第75話 運命の女神は血の涙を流す(前)
第75話『運命の女神は血の涙を流す(前)』
1943年7月30日
フィンランド/カレリア地峡
史実、1944年の夏、ここフィンランドはカレリア地峡では、膨大な流血を伴う凄惨な戦いが繰り広げられていた。俗に言う――『流血の夏』である。同盟軍であるドイツ軍戦力を含めたフィンランド軍70万の全戦力に対し、ソ連軍は150万という2倍以上の戦力を以て侵攻を掛けてきた。『冬戦争』と違い、『独ソ戦』で練度・戦力ともに拡充されたソ連軍は圧倒的なスピードでフィンランド各地を占領、一次は降伏寸前にまで追い込まれてしまう。しかし、彼らは断固たる民族団結の意識と地の理を最大に活かすことによって2倍に相当するソ連軍に反撃した。最終決戦ともいえる『タリ=イハンタラの戦い』では3倍の戦力を有するソ連軍に勝利、ソ連軍側に25000名の死傷者を出させ、戦車・自走砲300輌、航空機280機を喪失させた。しかし、そこにはフィンランド軍側も膨大な流血を伴っており、6月から7月にかけて行われたこの戦いはまさに『流血の夏』を物語る戦闘だった。
こうした一連の戦闘の後、9月2日に結ばれたのが『ソ芬暫定協定』――だった。両国は停戦し、フィンランドでの戦闘は事実上停止した。ソ連はフィンランドに対独断交と駐留ドイツ軍の国外退去を要求しつつ、更なる多大な要求の承諾を望んでいた。6億ドル相当という多額の賠償金、国境線を冬戦争後のものに戻すこと、領土の一部割譲、租借――などである。仮にも小国で、仮にも自国側に優勢な戦況を形作っていたフィンランドとしては、これらはあまりにも重過ぎる負担だった。その後、イギリス政府の介入で賠償金を3億ドルに減額することにはしぶしぶながらも同意したが、領土の割譲、租借については一歩も譲らない構えを見せている。ソ連という国は、金には替えられない土地に重きを置いていたのだ。
カレリア地峡上空。政府高官用にと旅客機型に改装されたPe-8戦略爆撃機の機内で、ソ連最高指導者ヨシフ・スターリン1番の側近でもあるヴャチェスロフ・M・モロトフ外務大臣は憤慨していた。搭乗前に渡されたEU側からの講和条件があまりにもソ連側に不利なものだったからだ。
まず賠償金として、フィンランドには20億ドル。ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・大日本帝国・スペイン・オランダ・ルーマニア・スウェーデンには10億ドル。ギリシャ・ベルギー・ユーゴスラビア王国・チェコスロバキアには6億ドル。その他、EUの戦争遂行に協力したヨーロッパ及び大日本帝国の各植民地国にそれぞれ1億ドルの支払いが要求された。その総賠償金は主要戦争参加国だけでも134億ドル――現在の日本円に換算すると約49兆円に相当する。
第一次世界大戦の『ヴェルサイユ講和条約』でドイツが支払った金額が40~80兆円に達すると言われているから、これはかなりきつい賠償金であることは間違いなかった。またフィンランドに支払われる20億ドルといえば、当時アメリカが原爆開発にあたって投じた予算とほぼ同じ額だった。そのアメリカにしても、この原爆開発に掛かった費用が国家予算の20%に匹敵(日本の国家予算の3倍)していたというから、ソ連は主要戦争参加国のみに限定しても、アメリカの国家予算に約34億ドル分のオマケを付けたという賠償金を支払わなければならない訳である。一方でソ連の国家予算はその半分近くで、しかも既に『冬戦争』に伴う多大な戦費を強いられていた。金欠とはいわないが、むやみに金を使いたくなかったのだ。
「同志スターリンは怒り狂って、我々を粛清するだろう」
