第66話 春の嵐作戦(中)
第66話『春の嵐作戦(中)』
1943年4月11日
フィンランド/東スオミ州
“Vor der Kaserne vor dem grossen Tor
Stand eine Laterne, und stebt noch dovar,
So wolln wir uns da wiedersehn
Bei der Laterne wollen wir stehn
――wie einst Lili Marleen.”
50万超の大軍を率いてフィンランドへ再侵攻しようとするソ連軍を迎え撃つ最高責任者、カール・G・マンネルヘイム陸軍元帥は、生徒が田舎や隣国スウェーデンに疎開してしまったミッケリの師範学校を最高司令部として未だ活用していた。フィンランド軍は先の戦闘で数万名規模の将兵の喪失を経験していたが、その補填としてEUの本格介入が始まり、現在では釣りが余る程の戦力を有している。そして、それは師範学校に開設された作戦図室の大円卓の机上に“駒”という形で置かれていた。
「……『リリー・マルレーン』ですね」
EU軍第3軍団第1緊急即応集団司令官にしてドイツ国防陸軍将官のエルヴィン・ロンメル大将は、簡素な学習用机の上に置かれたラジオから流れ出す名曲、『リリー・マルレーン』の音色に耳を澄ましつつ言った。4月とはいえフィンランドはまだまだ寒く、彼は初めてこの地を訪れた時と同じように、オーダーメイドの革コートとヴァイマル共和国軍時代の将校用野戦戦闘服に身を包んでいた。参謀フリッツ・バイエルライン中佐も健在だった。
「あぁ。良い曲だ」
動かせない“駒”を睨み付け、苛立っていたマンネルヘイムは微笑を浮かべた。彼は正直、驚かされるのが嫌いだった。だが、それはソ芬国境線上から突然湧き上がってきたソ連軍や、森に迷い込みながらも強引に突き進み、意表を突くように出没するソ連兵にである。EU軍の本体の即時支援が得られず、物資も少ないこの状況では、『雪原の狐』として大胆な戦法と高度な戦略センスを駆使して戦うグランド・マスター、エルヴィン・ロンメルの協力は必要不可欠であった。
「ロンメル大将、貴方が見えられるとは聞いていませんでした」
と、マンネルヘイムは面喰らった様子で椅子に腰を下ろし、席を促した。
「失礼。私も慌てていたものですから……」ロンメルは謝罪の意を述べる。
「だが、何か“土産”の一つでもあるのでは?」
ロンメルは頷いた。「情報を」
マンネルヘイムは訝しげな表情を浮かべつつ、身を乗り出した。ロンメルは有益な男だ。きっと、我が軍を勝利に導く“何か”を持ってきてくれたのだろう。彼はそう思っていた。
「国防軍諜報機関、アプヴェーアの情報です」ロンメルは言った。「ソ連、レニングラードでは現在、後方戦力に至る全戦力がこの戦線に逐次投入されているとのことです。ソ連軍最高司令部は一切の妥協を許していない状況なのです」
ロンメルの言う“アプヴェーア”情報――とは、国際赤十字社-レニングラード支部とそのソ芬国境派遣団を通じて得られた情報だった。
ICRC――国際赤十字社はその発起人アンリ・デュランの出身国スイス同様、中立を謳う国際機関だったが、同時に各国諜報機関のスパイ活動の隠れ蓑として好まれる組織でもあった。ICRCは大戦中でも枢軸国、連合国を問わず自由に越境して、ヨーロッパからアフリカ、中東、果てはアジアに至る世界をまたにかけた救援活動ができる国際的な組織だからだ。また、情報収集も任務の一つで、職員達は枢軸・連合両国の捕虜や軍指導者達に対する質問権が与えられていた。これは捕虜の待遇調査や行方不明者の追跡調査には必要不可欠な権利だったが、同時にアプヴェーアやOSS、MI6が喉から手が出る程欲しがっているであろう“敵軍の内情”を入手できる最善の手段だったのだ。故に各国情報機関は赤十字にスパイを送り込んでいた。
