第69話 兵站の道は平坦にあらず
第69話『兵站の道は平坦にあらず』
1943年5月11日
フィンランド/カレリア地峡
その悪天候の日の夕方、首都ヘルシンキの街から、決戦地“イハンタラ”へと最初にその足を踏み入れたEU(ヨーロッパ同盟)の加盟国軍は――当初から駐留していたドイツ軍を除く――大日本帝国陸軍だった。その陣容は、総勢30,000名の歩兵を擁する第十八師団と4個戦車聯隊を中核とする戦車第一師団から成っており、どちらも実戦経験豊富な兵士達によって構成されている。特に、通称号に『菊』を与えられる等、“精鋭”の呼び名が高い第十八師団は士気・実績共に高く、既に東カレリア戦線ではソ連軍の1個歩兵師団を壊滅させていた。また、帝国陸軍初の機甲師団として史実よりも2~3年ほど早く誕生した戦車第一師団は、フィンランドの厳寒な気候という難敵に悩まされ、思うようには動けてはいないものの、ソ連のT-26程度なら軽くあしらえるであろう“一式中戦車”の配備が進んでおり、貧弱なイギリス・フランス陸軍の一般機甲部隊以上の戦力を有していた。
そんな2つの師団を維持し、支えているのが『輜重兵』だった。輜重兵とは、帝国陸軍の兵站を担う“後方支援兵科”の1つであり、戦闘部隊を維持する屋台骨のようなものであった。輜重兵は各師団ごとに“輜重兵聯隊”若しくは“師団輜重隊”(大隊相当)に編制され、歩兵部隊には『行李』、砲兵部隊には『段列』という専属の輸送部隊が作られて任務に当たった。基本は聯隊制だが、所属師団の任務や規模によって聯隊、輜重隊に分けられ、中国戦線ではその広大な大地で機動的に運用するべく、師団に伴わず別行動を取る“独立輜重兵聯隊”というものが4個ほど編制されている。
基本として、輜重兵は人馬の足を輸送の基軸として利用していた。これは、当時の帝国陸軍の機械化が進んでいなかったことと、兵站部門への軽視があったことが起因している。第1の問題である機械化の欠如は、貧乏国である大日本帝国としてはどうしようもない問題であり、自動車先進国であったドイツにしても、国防陸軍は馬のによる輸送に依存していたという。
しかし第2の問題である『兵站の軽視』は許されざるものだった。貧乏国として、質の良い兵器や輸送手段、多量の物資を製造出来ない大日本帝国は必然的に『現地調達型陸軍』を生み出してしまった。この思想の下に運用され続けてきた輜重兵は、戦線全体の補給というものを重要視せず、武器がなければ敵兵から奪い、飯が無ければ現地民から徴用しろという具合に戦争を進めてきた。それが露呈したのがかの太平洋戦争前半期、“豪州遮断作戦”のために行われた『MO作戦』だった。パプアニューギニアはポートモレスビーという、連合国軍にとっての前哨基地だった地域を巡る一連の戦いは帝国軍の行動限界点を指し示したばかりか、兵站を欠如した軍隊の哀れな末路を見せ付けた。“近海型海軍”であった連合艦隊が『珊瑚海海戦』に敗北し、山脈越えでの進攻を目指した陸軍は補給の欠如によって、ジャングルに孤立して餓死した。
それで輜重部隊の機械化が進んでいなかったかと言えば、そうではない。自動車の運用については1907年から調査が進められ、1925年には陸軍自動車学校が設置された。満州事変ではその自動車学校から編成された自動車部隊が送られ、それなりの活躍を示して陸軍内での評価・関心を高めたという。しかし陸軍は、地形による制限を受けるという理由で自動車の利用を抑制し、自動車を使用するために道路の建設・改修をするという根本概念を欠いていた。そのため、日中戦争においても輜重部隊は馬に依存せざるを得なかった。
