命令に従ってホワイトハウスに出頭していた。2人は、決して仲が良い訳ではない。敢えて言えば、犬猿の間柄だった。その原因は、国務省と財務省が共同で行っている『セーフヘイブン作戦』の為だった。
『セーフヘイブン作戦』とは、米国政府主導の外貨獲得政策である。中立国のスイスを通じ、米ドルをスイスフランに両替したり、EU(ヨーロッパ同盟)加盟国の通貨と両替したりするものだった。また、国内に眠る資産を掘り起したり、EU加盟国の米国内企業を監視・査察したりする役割も担っていた。
しかしそこで、齟齬が生じる。
国務省は海外、財務省の国内と、それぞれの管轄は定まっているが、時として2つの管轄が重なる場合があるのだ。そうした時、両者は限られた予算を巡り、権限を巡り、そして尊厳を巡って対立する。
それにアメリカは世界からつまはじきにされ、不況に陥っている。失業率は年々増加し、『チャーチル・チェンバレン・ショック』以前は14%程度だったものが、現在では23%まで膨れ上がっていた。世界恐慌時の失業率が25%だったことを考えると、これは由々しき事態であった。また、住宅保有率は40%から30%近くまで下降。GDP成長率は、-20%を記録していた。そして、ルーズベルト大統領の支持率は既に5割を切っている。
こうした点から米ドルの価値は暴落、外貨獲得はアメリカにとって急務となった。そうして実行に移された『セーフヘイブン作戦』は、アメリカが国際社会に生き残る上で欠かせない重要な政策だった訳である。
「失礼します」
大統領執務室『オーバルオフィス』に鈍いノックの音が響く。ハルが先頭に立ち、ドアノブを静かに回した。音を立てず、執務室の扉がすっと開いた。
ハルとモーゲンソーの2人が入室すると、そこには窶れたフランクリン・D・ルーズベルト大統領の姿があった。彼はゆっくりと顔を上げ、2人の姿を見やった。ルーズベルトは憔悴しきっていた。目は落ち窪み、頬もこけている。しばらく何か言いたそうにハルを見つめてから、静かに手招きをした。
「どうぞ。楽にしてくれたまえ……」
彼の表情の欠落した目が、ハルやモーゲンソーには恐ろしげに感じられた。1930年代、あの暗黒の時代から2人はルーズベルト大統領と寝食を共にしてきた間柄だが、これほど活力の感じられない大統領の姿を見たのは、これが初めてだった。
「大統領……お体の方は大丈夫ですか?」
ハルは椅子に腰を下ろし、上の空のルーズベルトに言った。
「……あ、ああ……少し……寝てないんだ」
疲れた顔を顰めてこちらを見る。「42時間程だ。この年だと、流石にきついよ」
「大統領! いくら多忙とはいえ、仮眠ぐらいは取ってください」
モーゲンソウは心配そうに言った。
「なぁに……私は平気さ。私には、やらねばならんことが多く残っている」
ルーズベルトはそう言い、デスクから2枚の封筒を取り出した。「これを見たまえ」
2人は互いに困惑した表情を見やりながら、その封筒の封をレターオープナーで慎重に切り取った。中から出てきたのは、数枚の書類。何かの性能諸元のようだったが、2人には理解に及ばないものだった。
「大統領、これは?」
「B-29。通称『スーパー・フォートレス』」ルーズベルトは不敵な笑みを漏らした。「B-17『フライング・フォートレス』に代わる、新型4発超重爆撃機だ。今朝、陸軍航空軍が制式採用した。最大航続距離9650km、最大爆弾搭載量は――9t。どうだ、凄いだろう?」ルーズベルトは満足げに顎をしゃくった。
2人は静かに頷いた。確かにB-29は凄い。これまでの主力爆撃機であるB-17でも、最大航続距離は5000kmをやや超える程度。爆弾搭載量に至っては半分以下だ。しかしこのB-29は、全ての面においてB-17を凌駕しており、さらに英国の『アブロ・ランカスター』にさえ勝る性能を有しているという。これは、これまで『孤立主義』を保ってきたアメリカとしては、まさに“攻撃的”な兵器だった。
「これならば、イギリスや太平洋島嶼も爆撃圏内に収められるではありませんか!」
「ギリギリ……だがな」
ハルの歓喜の声に対し、モーゲンソーは素気無く言い放った。
「大統領、まさか戦事の話をする為に私達を呼び出した訳ではありませんよね?」
ルーズベルトは頷くと、2人の顔を見やった。
「今朝……メキシコでカマチョ大統領が暗殺された」
ルーズベルトの言葉にハルとモーゲンソーは瞠目した。マヌエル・アビラ・カマチョ、元軍人にして第45代メキシコ合衆国大統領のこの男は今朝、首都メキシコシティの国立宮殿(中央政庁)で青年陸軍将校の放った凶弾に倒れた。この青年陸軍将校はその場で取り押さえられたが、カマチョ大統領は死亡。さらにメキシコシティ内でこの将校の仲間と思われるグループがクーデターを起こし、首都を制圧してしまったのだ。
「首都メキシコシティはクーデター派によって占拠され、我が国と面する国境地帯では、メキシコ軍の活発な活動が報告されている」ルーズベルトは言った。「私は、明日の午後にも議会を招集し、対墨宣戦布告を決議したいと思っている」