ICRCに潜り込んだスパイ達は、その立場を利用して各種の情報に触れることができた。その情報は、輸送状況、食糧や電力の供給状況、戦死者・行方不明者数、捕虜の状況、爆撃による被害状況といったものから、戦場でICRCの活動を支援する任にある敵味方双方の高官たちの士気に至るまで様々だった。そのような質問権や出入国権を保証されるICRCの身分証明書は、諜報活動に従事する者にとっては銃や拳よりも優れたアイテムであり、戦時中のスパイ達のひとつの憧れだった。
そんなことから、ICRCというのは必ずしも中立的な組織ではなかった。特に、ドイツ・イタリアと枢軸国に挟まれているスイスにその本部を置くICRCは、必然的に枢軸国側に利用されたのである。その具体的な例としては、ドイツ宣伝相ゲッベルスがプロパガンダ目的に行った『カティンの森』リークの一件や、ドイツ赤十字社(DRK)のアウシュヴィッツ強制収容所ユダヤ人虐殺黙認がある。また、トルコやスペインの中立国の各国ICRC支部においては、ドイツ軍諜報機関の人間が職員として平然と活動に従事しているとの話もある。さらに、ICRC幹部の多くがドイツに手を貸し、ナチスのスパイ活動を支援していたという。
国際的情勢からホロコーストを黙認する人道救援組織、その救援組織へのドイツ軍スパイの潜入、交戦国・非交戦国関係なく行われていた入出国とそれを可能とした魔法のパスポート、そしてそれを入手するためにこしらえた偽の身分証明書。まるでイアン・フレミングの『007』のようなスパイ小説じみた事が史実には繰り広げられていたのだ。そしてそれは、今物語でも同様だった。ICRCレニングラード支部に派遣されたスイス赤十字本部の職員の一人がソ連軍の士気、輸送状況、物資量、兵員数、生き残った列車と新たに投入された列車の数をつぶさに記録し、ドイツやEU主要加盟国にリークしていたのである。それらはさらに、アプヴェーアやRSHA(国家保安本部)の内部秘密工作員やイギリス・フランスの諜報部、航空写真から得られた情報と加えられて精査され、ロンメルといった将軍に提出されるのだった。
「それは分かっている。我々は今、首に縄を括りつけて絞首台の上に立っているような状況なのだ。それが1日、また1日と日数を稼がれることで、立っている絞首台の板は薄くなっていくのだよ……」そしてその板が抜かれる日は、必ず訪れる。それは明日かもしれないし、1週間後かもしれない。だが、早期に対策を講じれば、その恐怖の日を延長させることは可能なのだ。
「これは敵にとって絶好の機会だ。ブーツで板を一蹴り……それでカタが着く」
その通り、簡単なことだ、とロンメルは頷いた。『春の嵐作戦』は冬戦争開戦以来の一大軍事作戦であり、過去最大規模の軍事攻勢だ。数十万の兵士、数千台の戦車、数万tの物資、数百万ライヒスマルクの資金が投入される。そしてそれは同時に、フィンランドの命運と双方数十万将兵の命はその結果にかかっていることを示唆していた。
「分かっています。しかし状況はそれより最悪かもしれません」
「……どういうことだ」
マンネルヘイムはロンメルの言葉に言外が含まれていることを悟った。彼が予想し得るこの状況下よりも悲惨な“結末”を、この若きドイツ軍大将は知ってるというのだ。
EUの広報新聞によると、北部戦線でしばらく続いていた小康状態はついに破れ、昨日、ソ連軍が驚くべき猛攻を仕掛けたとのことだった。ソ連軍はウォッカ飲みの酔っ払いばかりだが侮り難い瞬発力のようなものを持ち合わせ、それによって反撃を成し得たという。EU広報部はこの記事の最後に、『マンネルヘイム線』が瓦解しなければ、フィンランドは永遠に堕ちない――と指摘している。彼らはこの、ヘルシンキにある国立オペラ座に使用されているのと大差ない量のコンクリートと木材で築かれ、骨董品レベルの機関銃と中古の戦車砲塔で武装された要塞防衛線をあたかも『マジノ線』と同様のように書き連ねていたのだ。確かにマンネルヘイム線は難攻不落の防衛線だったが、その後方に回り込んだらどうなのだろうか?
