第8話 盧溝橋事件
第8話『盧溝橋事件』
【時は8日を告げた。私は不安と歯痒さを噛み締め、ただ淡々と夜を過ごした。この時、既に運命は動き出していた。ゆっくりと。しかし、確実に――帝国は別の道を歩み出していた】
(伊藤整一口述回顧録-第2部第1章『盧溝橋事件』より抜粋)
1937年7月8日
刻は12を過ぎ、7月7日が終わりを告げ、明日が顔を見せる頃、伊藤は寝付けなかった。伊藤はベッドに腰掛けて、物想いに耽る。そして呉で『大和会』の面々によって用意され、渡された“ある事件”の概要報告書の束に目を通した。事の発端は7日の夕刻で、当時の新聞記事や陸軍筋の人間による事後報告を書き記したものばかりだった。
大日本帝国陸軍支那駐屯軍、歩兵第一連隊第三大隊第八中隊はその日の夕刻、夜間演習の為、豊台にあった兵営を出発、135名から成る兵は清水節郎大尉に率いられていた。今回のこの演習は、近付く戦闘演習定期検閲に備える為だった。出発時、清水大尉は第三大隊を指揮する一木清直少佐に一礼し、兵の士気が上がっていると意気揚々に告げた。しかし実際の所、その言葉は現実とは似ても似つかぬほどに大きく食い違っていると、伊藤は推測した。当日、豊台を始め周辺地域は気温40度以上、夜半にかけても30度は軽く上回っていた。その事や、演習時の兵装の総重量を考えれば、灼熱の砂漠を砂袋を何個も持って延々と進むのと同じぐらいに思える程、過酷な状況にあったと考えるのが妥当だろう。第八中隊の士気は大分落ちていた。
午後7時30分、永定河に架かる石造りのアーチ橋――マルコ・ポーロの賞賛を受けた事から西欧では『マルコ・ポーロの橋』とも呼ばれた――盧溝橋で演習は開始された。闇の中、滞りなく進むかに思われたこの演習だが、事態は急変する。午後10時40分、何者かによる発砲が、清水大尉率いる第八中隊に対し行われた。清水は演習を中断、隊員を集合させて人員検査を行い、被害を確認した所、一人の兵士が行方不明である事が分かった。その間、清水は臨戦態勢を取らせつつ、豊台の第三大隊長一木と連絡を取り、実弾発砲を報告した。無論、兵士一名の行方不明も。
豊台の第三大隊長、一木清直少佐はこれに激怒した。一木は後、精鋭第七師団の歩兵第二十八連隊を基幹とした尖兵集団、『一木支隊』とともにガダルカナル島ヘンダーソン飛行場奪回に尽力するも、死を迎える。一木は当初覚えた憤りを一旦置き、兵の行方不明を重視した。後に『インパール作戦』――悲劇の作戦――を指揮する牟田口廉也第一連隊長に反撃の意志を伝え、大隊の急行を命じられる。その後、第三大隊は現地に到着、清水率いる第三中隊は無事合流した。
ところが午前3時半頃、待機する大隊に対し、龍王廟方向から3発の銃声が響き渡った。これを聞いた牟田口大佐は午前4時20分、攻撃許可を出した。
その直後、一木は中国第二十九軍顧問をしていた桜井徳太郎少佐と出会った。桜井は第二十九軍副長の秦徳純と会い、この件について問い質した所、「第二十九軍は絶対に兵を県城外に配置していない。きっと匪賊の仕業だろう」と弁明したという。龍王廟から発砲はあったと確信する一木は、これを責任逃れの発言と受け止め、ますます憤りを募らせた。そして、攻撃を続行した。
……というのが、本来の歴史にあるが、既に歴史は別の兆しを迎えつつあった。桜井少佐とともに、ある一人の男が一木の説得に現れた。
それは――今村均である。
7月6日午前、今村均少将は親友山本五十六中将から届いた電報に書かれた事を驚嘆の目で見張った。その内容は9年後からやってきた人間、戦艦『大和』等々。奇々怪々な内容に埋め尽くされた報告は、笑うしかなかった。やがてその直後、米内海軍大臣によってお膳立てされた直接面談を受けた所で、彼は『盧溝橋事件』の勃発を知る人間の一人となった。
