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時空戦艦『大和』  作者: キプロス
断章 机上の大和~1942年
62/182

第1話 昨日の友は今日の敵

――机上の戦争が開戦す。

 第1話『昨日の友は今日の敵』

 

 

 1945年8月14日

 東京府/千代田区

 

 1942年11月30日から勃発した『冬戦争』は、それから1年ほど経った1943年9月17日に急転した。ソ連第7軍が壊滅し、ドイツのEU第3軍団がソ連領内への侵攻を開始したのだ。同年11月2日、ソ連第2の都市レニングは――陥落した。これを機に、フィンランド-ソ連間国境沿いで繰り広げられていたフィンランド戦線――通称“代理戦争”はEU対ソ連の『全面戦争』に発展したのだった。スターリンはEU全加盟国に宣戦布告、ポーランド及び満州国への奇襲侵攻を敢行する。

 しかし、スターリンの思惑は外れ、ソ連の一大攻勢は頓挫した。原因はEUの要塞防衛線『西の壁』(ヴェストヴァル)と虎頭要塞による予想以上の抵抗である。また、一方的過ぎる宣戦布告の仕方と拙い奇襲戦法が軍、そして現地民の憎悪の対象となり、徹底抗戦を構えることとなる。1944年2月には防衛ラインを死守していた関東軍が反撃に転じ、沿岸地方プリモルスキー・クライへの侵攻を開始、4月上旬には州都“ウラジオストック”を包囲した。

 ウラジオストックに司令部を置くソ連赤色海軍太平洋艦隊はこれに対し、帝国海軍の連合艦隊に正面から艦隊決戦を挑むべく、8割強の艦艇を北海道沿岸域に差し向けた。湾を包囲され、出れずに敗北を迎えるよりは潔く戦って死にたい――という悲痛な想いの結果である。帝国海軍はこれに対し、連合艦隊主力艦たる戦艦部隊をもって挑むつもりであったが、時の連合艦隊司令長官山本五十六大将――新内閣の要職に就けず、現場復帰を果たした――は第一、第二、第五航空艦隊による機動艦隊を編成、戦艦『ソビエツカヤ・ロシア』を旗艦とする太平洋艦隊に機動戦を展開する。結果、旗艦及び所有戦艦の全てを喪失、唯一の航空母艦も大破して日本海海戦以来の大敗北となった。更にウラジオストックが攻略されたことにより、ソ連太平洋艦隊は事実上――消滅した。

 一方、ヨーロッパ戦線もEUの優勢が続いた。ポーランド侵攻が難航し、東部戦線で戦力を消耗する中、北部戦線ではロンメル元帥指揮下の第3軍団が電撃作戦を展開、首都モスクワの周辺都市が次々と占領され、その行軍の足音はクレムリンにも迫っていた。しかし1月、電撃侵攻を続けていた第3軍団は行動限界点に到達、進撃速度が停滞した。原因は冬将軍の到来と補給物資の不足である。その間、スターリンはモスクワ等主要都市の軍需工場を内陸部に疎開させ、焦土作戦を展開しながらソ連軍の戦力補強を推し進めた。 同年5月、東部戦線においてEU軍がポーランドからソ連軍を撃退し、ポーランド-ソ連国境間に設置されていた要塞防衛線『スターリン・ライン』を突破した。ドイツ本国軍、イギリス・ヨーロッパ大陸派遣軍、フランス軍、イタリア軍の空軍力・陸軍力の賜物であった。東部戦線はソ連が一方的に押され、北部戦線の防衛戦力を補充せざるを得なくなった。それを好機と見たロンメルは進撃を命令した。

 そして6月3日――モスクワが陥落し、クレムリンにドイツ軍が入城した。

 1週間後、EUは占領都市モスクワからソ連政府に対し、講和の要求を勧告した。その結果、急転的・反スターリン派の若手陸軍将校によるスターリン暗殺未遂事件が勃発、ソ連赤軍は戦時中だというのに空前の粛清が実施され、その全体戦力を大幅に減少させてしまった。戦争の早期終結を望んでいた英仏は落胆したが、独伊だけは思わぬ副次的効果に歓喜した。