「上陸作戦ですよ」
ロンメルは温くなったマグカップのコーヒーを啜りつつ、作戦図盤上に置かれたフィンランドの地図を指した。彼はフィンランド第2の都市、ヴィープリにその照準を合わせ、人差し指の先をスライドさせて、レニングラードへと滑らせた。「ソ連軍はフィンランド湾からの上陸作戦を画策しています。これは確定情報と見てもらって構わない。ともかく、ソ連海軍はそれに必要な輸送艦と上陸用舟艇の用意を終え、訓練を済ませた兵士達も乗艦をはじめているという話です」
「ソ連軍が?まさか……」
マンネルヘイムもかつてからその作戦を予測していた、が、それが現実となるのは非常に厄介な問題であった。何故なら、現在フィンランド軍の戦力はカレリア地峡を中心に配備されている。無論、マンネルヘイム線を軸にしてだ。先のスンマ防衛戦でEU軍が勝利したことで要塞防衛線崩壊は免れているが、予想以上に人員と物資を消費した。数十万の敵に対抗するためには、一兵たりともマンネルヘイム線を離れさせる訳にはいかないのである。
「ヴィープリの予備戦力は来たるソ連第7軍との交戦に備え、カレリア地峡に分配してしまった。地元の警備戦力と民兵だけでは、どうしようもないぞ……」
マンネルヘイムは唸った。ヴィープリには海岸に陸上砲台はあるが、それを運用する人間も地峡防衛のため、ギリギリまで削られている。そんな状況でソ連軍上陸部隊に対抗しようとするならば、地峡から再び戻すしかないだろう。そうすれば上陸部隊には対処できる。しかし、それは同時にカレリア地峡の防衛網の弱体化を呼ぶこととなる。だからといって、ヴィープリの上陸作戦を見逃せば第2の都市は陥落し、マンネルヘイム線は挟撃に晒されかねないだろう。
「ソ連軍側の計画の不備、指揮官の経験不足、そして、相手側兵士の規律が取れていなかったとして、それで勝利を捥ぎ取られれば我々は良い笑い種でしょうね」ロンメルは言った。「しかし上陸部隊はソ連軍内でも選り抜きの精鋭兵士を集め、規律もしっかりと守られていると言う話です。兵員規模は1万以上と推測されます。既にバルト艦隊も動き始め、ソ連空軍も戦略爆撃機を出撃させたと聞きます」
「支援砲撃と爆撃だけで、ヴィープリはお終いという訳か」
マンネルヘイムの顔に怒りの色が浮かんだ。「……奴らを爆撃しろ」
「空軍と海軍の航空支援を受ける……ということですね」
ソ連の船は正直、ブリキと大して変わらない。戦艦といった戦闘艦についても、それは同様だ。一方、ドイツ・イギリス空軍は強大な戦力を保有しており、その他にも多数の同盟国空軍が協同で軍事行動を行っている。ヴィープリの強襲上陸を阻止するには、それらの戦力を用いて水際で押し留めるしかないだろう。
「ドイツ空軍の空挺師団とも連絡を取ってみます。第1緊急即応集団には所属しているのですが、生憎と空挺兵はゲーリング元帥閣下以外に忠誠を誓う気は毛頭も無いようですから」ロンメルは言った。「それと閣下にも、最低限の人員でもヴィープリに振り向ける努力をして頂ければ有り難いのですが」
マンネルヘイムは答えなかった。
「では、失礼します」
そう一言告げると、ロンメルは足早に司令部を去った。
1943年4月12日
ドイツ空軍第2急降下爆撃航空団第1飛行隊所属のハンス・ウルリッヒ・ルーデル中尉は早朝にロヴァニエミ空軍基地を発ち、Jumo211J液冷V型12気筒エンジンと30mm機関砲を搭載した重武装型Ju87『シュトゥーカ』を空に駆らせていた。部隊は既にカレリア地峡へと日課の『お掃除』に出かけていたが、彼の乗機は30mm機関砲と高度計の調子が悪く、それを交換しなくてはならなかったために離陸が遅れ、結局、目標空域まで向かった頃には、仲間のシュトゥーカ乗り達は多数のソ連軍戦車と輸送車両を襲い終えていた。そのすれ違いざまに、報告は入った。
『StG.2Ⅰ(第2急降下爆撃航空団第1飛行隊)。こちらは第5航空艦隊司令部。応答せよ』
「こちらStG.2Ⅰ第2中隊。何があった?」
ルーデルは無線機越しに訊いた。