7月6日の事、山本と同行者の男――伊藤は現れた。
その朝、山本と伊藤は米内によって手配された九六式陸上攻撃機に乗り、機は満州へと向かった。様々な手続きを済ませ、面談に現れた山本とその9年後からやってきた人間――伊藤を見た今村は目を丸くし、親友の訪問を歓迎するとともに、疑心暗鬼の目で見据えた。
「しかし、酒に酔って冗談交じりの電報でも送ってきたかと思ったが……」
今村は唖然として言った。「真実なのか?」
山本は静かに頷き、伊藤は証拠を見せた。その後、盧溝橋事件の概要を綴った報告書、日独伊三国同盟の締結、太平洋戦争、泥沼化する中国戦線、ドイツ降伏、そして――原爆投下による日本無条件降伏までの流れを説明した。この時、今村の口は開きっぱなしだった。
「明日、全てが始まる」
山本は言った。「俺も、最初はこの戦争、こっち側の一撃で終われるやもと思ってみたが、やはり無理難題なようでな。講和や何や、一悶着の後じゃ、何をしても禍根が憑いて残っちまう」
「なら、最初からやるな……と?」
「そうだ」山本は頷いた。「何にせよ、戦争は無いに越した事はない」
戦時中、インドネシア等地域での占領政策の多くが賞賛される今村均だが、同時に『対支一撃論』に傾倒しており、中国における戦争を欲していた。山本が言う、蒋介石の国民政府が折れずして敗戦迎える大日本帝国の末路を知った今村は心変えをし、7月7日の夕刻になって、今回の事件の収拾に努める事を心に決めた。
当時、関東軍副参謀長の座に着いていた今村は、桜井とともに一木の前に姿を現した。それまでに、今村は牟田口に連絡を取り、一木からの攻撃要請を受け付けず、待機させる様にと釘を刺しておいた。残念ながら、今村が完全に心変わりしたのは盧溝橋の一件が報告された後なので、盧溝橋の事件自体を白紙とする事は出来なかった。その点で、自身の決断力の無さは否めないと、今村は痛感した。また、佐官時代からの親友たる山本の事を信じる事が出来なかった点についても、自身を言及し続けた。とはいえ、それと同時に、今回の事件が帝国海軍による陰謀ではないかという考えは無くも無かった。
「閣下、貴方も何か御用ですか?」早く終わらせたくて苛々しながら、一木は訊いた。
今村は幾つか考えていた事があったが、一つに絞られていた。少なくとも、「支那人を皆殺しにしろ」や「貴様の忠誠は何処にあるか」という言葉でないのは確かだった。
ただ簡単に「退け」と言った。更に「攻撃許可は出されていない」と付け加えた。
「あの闇の先に奇襲攻撃を仕掛けた卑怯者が居るのですよ!」眼前に立つ今村の顔を睨み付け、漆黒に包まれた先を指差した。「報復を与えるのは、当然の権利にあります!」
まぁ待て、と今村は言った。それからしばらく話し合い、何とか一木をなだめかした。問題は、血の気の多い一木がこのまま待ち続けるかどうかである。何にせよ、指揮下にある第三大隊自体も攻撃を受けている以上、報復を行うのは当然だと一木は主張し続けるだろう。そんな相手にどう説得するのか。闇に潜む正体不明の敵と、復讐を目論む兵達に両挟みされたこの状態。厄介な役を押し付けられたなと、今村は嘆いた。
その後、厳正なる調査と審議の末、攻撃した者が判定し、死を持って償わせる場合となった暁には、第三大隊にて正義の剣――三八式歩兵銃――で制裁を加える許可を何とか取ってやろうと言い、今村は何とか一木を説得する事に成功した。そして、一木率いる第三大隊と、清水率いる第八中隊を撤退させ、事態を収拾させた。
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