また、モータリゼーションが未発達だった当時の日本は自動車運転免許の所有者自体が非常に少なく、陸軍に入って生まれて初めて自動車に触れる者がいるという時代であった。そのために軍全体としても兵站というものを理解しておらず、軽視していた。有名な一説としては、兵站輸送部隊である輜重兵を「輜重輸卒が兵隊ならば 蝶々トンボも鳥のうち 焼いた魚が泳ぎ出し 絵に書くダルマにゃ手足出て 電信柱に花が咲く」などと軽蔑の対象になったというものがある。それは太平洋戦争末期にインパールで兵站を軽視し、軍に大損害を与えた牟田口中将の「糧は敵に求めろ」という有名な格言からも垣間見える。また、兵站面での軽視は陸軍のみならず海軍でもあり、同様に兵站を担っていた輸送部門の部署を「ボロ士官の捨て場所」――因みに情報部は「腐れ士官の捨て場所」と侮蔑されていた――などと呼ばれて軽蔑されていたという。これが通商路防衛の欠如の一因となり、太平洋戦争末期の悲惨な状態を生み出したことは言うまでもない。
しかし戦後1946年から舞い戻ってきた伊藤整一と『大和会』の面々は、同じ過ちを繰り返そうとは思わなかった。M3ハーフトラックやジープを基にした国産輸送車両の開発、インフラ整備、専門家の育成、工業力の増強、陸軍全体の機械化を経て、最近では兵站部隊への軽視を断ち切るような試みを次々と行っている。
例えば、輜重兵科の兵科歌、『輜重兵の歌』の作成。これは兵站面への理解が高く、『帝機関』と呼ばれる陸海軍諜報機関の参謀総長を務める石原莞爾陸軍中将によって企画、実行に移された。これは、史実では帝国陸軍の各兵科はそれぞれに『兵科の歌』があるのだが、輜重兵科のみが作られていなかったためである。戦意高揚と軍全体の意識向上を目的に1942末から作成が始まり、1943年にはイギリスのBBCラジオを通じて、フィンランド戦線に居る全兵士のラジオへと流された。かの『リリー・マルレーン』に比べればその人気は低かったが、それでも国際的な知名度向上と『遣欧帝国陸軍』内での輜重兵への理解向上に貢献することとなった。
こうして成長し、拡充された帝国陸軍輜重兵聯隊は第十八師団と戦車第一師団を全EU加盟国軍に先駆けて決戦地イハンタラまで送り届けることに成功したのである。
同じ日の午後、ここ数日風雨が続いたヴィープリ-イハンタラ間の地域では、サイマー湖から流れる河川を利用して築かれたサイマー運河やタリ川、ヴオスキ川などの水かさが増えていた。その流れは奔流となり、大量の水をヴィープリ湾へと送り届ける。それらの河川を隔てて、西をEU軍が、東をソ連軍が占領しており、攻手であるソ連軍は流れの速い河を渡れずにいた。架橋作業が行えなかったのだ。それが防衛に専念していたフィンランド軍には有り難いばかりのことで、まさに天の恵みというものだった。帝国陸軍の1個歩兵師団と1個戦車師団が参戦し、さらにドイツ陸軍の2個歩兵旅団、2個戦車師団が参戦した。イギリス陸軍の1個師団が緩やかなスピードでこちらに向かっているが、決戦への参戦は間に合わない様子だった。
帝国陸軍2個師団――通称『遣欧陸軍』を指揮するのは、山下奉文中将だった。彼はスイス・ドイツへの留学経験を持つ有識者であると同時に、血気盛んな闘将でもあった。史実では『マレー作戦』の時、シンガポール防衛の任につくアーサー・A・パーシバル中将に対して「イエスかノーか」と降伏を迫ったのは有名は話である。彼は今年1月にフィンランド入りし、現在イハンタラへ行軍中の“第五師団”を含めた3個師団を直接指揮している。
また何かの腐れ縁なのか、それとも歴史の思わぬ悪戯か、あの辻政信中佐も『帝機関』付けの参謀としてフィンランド入りし、『遣欧陸軍』司令部に所属していた。