『伝達する。ガングート級戦艦を旗艦とするソ連艦隊がフィンランド湾を北上しているとの報告があった。EU沿岸警備軍からの報告だ。敵の攻撃目標はヴィープリと推測。第2中隊は、付近に展開しているEU沿岸警備軍イギリス空軍部隊と合流し、対処に当って貰いたい』
43年1月以降、ソ連海・空軍の爆撃機の多くはEUが配備したレーダー網を避けるため、バルト海からの侵入を目指した。パイロットは海面から数百フィートまで高度を下げ、敵のレーダーの捕捉範囲の下を飛ぼうとしたのだ。その結果、ヴィープリといった沿岸都市は抵抗を受けなかった爆撃機の爆撃に晒され、EU軍フィンランド方面司令部のあるヘルシンキにもその影響が及ぶようになった。そこで、これらの爆撃機や潜水艦への対処戦力として組織されたのが、EU沿岸警備軍だった。高射砲部隊、沿岸砲、警備艦艇、迎撃戦闘機、哨戒機等の戦力を保有し、ドイツ・イギリス・フランス空軍が中核を担っていた。
「了解した」
ルーデルはそう言うと、操縦桿を大きく傾けた。数時間後、彼の視界には濃紺が広がり、灰色の大地は消え去っていた。フィンランド湾上空に達すると、水平線の向こう側にいくつかの黒点を認めることができた。
「こちら第2中隊。敵艦隊を視認」
ルーデルは操縦桿を握り直した。「イギリス空軍部隊は?」
『現在、ヴィープリに接近する爆撃機の迎撃に向かっている』
第5航空艦隊のオペレーターは淡々と告げた。敵艦隊は戦艦『ガングート』を旗艦に、巡洋艦『キーロフ』と旧式駆逐艦4隻から構成されている。キーロフを除けば、どれもこれも博物館並の老齢艦だった。これならイギリス空軍の手を借りずとも戦えるのではないか、とルーデルは結論付けた。
「攻撃の許可を求む」
『……待機しろ』
どこか当惑しているかのような声色だった。当然と言えば当然かもしれない。対艦装備を持たないシュトゥーカ1個中隊で、ソ連主力艦隊と戦いを挑むと言うのだから。
『要請を許可する。攻撃を開始せよ』オペレーターは命じた。
「了解」
ルーデルのJu87の翼が大きく翻り、急旋回した。と、同時に後方を飛ぶ中隊のJu87も同様の行動を取る。ルーデルは後ろを振り返り、後部座席で機関銃手を務めるブリングマン軍曹を見据えた。
「軍曹。開戦といこうじゃないか」
ルーデルは告げ、Ju87は唸りを上げて艦隊に突っ込んだ。
クロンシュタット軍港から出撃して数時間が過ぎたその頃、フィンランド沖合に展開していたソ連海軍艦隊の直上空域に、ひどく耳障りな航空機の轟音が響き始めた。戦艦『ガングート』の艦橋で仁王立ちして立っていたヴァレンティン・I・アンドロポフ海軍少将は、背や頬を嫌な冷汗が伝っていることに気付いた。その間にレシプロ機の爆鳴はどんどん近くなり、ついにはJu87『シュトゥーカ』の特徴的なフォルムが確認できた。
「ビェーイ!(撃て)」
べったりと塗りたくられた濃紺の海の上に、突如として現れたこの戦闘爆撃機に対抗する手段を講じることを最優先事項として即座に認識したアンドロポフは、右手を掲げて艦隊の全砲門を開かせた。数分後、無数の閃光が艦隊の周囲を迸り、37mm高射機関砲と12.7mm・7.62mm対空機関銃が一斉に火を噴いた。帯状に広がっていく火線と閃光、そして砲弾が炸裂して生まれた黒煙は、艦隊をぐるりと取り囲む対空弾幕を築き上げた。
「こちら1番機。3番機と4番機は右舷から後部砲塔を狙え。こちらは前部砲塔を破壊する」
適確に指示を出したルーデルは、吹き乱れる砲弾の嵐の中へと機首を突っ込ませた。戦艦マラートの放った3連装305mm主砲の砲弾が右翼上方で炸裂し、機体が左に傾いた。そしてまた、あたかもJu87を弄ぶかのように主砲が唸りを上げ、砲弾を左翼上方で炸裂させ、ルーデルに揺れを味わわせた。
「くそッ。イワンどもめ……」
ルーデルは唸った。思った以上に敵の士気が高い。弾幕も上手く形成されていて、間合いへの侵入が難しかった。
そんな中、305mm主砲がまたもや咆哮を上げた。今度は機体下部に砲弾が炸裂し、シュトゥーカの下腹部にその爆風が舞い上がってきた。機体は強引に押し上げられた。離陸時のようなふわりとした感覚に吐き気が込み上げてくる。305mm主砲はまさに悪夢だった。身体的にはダメージは一切なくても、その爆音と衝撃が精神に著しいダメージを与えてくるのだ。ルーデルは対空砲で撃墜される前に、この精神的ダメージで気負けしそうで恐ろしかった。