 3ヶ月後の9月17日、EU軍がソ連領に侵攻してから丸1年経過したこの日、EU南部方面軍団はスターリングラードを攻略した。それから約2ヶ月間に渡って繰り広げられる『スターリングラード攻防戦』は両陣営を疲弊させ、大勢の死者と多数の兵器を失う壮絶な戦いとなった。この時、全体戦力に余裕があったEU軍は史実の『ブラウ作戦』のように2個軍団によってスターリングラード・バクーの両都市を攻略する計画を立てていた。ドイツ軍が最前線に陣取り、イギリス・フランス・イタリアがそれに続く。後方防衛、主力援護、及び各所の制圧には宣戦布告によって戦争に引き摺り込まれたカナダ軍、オーストラリア軍、オランダ軍、ベルギー軍、ポーランド軍等が協同してあたり、その中には遣欧戦力である帝国陸軍独立機甲師団の姿もあった。

 そして1945年1月21日――戦争は停戦した。バクー油田を制圧され、内陸部の疎開地域にも戦略爆撃部隊が台頭するようになり、既に100万名以上の死者を出していたこともあって、スターリンは止む無く交渉のテーブルに着いたのである。

 交渉のテーブルでEUのドイツ・イギリス・フランス・イタリア・オランダの代表団は、戦争時の占領の全てをEUのものとし、アルハンゲリスク-アストラハンを引くライン上以西の全領土を割譲することを要求。また、極東戦線での大日本帝国に対する樺太島・沿岸地方・ユダヤ自治州の割譲とEUに対する多額の賠償金も要求された。

 無論、スターリンはこれを呑む筈が無かった。しかしEUは強硬な姿勢を崩さず、返答次第では即時攻勢を再開する、とソ連側に通告した。

 これに顔色を悪くしたスターリンは結局、講和条件に署名した。アルハンゲリスク-アストラハンの通称『AA線』が敷かれ、樺太・沿岸地方・ユダヤ自治州が帝国領に編入され、ソ連はEUに対する多額の賠償金を迫られた。これに独裁的権力を失ったスターリンは失脚した。同年2月に新政権が誕生し、経済的締め付けの緩和の為、被告人ヨシフ・スターリンはEUに引き渡された。

 4月、世界を恐怖と悲嘆のどん底に引き摺り込んだソ連指導者達を捕らえ、裁判に掛けるという大作戦が決行された。ドイツはニュルンベルクで行われたその裁判は『ニュルンベルク裁判』と称され、ソ連国内外に潜伏していた指導者が各国諜報機関の努力もあって逮捕されていた。被告人の代表はスタフカ――ソ連軍総司令部の面々で、ヨシフ・スターリンを筆頭にヴャチェスラフ・モロトフ、クリメント・ヴォロシローフ、セミョーン・プジョーンヌイ元帥が並んでいた。一方で、証人席にはニコライ・クズネツォフ元帥やゲオルギー・ジューコフ元帥の姿があった。彼等は新政権派であり、軍縮に基き編成された『ソ連国防軍』の中核を担う存在でもあった。この2人を始め、大勢の証人が名指しでスターリンを批判し、他の被告人達も同様に批判の言葉をぶつけられた。この裁判でヨシフ・スターリンに死刑が宣告され、他数名が死刑や終身刑、禁固数十年の刑に処せられた。

 スターリンの最期は悲惨なものであった。刑の執行を待っていたスターリンは独房内で青酸カリのカプセルを噛み締め、自殺したのだ。

 ヨシフ・スターリン――享年64歳。祖国ソビエトではなくドイツの、それも刑務所の独房内で死を迎えたこの大量殺戮犯罪者は、恐らくこのような死の訪れを予期していなかったであろう。数十、数百の民衆の悲嘆の声が轟き渡る中、逝去。そしてその棺がクレムリン内に弔われるという世紀の国葬を望んだだろう。

 もしくは、不老不死の身でソ連を永世統治することを望んだかもしれない。――ユダヤの老いぼれが海を真っ二つに割り、フランスの女が神の声を聞いたのなら、俺が不老不死の身体を手に入れたってちっともおかしくないじゃないか。そう考え、淡い夢物語の中で永久の時を過ごしたのかもしれない。

 しかし、現実は看守とEUの監査官数名に弔われての終焉だった。遺体は“磔”や“焼却”といった処分も検討されたが、ごく自然に故郷へと埋められることとなる。

 