河川の氾濫によってソ連第7軍の攻勢作戦が24時間の延期を余儀なくされた今、山下奉文中将はイハンタラに集結するフィンランド陸軍の総指揮官、カレリア地峡軍司令官のレンナルト・オシュ中将とドイツ陸軍のエルヴィン・ロンメル大将、そしてドイツ将官とフィンランド第2、第3、第4軍団長を交えて、早速会議を開いた。
時間は限られている。ソ連第7軍は河川の氾濫で足止めされているとはいえ、既に航空戦力が怒涛の如き攻勢に転じている。威力偵察と攻勢準備砲撃も行われていて、ソ連砲兵部隊は偵察機や斥候を用いての正確な位置確認を行って、EU軍が用いている幹線道路の交差点となる箇所に対し、集中的な砲撃を加えていた。第五師団やイギリス・フランス軍部隊の進軍が遅れているのも、そのせいだった。
ここで決戦地“イハンタラ”の地理について、少し触れておく。イハンタラはカレリア地峡の北端の街ヴィープリから北の湖、レイティモ湖のさらに北に位置する町だ。そこから“ポルティンホイッカ十字路”と呼ばれる交差点を西に進むと、首都ヘルシンキは目の前となる。
イハンタラ近辺の地形は平坦で、山1つないのだが、唯一の出入口はタリの町だった。イハンタラから南のタリは、レイティモ湖やカルスティラ湖、イハンタラ湖の湖沼と、タリ川、サイマー運河等の河川に隔てられ、辺りは森林に囲まれている。迂回することも出来ない為、ソ連軍はこの唯一の道であるタリを抜けなければならなかった訳である。
そこがソ連軍につけ入る隙になるのは、誰もが理解する所だった。だが、ソ連第7軍は総兵力20万超の大軍勢であり、せこい戦術程度ではどうにもならない敵であった。そこで戦略から看破することにしたのがマンネルヘイム元帥であり、ロンメル大将だった。彼らはこのタリ=イハンタラという2つの地域にそれぞれ決戦場をお膳立てし、ソ連軍に短期決戦を挑むことにしたのである。地形的に動きの制限されるソ連軍は、戦力の逐次投入という愚行を犯されなければならず、結果的に10の戦力は5に抑えられる。EU軍はその5の戦力を10で押し潰し、敵のスチーム・ローラー戦術に対抗した。これが4月26~5月10日、15日間に渡って繰り広げられた「タリの戦い」である。帝国陸軍を含めた、5月12日から始まるであろう第2の決戦「イハンタラの戦い」は間近だったのだ。
「こいつは難しい」
『マレーの虎』、山下奉文中将は唸った。防衛戦は初めてのことだ。史実では1944年、友軍の航空支援が全く受けられないという『冬戦争』に比較的似た防衛戦――『フィリピン防衛戦』を行い、危機的な状況下で何とか戦い抜いた経験はある。しかし今の彼にそれと同じ働きが出来るかというと、首をウンとは振れないのだ。
「だが補給線が短い分、こちらが有利だろう。輜重兵が良くやってくれてるからな」
このような大規模な会戦において重要となるのは、如何に弾薬・燃料・食糧・水を絶やさずに運び続けられるか――ということである。しかし貧乏国日本にとって、それは敵よりもタチの悪い問題だったに違いない。元々、帝国陸軍は日露戦争のデータを重視する傾向にあり、国内で貯蓄していた弾薬の量もそれを基に用意されていた。だが、当時とは性能も格段に向上し、人員の増強もあり、機関銃の普及も進んだためにそのデータを基にした貯蓄量ではもはや第二次大戦時のような近代戦を戦えなくなっている。それが後々、太平洋戦争時中後期の物資不足にも繋がってくるのだ。
「ですが、春の雪解けとソ連軍の砲撃によって、イハンタラまでの幹線道路の状態が最悪です。いざ戦闘となれば、補給線が貧弱となるでしょう。ここは今のうちに工兵を増員し、道路の整備に全力を尽くすべきかと……」