「一気にケリを着けてやる!」
ルーデルは吼えた。彼は胴体部に搭載された1t爆弾の投下用意を進め、高度2000mから一気に急降下した。一際高くなったJumo211Jのエンジン音とともに、甲高い風切り音が機翼に迸る。重力の壁をぶち壊し、轟然と回転する3枚のプロペラで風を切り裂きながら一直線に降下する機体は、対向する37mm高射機関砲や12.7mm対空機銃の応射を受け流した後、1発の1t爆弾を投下した。機首は反り上がり、上昇ざまに30mm機関砲2門が吼えて、戦艦マラートの鋼鉄の大地を打ち砕いた。
ルーデルの手によって解き放たれた1t爆弾は、確実に戦艦ガングートの1番砲塔を狙っていた。直後、幾筋もの閃光が、濃紺の蒼穹と灰色の空の境界線に浮かぶ一隻の戦艦から迸り、噴煙と爆風が走った。そして鮮紅の火柱が1番砲塔に立ち上がったかと思うと、2つ、3つと同じような規模の火柱がすぐ横の2番砲塔、及び後部4番砲塔に屹立し、灰と火の粉をもうもうと噴き上がらせた。
「各部被害状況知らせ!」
艦隊司令官アンドロポフは伝声管越しに叫んだ。
『1番砲塔。大破確実!』
『2番砲塔。損害甚大!使用不可能』
『3番砲塔。損傷は軽微』
『4番砲塔。大破!大破しました!使用不可能』
「くそ……そんな馬鹿な。3つの砲塔が使用不能に追い詰められただと?」
アンドロポフは絶句した。駆逐艦と巡洋艦『キーロフ』の対空砲の砲撃音がやけに虚しく聞こえ、上空を旋回して再アプローチに入ろうとしているJu87の爆音がやけに大きく響いた。ドイツのシュトゥーカ乗り達に悪夢を味わわせるどころか、こちらが今、悪夢を通り越して絶望を味わっているのだ。それも、強烈なやつを。
「同志アンドロポフ。機関出力が低下しています。燃料の流出も認められるそうです」参謀の1人が言った。「私は艦隊の撤退を進言致します。ここは体勢を立て直すべきです」
「そんなこと……認められる訳がない」
アンドロポフは呟いた。スターリンは先の航空戦艦『ミハイル・フルンゼ』の喪失によって、ソ連海軍への不信を強めている。今回の『ヴィープリ上陸作戦』の前準備として行われる支援艦砲射撃を成功させなければ、海軍に粛清の嵐が吹くのは間違いないだろう。
「敵機接近!」
「何だと!?」
アンドロポフは愕然とした。双眼鏡をひったくるように手に取り、艦橋から外を見ると、1機の双発爆撃機とおぼしき機影の姿が認められた。
「あれは何だ……」
「『モスキート』です。同志アンドロポフ。間違いありません」
イギリス空軍の双発戦闘爆撃機『デ・ハビランド・モスキート』は高速巡航を可能とする木製航空機である。EU沿岸警備軍イギリス空軍部隊に配備されたこの比類なき存在は、ソ連海軍の艦艇や爆撃機編隊に高速で接近しては、爆弾や機銃の雨を降らせて敵を壊滅に至らしめていた。
「……撤退だ。撤退急げ!」
圧倒的劣勢を悟ったアンドロポフは、観念したかのように言った。轟然と黒煙を上げるガングートは、さらに煙幕を張って後退する。随伴していた巡洋艦『キーロフ』と駆逐艦4隻も引き上げ始め、戦場の張り詰めた空気が潮のように引いていった。残ったのは、海面に漂う戦死者の遺体とガングートの鋼鉄の肉片だった。
1943年4月12日、フィンランド沖で勃発した海戦の戦果は後日、EU側の大勝利として新聞で華々しく取り上げられた。単独でソ連海軍艦隊に挑んだ第2中隊とその隊長、ハンス・ウルリッヒ・ルーデル中尉はドイツ国防空軍とEU軍の双方によって表彰され、賞賛を受けた。これにより、ソ連軍が進めていた『ヴィープリ上陸作戦』は延長され、戦艦『ガングート』は1年間、ドック入りを余儀なくされた。
しかし時を同じくして、カレリア地峡の制圧を担うソ連第7軍は、大規模な攻勢作戦を企てていた。
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