第84話 オホーツク海海戦(中)
第84話『オホーツク海海戦(中)』
1943年9月6日
大日本帝国/オホーツク海
“海境を抜けると、そこは――霧海であった”
戦艦『大和』参謀長室。川端康成著、『雪国』を読み耽っていた伊藤整一中将はふと、その言葉を口に漏らした。雪国の有名な一節、“国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった”をもじっているのは言うまでもない。
この時、彼と彼を乗せる戦艦『大和』は雪国のなかの雪国、北海道と樺太の間を隔てる宗谷海峡を通過していた。戦艦『大和』を中核とし、戦艦『長門』『陸奥』『伊勢』『日向』『扶桑』が単縦陣を形成して航行していた。その第一艦隊の戦艦群の後方には、『金剛』型戦艦4隻に護衛された第一航空艦隊が列を連ねてその後を続く。そして、さらに後方をイギリス東洋艦隊が続いた。このEU(ヨーロッパ同盟)艦隊の目的地は、樺太東岸海域である。そこにソ連太平洋艦隊が展開しているのだ。
「伊藤参謀長、宜しいですかな?」
と、そう言いながら唐突に参謀長室に入って来たのは、連合艦隊首席参謀の黒島亀人少将だ。この時期としては妥当ともいえるやや薄めの白色の制服に身を包んでいるが、オホーツク海の体感温度は容赦がなく、彼は小刻みに震えていた。伊藤もまたそうだった。
「ああ、構わんが」
伊藤は読みかけの本を置き、答えた。黒島は会釈してから椅子に腰を下ろした。
「ついにオホーツク海ですな。それにしても内地と違って肌寒い」樺太の蒼茫たる海原を窓から望んでいた黒島はにこやかに微笑んで、伊藤を見やった。
「そうだな」
「伊藤参謀長、勝負の行く末は如何でしょうかな?」黒島は呟き、再度、窓を見張った。「この霧では、そう易々と勝負を着けられる訳ではないでしょうし……」
伊藤は頷いた。「この戦場は攻めるに難く、逃げるに易い。命脈を握るのは、敵艦に砲弾を当てさせる“運”と万物を見透かす“眼”であろう」
「ああ……確かに」黒島は呻いた。「しかしこちらには、この『大和』を始め『長門』『陸奥』といった連合艦隊の伝家の宝刀が揃っておるではありませんか。敵の戦艦はたかだか3隻と『航空戦艦』とかいう得体の知れないものが1隻、勝負は目に見えている」
「果たして、それはどうかな……」伊藤は苦虫を噛み潰したような顔で言い、円卓に置かれた図上演習盤の戦艦駒を顎で示した。「ソ連とアメリカは結託している。もし、その信頼の程が予想以上に高く、アメリカが至宝たる電探を提供していたら……勝負は分からない」
「それはつまり……」
「ああ、それは“敗北”を意味する」
伊藤は腕を組み、黒島の困惑した顔を一瞥した。「今回の海戦、我々は勝利するだろう。それは確実だ。しかし、そのために甚大な損害を被ったとなれば、今後の戦略にも大きく影響してくる。少なくとも、吉田長官の仰っておられる“日本海海戦の再現”は無いだろう」
黒島は訳知り顔で頷いた。「もし、本当に露助がアメ公の電探を持っているとしたら、事ですぞ。かの『第三次ソロモン海戦』の例もありますし……」
第三次ソロモン沖海戦は、1942年9月に勃発した日米間の海戦であり、ガダルカナル島を巡る戦いを米側優勢に至らしめた海戦だった。この時、米海軍は戦艦『ワシントン』と『サウスダコタ』はレーダーと連動した40cm主砲によって海戦のイニシアチブを取り、帝国海軍の金剛型戦艦『比叡』『霧島』を喪失してしまう。この海戦後、大日本帝国軍は制空権のみならず制海権までをも失うこととなり、ガダルカナル島の戦いはここに趨勢を喫した。
「上も下も、米海軍の電探の精度を恐れておりますからな」黒島は言った。「これが現実のものとならば、この戦局さえ左右しかねんでしょう。対抗策を編み出しておくべきでは?」
ソ連海軍には、少なくとも帝国海軍よりも優れた見張り員はいないだろう。もしも、ここで伊藤が言うように何らかの策を講じ、ソ連海軍のレーダーを無効化することが出来れば、相手は盲目になったも同然となり、この海戦は“日本海海戦の再現”として、日本側の完全勝利で飾ることができる。しかし、そんな都合が良い策がそう易々と生まれないのが現実だった。
「それなら既に手は打ってある」
「なんと! それは本当ですか?」
衝撃のあまり黒島は席を立ち上がろうとしたが、伊藤は片手を上げてそれを抑えた。
「ああ。実は数日前、艦政本部から連絡があってな。開発中だった“電探欺瞞弾”が完成したというものだ」伊藤は言った。「そしてその砲弾は、『陸奥』に積み込まれている。これを敵艦隊に撃ち込めば、電探は使い物にならんだろうよ」