2人は瞠目した。
「米墨戦争の再来……」
「しかし、大義名分が無いのでは?」
モーゲンソーの問い掛けにルーズベルトは首を振った。
「ある。我が国に流入し続けているメキシコ移民だ。奴らの不作法さは、既に社会問題となっている。そして政情不安と安全保障を口実にすれば、容易く宣戦布告出来る筈だ」
「『棍棒外交』の復活って訳ですか……」
ハルは渋面を浮かべ、唸った。
「そんな野蛮なものではない。“自由”を勝ち取る戦いだ」
「メキシコ国民からですか?」
モーゲンソーは皮肉交じりに言った。
「……君らを呼んだのは、『セーフヘイブン作戦』を第2段階に進ませる為だ」
ルーズベルト大統領は不敵な笑みを浮かべて、2人を見据えた。
「『医療ニューディール政策』」ルーズベルトは言った。「即ち、国民皆保険制度の設立。『セーフヘイブン作戦の第2段階では、君らにこの皆保険制度を構築するための資金調達をお願いしたい。そう、今までのような、か細い国内経済を維持するための資金調達ではない」
『医療ニューディール政策』とは、ルーズベルト大統領が提唱した『ニューディール政策』の医療版だった。総合病院の増設と、小規模病院の統合化。それに伴う医療サービスの拡充と、『国民皆保険制度』の実現。それが政策の要であった。
「政策の軸として、まず10億ドルの準備予算を調達する。これを各州の医療体制構築に振り分け、国内の医療水準を大幅に増幅させる」
ルーズベルトはさらに続ける。「やがては、連邦議会に『国民皆保険制度』の法案を出すつもりだ。困難なのは分かっているが、それでもやるだけの価値はある。それは約束しよう」
ハルは頷いた。「しかし大統領、何故今さら?」
「今だからこそなんだ、ハル」ルーズベルトは言った。「国民は政府に失望している。低賃金の上、物価は高くなる一方、格差の件については言うまでもない。医療措置をろくに受けられず、病死者数は年々、増加の一途を辿っている。だからこそ、持たざる者を救済する時ではないだろうか?」
「しかし、それは自由主義に反します」
ハルは言った。
「そして選挙に備えた票稼ぎ……」
モーゲンソーは小声で呟いた。
「大統領、お言葉ですが、これ以上の財政赤字は承認し切れません。我が国は既に財政支出で10%の赤字を記録している」
「その赤字を吹き飛ばすための策もある」
ルーズベルトは腕を組みながら言った。「メキシコとカナダの併合。しかし今回のそれで終わらせるつもりはない。我々の最終的な目標は――アメリカ大陸の全土併合だ」
つまりルーズベルトは、南北アメリカ大陸を併合しようというのだ。
「欧州各国がEUを創るというのなら、こちらもアメリカ諸国で連合を創るまでだ」
「しかしカナダを敵に回すということは、EUを――」
ハルははっと表情を変えた。ルーズベルトの意図を理解したのだ。
「そう。この不況を打開するには、もはやソ連は力不足だ。スターリンも所詮は蛮人、あの日本に敗北を喫しているようではな」
1943年9月の『誅一号作戦』以降、満州戦線は一気に逆転した。関東軍はソ連沿海州に進出、港湾都市ウラジオストク・ナホトカを制圧後、『誅二号作戦』を開始する。この『誅二号作戦』でソ連極東軍総司令部のあるハバロフスクが大規模な空襲を受け、継戦能力を完全に喪失してしまうこととなった。ソ連極東軍は制空権を喪失。西からの増援も、EU空軍の戦略爆撃によってモスクワの工業地帯が壊滅したことにより、受けられなくなっていた。1943年11月には戦線が膠着したが、シベリア鉄道を破壊されたソ連極東軍は補給を受けられず、餓死・凍死者が続出している。
「今度は我々がEUに打って出る番だ。ソ連とEUが戦争で弱った所を、漁夫の利で相殺してやる」
1944年1月14日。米国連邦議会は対墨宣戦布告を決定する。
国務長官コーデル・ハルの演説から始まり、フランクリン・D・ルーズベルト大統領によるメキシコ暫定クーデター政府への非難と対墨宣戦布告の提案。そして、米国上下院による採決。そうした経緯の末、ルーズベルト大統領の対墨宣戦布告は米国議会に承認され、米国はメキシコに宣戦布告した。
1944年1月15日。
米国政府は米陸軍24個師団と米海兵隊2個師団の計89万名を国内から召集し、メキシコ国境地帯に配備した。これは鉄道・航空機・艦船・自動車がフル稼働しての結果であり、米国内では『電光石火の早業』と賞賛の声が次々と挙げられた。航空機2500機、戦車500両、火砲1000門を擁しての大軍勢であり、艦艇についても太平洋・大西洋艦隊から100隻以上が派遣されていた。
この大軍を率いるのが、ジョージ・C・マーシャル大将によって推薦されたドワイト・D・アイゼンハワー少将だった。彼は第二次米墨戦争の米軍総司令官に就任、それに伴い大将へと2階級昇進を遂げた。また、彼の旧友であるジョージ・S・パットンが中将に昇進、西部方面軍司令官に任命された。
かくして、『第二次米墨戦争』は開戦した。
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