その考えを具申した辻中佐だが、かつては輜重兵などクソの役にも立たない集団だと決めつけていた。しかし『大和会』に入ったことで多くを学び、最近となっては理解まで覚えるようになっていたのだ。自分の変わり様に終始驚きを隠せずにいた辻だったが、上官である山下の驚嘆の表情とフィンランド、ドイツ将官の笑みを浮かべる表情を見て、存外『大和会』で学んだことは悪くない、と感じていた。
「辻中佐の言う通りだ。今回の決戦では、補給の有無が命取りとなる」
オシュ中将は言った。4月26日から始まった「タリの戦い」がそれを物語っており、タリ川等の橋をドイツ空軍のJu87『シュトューカ』によって落とされたソ連軍はタリで孤立し、フィンランド軍とドイツ軍による包囲殲滅作戦によって1個歩兵師団が壊滅を喫していた。今回始まる「イハンタラの戦い」では、フィンランド軍3個軍団とドイツ軍2個軍団、そして日本軍1個軍団の計6個軍団が戦線に参入する為、膨大な量の物資補給が欠かせなくなるのだ。
「空軍の戦力はどうです、ロンメル大将?」
山下の問いはドイツ語に翻訳されて告げられ、ロンメルの表情を曇らせた。
「ヘルシンキに1個急降下爆撃航空団と2個戦闘機航空団が進出している。ロヴァニエミには常時300機近い戦略爆撃機が待機していて、打撃力だけは申し分ないのだが……」ロンメルは言った。「輸送面では問題が起きていてね。ゲーリング元帥は補給よりも攻撃戦力を投入するべきだと言い、ブラウヒッチュ上級大将と揉めているのだ」
「輸送機よりもシュトゥーカを――ということですか?」
山下の言葉にロンメルは頷いた。「イギリス軍では陸軍と海兵隊が輸送機の貨物スペースを巡って争っているし、フランス軍は消極的、スペイン軍やイタリア軍も同様だ。結局の所、頼れるのは君ら日本軍とフィンランド軍ぐらいなものなんだよ」
そんなロンメルの言葉に、山下は腕を組みながら唸った。帝国陸軍は補給面において、海軍に全面的に頼っている。仲が悪いものの何とか折り合いはついているのだが、『遣欧艦隊』の補給艦に積載されていた分の物資は、ここ3ヶ月のうちに殆どを使い果たしてしまった。よって帝国陸軍はドイツ・イギリス空軍に協力を依頼し、物資の購入などを行って輸送して貰っているのだが、勿論自国軍の補給を優先させない筈がない。帝国陸軍はこの決戦で残り少ない貯蓄物資を全て使い果たしてしまったら、次の補充がきかない――という状況に陥りかねないのだ。
「何とかドイツ本国と連絡をつけて、輸送機を回してもらえませんか?」
「うむ……それは難しいと思う」ロンメルは言った。「総統閣下はゲーリングの事を好く思っていないという話だが、それでも補給に関して言えば理解は無いに等しいのだ。総統閣下は機甲部隊と急降下爆撃隊による華々しい勝利を望んでいるのであって、泥臭い兵站の問題を望んではいないからな」
日本軍は既に行動限界点を大きく逸脱し、安定的な補給もあったものではない。ここでロンメルの協力を得られなければ、内側から崩壊してしまうだろう。そう考えた辻は、口を開いた。
「では、私が『帝機関』を通じて話をつけましょう」
『帝機関』は元々、『大和会』がドイツのヒトラーやイタリアのムッソリーニといった、枢軸国の指導者達との連携のために築かれた組織だ。派閥競争激しいナチス党内のことを考えれば、別の派閥に疎まれるであろうロンメルよりも、『帝機関』の人間が直接ヒトラーに具申した方が受け入れられるだろう。辻はそう考えていた。
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