“電探欺瞞弾”――は戦艦・巡洋艦用に開発された対空砲弾『三式弾』を基に、996個の榴散弾子の代わりに対水上レーダー妨害仕様の電探欺瞞紙『チャフ』――電波の波長に合わせ、大きさを調整したアルミ箔――を詰め込んだ砲弾である。砲弾は時限信管に従い爆散、凝縮されたチャフが敵艦隊直上に散布され、高密度の電波妨害範囲域を構築する。これによって敵艦の搭載する水上レーダーを無効化し、使い物にならなくするのがねらいであった。
「空技廠の研究では、航空機から艦艇に向けて多数の電探欺瞞紙を散布しても、上手く行かなかったという報告があったが、この砲弾ではある程度の効果が実証されている。試す価値はあるだろう」
史実でも、チャフによる対艦艇への電子欺瞞実験はあった。これは英海軍が巡洋艦を敵と想定して行った実験で、航空機から多数のチャフをばら撒いてレーダー欺瞞を行うというものだった。しかし実験では、低空でばら撒かられたチャフは空中で上手く拡散する前に海面に落ちてしまった。ならば十分に拡散する高度でと散布したのだが、今度はチャフが風によって分散してしまい、巡洋艦を覆うような電波欺瞞範囲を形成することができず、失敗する。また、他にも多くの技術的問題が露呈したことから、チャフによる対水上目標の欺瞞は、事実上不可能としてお蔵入りしてしまうのだった。
しかしそこに目を付けたのが、帝国海軍である。航空機からの散布が上手く行かないのならと、砲弾にチャフを詰め込んだ“チャフ砲弾”を開発・製造したのだ。これは史実、米海軍の優秀なレーダーを妨害するとして大きな期待が寄せられ、実際に試作品の完成まで漕ぎ着けたのだが、実戦投入されずに終戦を迎えてしまう。
「だが、一つ問題がある。電探欺瞞弾は風の影響を受け易い。敵艦隊の直上に持続して広範囲散布させるには、主砲1基ないし2基をその欺瞞弾の砲撃のみに優先させねばならんのだ。つまり――」
「つまり、通常弾が撃てない――と?」
黒島の考えに伊藤は頷いた。「戦艦にとって、主砲の半数以上を使用出来ないというのは、戦力の大幅な低下に繋がる。だから『大和』への配備は中断し、『陸奥』に載せたのだ」
黒島は頷いた。「水偵や艦載機に搭載しての散布は、本当に実現不可能なのでしょうか?」
「それは無理な話だよ。独英の科学者達を呼んで、最善の散布条件を算出してもらってはいるが、この海戦に間に合わないことは間違いないだろう」
とはいえ、戦艦『陸奥』の戦力を半減させることは本懐ではなかった。帝国海軍では41cm砲を搭載した有数の大火力の持ち主だからだ。これは陸奥に言えたことだけではなく、この“電探欺瞞作戦”のために数隻の巡洋艦もその戦力を半減させられている。いくら相手が戦艦3隻、航空戦艦4隻の小火力とはいえ、やはり不安だった訳である。
「とはいえ、他に策は無い。やるだけやってみよう」
伊藤はそう言いつつ、窓の外の冷たく蒼い水平線から浮かび上がってきた樺太の影を見つめた。周囲の茫洋には、次第に濃霧が立ち込めつつある。戦いの時は迫っていたのだ。
霧は晴れない。一昨日に東京気象台が割り出した予想によると、今日は1日をかけてこの樺太東部海域に濃霧が広がり続けるとのことだった。乳白色の世界では、樺太の灰色の大地はもちろん、僚艦の艦影までもがぼやけて見えなくなる。風は少しおさまったとはいえ、これでは同志撃ちの危険性が高過ぎた。また、艦隊は無線封鎖状態にあるため、各艦艇は外界から隔離されたようなものだ。艦内では、事実はなにも伝わらず、噂だけが飛び交っていた。
「電探員、敵は見つかったか?」
戦艦『大和』艦橋。連合艦隊司令部の設営されたこの場所では、連合艦隊司令長官の吉田善吾大将が苛立ちを隠せない様子だった。今朝、北樺太から総勢5万名を超える大軍が侵攻し、南樺太の防衛陣を攻撃したのである。これに呼応した形でソ連海軍太平洋艦隊も対地攻撃を実施、精度は低いが危機的状況にあるのは変わりなかった。
『いえ、未だ反応ありません』
「馬鹿な、あの大艦隊が隠れていられるものか。いずれ索敵の網に引っ掛――」
『電探に感あり! 北東に大艦隊ッ!?』
電探員の悲鳴にも似た声が伝声管越しに響き、艦橋はざわめき始めた。時刻は1400。真昼に燦々と輝いている筈の太陽は、白濁した濃霧によって包まれ、陽光は遮断されている状態だった。しかし、夜間でも3万メートル先の艦影を見つけられる程の視力を持つという帝国海軍の見張り員は、電探の情報を頼りにソ連太平洋艦隊の艦影を次々と暴き出した。
「吉田長官、敵はやはり航空戦艦を伴った大艦隊のようです。水偵からも報告がありました」伊藤は言った。「敵は、航空戦艦1、戦艦3、空母4、巡洋艦3、駆逐艦25隻を伴っております。北東200キロ、南樺太に向けて砲撃を加えているとのことです」