モロトフは唸り、Pe-8の機内に座る搭乗員達の顔を見た。彼らはスターリンの代理を務めるソ連の代表団で、『ヘルシンキ講和条約』に向け、Pe-8で西進中だった。代表団は外相モロトフを筆頭に、前国防人民委員(国防大臣)のクリメント・E・ヴォロシーロフソ連邦元帥、前外務人民委員(外務大臣)のマクシム・M・リトヴィノフ外務人民委員代理(外務次官)、マクシム・Z・サブーロフ人民委員会議副議長(副首相)というソ連共産党内の層々たるメンバーが揃っていた。
「その賠償金を全額支払うことは無理なのか?」
ヴォロシーロフは顎を擦り、言った。
「無理ではないでしょう。我が国の国庫を見くびってもらっては困りますな」リトヴィノフは言った。「しかし仮に、戦争遂行に協力したというEUの植民地国に賠償金を支払うのを相手側に譲歩させ、取り止めさせたとしても、134億ドルの賠償金は多大です。その額は我が国の前年度国家予算の2.5倍に相当します」
「奴らはEU軍という一つの軍隊として戦ってきたんだろ? 何故、我々が負けてもいないのにそんな多額の賠償金を払わねばならんのだ!?」
サブーロフは喚くように言った。
「たとえ一つの軍隊だとしても、EUは複数の国家で形成される共同体だ。その働き具合に差があるにせよ、国際上、戦争に参加して有利な勝利を掴んだとすれば、奴らの思うがままなのさ」
モロトフはそう言い、琥珀色に輝くウイスキーの注がれたグラスに手を伸ばす。
「そのまま呑むことは許されませんが、ここで賠償金を捻り出す財源ぐらいは考えておくべきでしょう」リトヴィノフは眼鏡をクイと押し上げた。「私が思いますに、最初にEUへ支払うべきは『ソビエツキー・ソユーズ』級戦艦かと」
ソ連海軍の最新鋭弩級戦艦『ソビエツキー・ソユーズ』は、同級艦3隻だけでも1940年度ソ連国家予算の3分の1を占める建造費が掛かっているという。『冬戦争』では就役に向け、建造が進められたが結局間に合わず、宝の持ち腐れとなってしまった。リトヴィノフはこのソビエツキー・ソユーズ級4隻を賠償艦として差し出し、賠償金の足しにしようというのだ。
「幸い、先の『レニングラード空襲』でもこの艦は無事でした」リトヴィノフは言った。「海軍力増強に力を注いでいるドイツ、イタリア、日本あたりに賠償艦として差し出せば、それぞれ3億~5億ドル分は賠償金代わりに譲歩してくれるやもしれません」
「クズネツォフが発狂しそうな案だな」
ヴォロシーロフは言った。
「駄目ですか?」
「いや。奴の悔しがるザマを見るのは、いくら見ても飽きない」
そう言うと、ヴォロシーロフは不敵な笑みを漏らした。彼は先の『冬戦争』で屈辱的な敗北を喫しながら、自分のように更迭されなかったニコライ・クズネツォフソ連邦海軍元帥の処遇に不満を抱いていたのだ。ヴォロシーロフは底意地が悪くなっていた。
「そのように国中の資産から絞れば、134億ドルはすぐに集まるでしょう」リトヴィノフは言った。「後の問題は、我々が更なる譲歩を拒み、同時にこの要求の一部を撤回させることにあります」
サブーロフは頷いた。「同志スターリンがもっとも重要視しているのは、“バルト三国”の独立だ。このEUの要求を呑むことは、同志スターリンに反旗を翻すに等しいことだ」
EU側第2の講和条件は、ソ連が併合したバルト三国――エストニア・ラトビア・リトアニアを独立させ、冬戦争以前の状態に戻すことだった。この3つの国は史実とは異なり、冬戦争の開始に伴って併合された。これはEUの『東進政策』への対処策であり、国土の拡大を重要視するスターリンとしても手放せない領土の一つであった。
「さらに『冬戦争』でEU軍が占領した我が国の領土全てをフィンランドに割譲。そして、その中に含まれるシベリア鉄道もEU側に差し出さねばなりません」リトヴィノフは言った。