 

 「こう振り返ると、戦争はごく最近まで続いていたのだな」

 大日本帝国新内閣総理大臣の窪田角一は唸った。

 それは1945年7月のことであった。ドイツは他のEU諸国に対し、バクー油田の分配比率を一方的に変更する通告を出した。これまで、占領地でもっとも重要且つ高価な戦利品であるバクー油田は、独3:英2:仏2:伊2:他の加盟国1の割合で分配されていた。そこにドイツはケチを付け、独7:英0.5:仏0.5:伊1:他のEU諸国1に変更したのである。バクーを取り仕切っていたSS装甲師団は戦力強化を図り、その影響力を増大させて他国の駐屯軍を牽制した。

 一方、ドイツ側の条件を受け入れないとして、英仏が一早く声明を発表。7月24日、オランダ-アムステルダムでEU緊急総会が開催され、ドイツのEU除名処分を検討した。当初、英仏に賛同して処分可決に回る陣営が上回ったのだが、それはドイツによる声明によって一転することとなる。

 8月8日、ドイツ総統ヒトラーはバクー油田及びソ連資源分配比率に対して妥協しないことを発表し、それと同時に批准しなければ宣戦布告することを表明した。そして一早くイタリアがこの分配比率に批准したことを発表し、イタリア軍が戦闘態勢に移行していることも発表された。これに顔色を変えたギリシャ・ポーランド・ユーゴスラビア王国が分配比率に批准し、スペイン・フィンランドが中立を宣言した。そしてソ連がドイツとの同盟締結を表明した。イギリス、フランスは勿論賛同する訳もなく、ドイツのEU除名を完全表明した。

 そして昨日の8月14日、ドイツを中心とした『枢軸国』陣営はイギリスを中心とした『同盟国』陣営に宣戦布告を表明、同盟国陣営の北欧――フィンランドを除く――とフランスへ電撃侵攻を開始した。また、AA線以西のEUが統治するソ連領内ではドイツ軍・イタリア軍・ソ連国防軍が同盟国陣営の駐屯軍に攻撃を開始し、大打撃を与えるとともに多数の資源を確保するに至った。

 そこに唐突に関与してきたのがアメリカ合衆国であった。英仏諸国は米との同盟締結を承認し、経済的・軍事的支援を要請した。アメリカはそれに応える条件として――暫定的に存続するEUの完全解体、英仏等ヨーロッパ諸国との国交回復、今後30年間の対外輸入での米製品優遇、そして今戦争の主導権を要求してきた。圧倒的な攻勢を見せるドイツを十分な脅威とみなし、未だ膨大な国力を備えるソ連を敵とするのは過酷だと判断した結果である。これに対し、ドイツはアメリカに宣戦布告した。

 「うむ……現時点で優勢なのはドイツ陣営の枢軸側だ。資源・人員・兵器の保有数がもっとも多く、また技術水準も最高だ」窪田はそう言い、整然と並ぶ窪田内閣の閣僚達を見張った。「この点も鑑み、一連の戦争をどう乗り越えていくか……その政策を出して貰いたい」

 一同は腕を組み、顎を擦り、隣々の人間と言葉を交わす。今回の決定が過去数十年、しいては100年先にまで影響しかねない。そう考えると、慎重になって複数の思案を巡らすのは当然の行為と言えた。

 「要は西に向かうか、東に向かうか――という事ですね?」志村正海軍大臣は言った。志村の言う通り、この戦争は西か東かに侵攻する戦争となるのは必然であった。アメリカ陣営に着けばヨーロッパ本土の西へ、ドイツ陣営に着けば米西海岸の東へと進む事になる。そして、その選択次第で陸海軍の戦略、貯蓄物資の使用量、戦時国債の数、そして死者の数が変わってくる。北はソ連、南はオーストラリアというように、本土への侵略軍もまた変わってくるのだ。

 「総理、私は東に向かうべきかと存じます」

 そう告げたのは白井正辰陸軍大臣だった。「常識的に考えれば、それがもっとも妥当な案ではないでしょうか。アメリカは不況に喘ぎ、軍も縮小されていて脆弱です。ハワイを早期陥落させ、西海岸に侵攻すれば、短期で戦争を終結させられます」