吉田は帽の鍔を僅かにずらし、一文字に結ばれていた口を開いた。
「Z旗掲げ」吉田は笑みを漏らした。「景気付けだ。ドンパチの前に水兵達の士気が高まっておれば、それだけ勝利に繋がるからな」
吉田がこの海戦に並々ならぬ想いを抱いているのではないか、と伊藤は思った。何といっても、戦艦と戦艦がしのぎを削る砲戦は“浪漫”である。しかし、敗戦後の1946年から1937年の日本へと舞い戻ってきた伊藤ら『大和会』の存在により、大艦巨砲主義は廃退しつつある。その状況を鑑みれば、この海戦は大艦巨砲主義が通用する最後の戦いであり、次なる時代へと移行する神聖な戦いでもあった。その当事者であり、主役でもある吉田が想いを馳せるのは、何ら不思議なことではないのだ。当の伊藤でさえ、そうだったのだから。
ラッパ手の奏でる荘厳で勇ましい咆哮が大気を揺るがし、戦艦『大和』墻楼をZ旗が駆け上ったのは、時に1410のことだった。ラッパ手の『総員配置に付け』という号令音が奏でられる中、甲板や対空火砲、墻楼に取り付いていた『大和』の乗員達は、その光景に目を奪われるばかりだった。中には感極まって、号泣する者も居た。
無論、連合艦隊司令部の面々も同様である。胸にこみ上がる感動と興奮の波を抑えまいと注意深く感情を抑え、思案顔を繕った。誰もがそうだったのだが、ただ一人、吉田だけはにんまりと満面の笑みを浮かべ、歓喜に舞い上がっていた。指導者のみが味わうことの許される“特権”を、吉田は余すことなく使った訳である。
戦艦『大和』艦橋で連合艦隊司令長官吉田善吾大将が笑みを漏らしていた頃、戦艦『ソビエツキー・ソユーズ』艦橋では、ソ連太平洋艦隊司令長官のイワン・S・ユマシェフ大将も、やはり艦橋前方に広がる乳白色の霧海を睨みながら、戦闘旗掲揚の号令を耳にして笑みを漏らしていた。しかしその笑みには、吉田と比べると違う。胸の内に隠れた“思惑”――それが上手く行っているから笑っているのだ。圧倒的な戦力差に内心怯えているなど、微塵も感じられないように……。
「閣下、敵艦隊の位置を掴みました。既にこちらの位置を掴まれている以上、敵に先手を取られる前に――」
「そうか」
ユマシェフは不敵な笑みを浮かべて行った。「それは……良い」
「しかし――」
「いや、良いのだ。こちらにとっては、そうでもないが」
奸計か、はたまた妙計か。参謀長のラーザリ・A・マレンコフ少将はユマシェフに対し、ただただ困惑していた。鉄道員を親に持ち、参謀将校としてロシア内戦や党内抗争に明け暮れてきたユマシェフは、智謀に長けた男だった。だからこそ、こんな辺境の地へと追いやられる形となってしまったのだが、当の本人はソ連中枢部での『粛清の嵐』に巻き込まれずに済むとして、現状に満足していた。そしてやる時はやる。それがユマシェフのモットーであった。しかしそんな男が、何故かは分からないが霧に隠れた自分の艦隊の存在を故意に帝国海軍にリークさせているのだ。何か勝算があるにせよ、一歩間違えれば壊滅は免れない。いわば、艦隊1個を差し出しての壮大な“賭け”である。
「閣――」
ユマシェフは片手を上げ、マレンコフを制した。
「正直な所、ジューコフ上級大将の案には同意し兼ねたんだがね。しかしこの自由主義の毒に犯されてしまったこの艦隊では、精神的にも肉体的にも精強な帝国海軍を相手に出来ないと判断したんだよ。だから、同志スターリンには悪いが――ああ、君達にも悪いが――この艦隊はこの海で終わる」
マレンコフは瞠目した。「閣下! それは……」
「事実上の敗北宣言だよ。マレンコフ参謀長」
「しかし、それは人民の財産を――」
「参謀長、少しでいいから時間をくれないか」ユマシェフは言い、艦橋に並ぶ幕僚達を見据えた。「諸君。君達は太平洋艦隊司令長官の私にとっては、最高の部下だ。しかし太平洋艦隊司令部の政治士官にとっては、最低の裏切り者だろう。そしてそんな君達を率いる私は、政治士官に言わせれば最低最悪の穀潰しなのだろう。それでも……それでも付いてきてくれると言うのなら、ぜひここに立って見てもらいたい。後悔の暇も与えん程、敵を惨たらしく殲滅してくれよう」
その口調は自信と威厳に満ち溢れている様で、怯えてもいた。まるで死刑執行前に何度も何度も殺さないでくれと言いながらもそれを受け入れてもらえず、開き直った囚人のような口調だった。そして大抵、その後に出てくるのは、絶望にうち震えた最期の言葉である。
「同志スターリンに栄光あれ!」
1943年9月6日、ここに『オホーツク海海戦』は開戦した。
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