要約すると、EU側が望む講和条件は――
①:EU主要戦争参加国への合計134億ドルの賠償金支払い。
②:バルト三国の独立。
③:EUが戦争で獲得したソ連領土、及び資産の割譲。
――に絞られる。これはスターリンの自尊心を傷付けるに十分な要求であり、ソ連の財政状況を考慮しても呑むに呑めない要求だった。
一方、ソ連側が望む講和条件は――
①:要求される賠償金の合計半額67億ドルの支払い。
②:EUが戦争で獲得したソ連領土、及び資産の割譲。
――だった。賠償金もさることながら、ソ連としてはバルト三国の独立は絶対に許されざる条件だった。それは、たとえ賠償金134億ドルを全額払うことを容認したとしても――である。
「同志モロトフ!」
血相を変えてPe-8のVIPルームに飛び込んできたのは、同機に搭乗する観測員だった。
「貴様、操縦はどうした!」
「大変です、同志モロトフ! ドイツの戦闘機が……」
モロトフは渋面を浮かべた。「ドイツの戦闘機がどうした?」
「それが……ドイツの戦闘機が接近しています――それも大編隊が!!」
観測員の言葉に、一同は瞠目した。7月20日には停戦協定が結ばれ、戦闘は停止している筈だからだ。
「確かか?」モロトフは訊いた。
「はい……確かです」
その答えに対し、モロトフは唸った。
「先導機じゃないのか? ヘルシンキへの」
サブーロフは言った。
「その可能性もあるが、一概にもそうとは言えん」モロトフは言った。「おい、ドイツの戦闘機は振りきれんのか?」
観測員はかぶりを振った。「それは無理です。これは4発爆撃機ですから」
「なら、無線を用意しろ。連絡を取って事実確認をするんだ」
「はッ!」
そう言い、観測員が駆け出した時だった。突如、天を衝くような爆音が轟き、凄まじい爆風がVIPルームと機内各部屋を繋ぐ扉を吹き飛ばしながら入り込んできた。ヴォロシーロフが木の葉のように宙を舞い、後頭部を思いっきり壁にぶつけて沈黙する。サブーロフは床に座り込んで赤ん坊のように丸くなり、リトヴィノフは懸命になって座椅子にしがみ付いていた。
「くそッ! なんなんだ一体!?」
モロトフは毒づき、必死になって地面に踏ん張りながら、窓の外を覗いた。黒光りする鉤十字が眼前を覆い尽くし、Me109の美麗なフォルムがフィンランドの空を舞っていた。
次の瞬間、MGFF20mm2門が咆哮し、閃光が機窓に走った。バリバリバリと画用紙を引き裂くような轟音が響き渡ったかと思うと、Pe-8の重厚な右翼が粉砕されてしまった。鋼鉄の翼は紅蓮の火炎に包まれると、機内はいよいよ轟音と悲鳴によって支配された。誰もが青ざめた表情を浮かべ、喉が潰れんばかりに奇声じみた悲鳴を発する。コクピットとの連絡は途切れ、パイロットが生存しているかどうかも分からない。だからこそ、さらに不安になる。ぐにゃりとへし曲り、松明のように燃え盛る右翼を見ていると、自分達が生き残る確率などもはや無いように思えてしまうのだ。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああ――!?!?」
ついにモロトフも正気でいられなくなった。機窓から後ずさり、天井を向いて泣き叫ぶ。
そしてついに右翼が大爆発し、モロトフの意識は――潰えた。
『――こちら第5航空艦隊司令部、未確認機の特徴知らせ』
無線越しに響く声を聞き、Me109のパイロットは静かに頷いた。
「未確認機の機種は4発重爆撃機。おそらくソ連のPe-8かと思われる。何か報告は?」
第5航空艦隊司令部のオペレーターは沈黙し、やがて返答がきた。
『――ドイツ空軍総司令部に問い合わせてみた。どうやら、ソ連空軍が要人旅客機に見せ掛けた同機に大量の爆弾を積み、ヘルシンキに集まるEU首脳陣を抹殺しようと目論んでいるようだ』オペレーターは言った。『先程、ドイツ空軍総司令部は撃墜命令を出した。すみやかに未確認機を追尾、撃墜せよ』
淡々と話す第5航空艦隊司令部のオペレーターに疑念を抱きつつも、Me109のパイロットは頷いた。「了解。これより未確認機を撃墜する」
1943年7月30日。フィンランドはカレリア地峡西部において、墜落した一機のPe-8政府高官用改造型旅客機がフィンランド軍によって発見された。残骸の調査により、多数の銃撃を受けたことが発覚。EUはこの事実を隠ぺいすることなく、ソ連側に通告した。
1943年7月30日
ソビエト社会主義共和国連邦/モスクワ
『――ヨシフ・スターリン書記長』
「……アドルフ・ヒトラー総統」
カザコフ館。ソ連の最高指導者、ソ連共産党中央委員会書記長のヨシフ・スターリンは、鋼鉄のように硬い顔を真っ赤に歪め、電話の受話器を力一杯握り締めながら言った。腹の底から引き絞ったかのような、憎悪に満ちた声だった。
「よくも抜け抜けと話していられるな、貴様」
スターリンがそこまで憤りを覚えるのは、何もソ連という国の体裁だけではない。誰も、何も信じられない彼の世界の中で唯一、信頼に値する存在。それが傍が居るから生きて行ける希望。それがソ連外務人民委員(外務大臣)、ヴャチェスロフ・M・モロトフという男だった。船乗りにとっての灯台、兵士にとっての弾薬のように、スターリンというソ連を統べる独裁者には、その補佐や心を許す存在が必要だったのだ。それを奪っておきながら、ホットラインで図々しくも連絡を取ってきたヒトラーという人間に、スターリンは今世紀最大の憎悪を抱いていたのだ。
『あぁ……おかげ様でな』ヒトラーは不敵に笑った。『戦争は続行かな?』
スターリンは彫の深い顔を歪めた。「だな。しかし、貴様は大丈夫なのか?」
『何がだね?』馬鹿にしたような声でヒトラーは言った。
「EUの臆病者どもだよ。“平和”などという欺瞞を潰されて、さぞかし怒っているのではないかな? 貴様とドイツは吊し上げられて、EUから除名処分にされるんじゃないか?」
ヒトラーは笑いを漏らした。『いや、それは無いね。むしろ、今回の悪者はお前の方だよ。スターリン書記長。私は英雄で、お前の悪行に報復をしたに過ぎんのだよ……報復をね』
スターリンは眉を顰めた。「……何だと?」
『明日のニュースを見れば分かる。明日のニュースをな』
そう言うと、ヒトラーは一方的にホットラインを切断した。
「おのれッ! ファシストめ!!!!」
殺気を帯びた怒号を撒き散らし、スターリンは受話器を思いっきり机に叩き付けた。甲高い衝撃音が執務室に響き渡った。そして強く握り締められた拳で机上を殴り付けると、大きな物音を立てて椅子に座り込んだ。それでも憎悪は一向に収まる気配を見せない。スターリンは行き場の無いその感情に押し潰されそうな気がして、気分が悪くなった。
「おいッ! 誰か居ないか!!」
スターリンはカザコフ館中に響き渡るような大声で叫んだ。それから1分と経たないうちに幕僚数人が慌てて部屋に飛び込んできた。彼らはスターリンの真っ赤な顔を見て、不安げな表情を浮かべた。
「戦争の準備だ!」スターリンは怒鳴った。「これまでのような“お遊び”じゃないぞ。本物の戦争の準備をするんだ。分かったな?」
幕僚達は頷き、大慌てで部屋を後にした。
「……ヒトラー。お前の国をこの世界から消し去ってやる」
スターリンは呟き、地図上に横たわるドイツの国土を睨み付けた。
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