 「うむ。成程……」窪田は唸った。

 「私はその案には賛成し兼ねます」

 志村は腕を組み、渋面を浮かべて言った。「ここは敢えて、西に向かうべきです。その理由ですがまず、アメリカを盟友とすれば少なくとも背後を敵に取られる心配は無くなります」志村は言った。「そして第2に、アメリカの国力は衰えてはいません。軍事力は戦争開始から数年で2倍、3倍と増えていくでしょう。しかしドイツは、先の戦争で得たものを、先の戦争で失ったものに補充しただけに過ぎません。ガス欠になった戦車にようやくガソリンを入れれるようになったに過ぎないのです。長期的に見ればアメリカの勝利は必至でしょう」

 志村の意見はもっともだった。アメリカ領であるフィリピン・ハワイは戦争準備を進めていて、防衛策は万全である。奇襲ならともかく、完全防備のその2箇所に同時攻勢を実行するのは至難の業である。確実に戦線は長引き、資源確保の為の南方進出にも大きく影響してくるだろう。そうなれば戦力の分散を招き、各個撃破や背後からの攻撃を受けてしまうことだろう。この志村の案は戦の基本である背中を取られない事を前提とし、ソ連国防軍の錬度の低さ、アメリカ陣営のオランダ領東インドからの石油の確立、フィリピンでの戦闘の回避、そしてアメリカの国力を判断材料とし、導き出した最善の答えであった。

 「それはもっともである。背を取られては勝てる戦も勝てん」窪田は言った。「では採択を取ろう。対米宣戦布告に賛成の者は?」

 白井を筆頭に、文部大臣や鉄道大臣が挙手した。しかしその数は一部で、対独宣戦布告が多数を占めていたのである。

 「では、我が大日本帝国は――ドイツに宣戦布告する」



 決断し、席を立った窪田だが、壁に掛けられた時計を見て人を変えた。今までは内閣総理大臣としての威厳と品格、そしてリーダーシップを発揮していた彼だが、今や一介の商社員と変わらない、温和で物腰の落ち着いた男となっていた。

 「今日はここまでだ。明日は対独宣戦布告からの満州戦線への対応策を検討し、その防衛概算と米国からの予想戦力支援を照らし合わせて演習を進めていく」

 閣僚――であった男達は立ち上がり、笑みを浮かべた。いがみ合う仕草を見せていた白井と志村は互いに肩を叩き合い、微笑を浮かべて談話する。犬猿の仲の陸海軍大臣としては異例の行動だが、現実に軍1個を背負っているエゴイズムの塊では無い彼等にとって、いがみ合う理由は存在しなかった。ただ、シミュレーションを完璧にする為、口論していただけであった。ディスカッションは異なる意見の衝突によって成立し、発展するものである。

 「藤伊閣下、これで宜しいので?」

 窪田総理は閣議室内で沈黙を貫いていた1人の海軍提督に告げた。本来なら、閣下と呼ぶにふさわしくない階級の藤伊一海軍中将は静かに頷き、満足気に笑みを漏らした。

 「それで良いのです」



 1942年12月1日

 東京府/千代田区


 史実、『総力戦研究所』は内閣総理大臣直轄の特務組織であった。国家総力戦――即ち『日米戦争』を想定した机上演習(シミュレーション)計画を行い、演習用の青国(日本)模擬内閣も作られた。模擬内閣閣僚となった生徒達は研究所から提示される想定情況と課題に応じて軍事・経済・外交の各局面での具体的な事項について各種データを基に分析し、日米戦争の展開を予想した。その結果は太平洋戦争の推移と殆ど同じで、最終的なソ連対日宣戦布告も的中させていたのだ。唯一彼等が予想出来なかったのは、真珠湾攻撃と原爆投下の2つだが、前者に関しては緒戦に『奇襲作戦』が成功していたとしても、持久戦に持ち込まれて戦争が推移していけば日本は負けると予想していた。

 今物語で『総力戦研究所』は1942年10月に誕生した。迫る『冬戦争』に対応し、伊藤ら『大和会』が昭和天皇に上奏した結果といえる。

 天皇直属機関として、『大和会』の特務組織として新たに誕生した総力戦研究所の初仕事は『対独戦』の机上演習であった。これはドイツが将来、脅威となりかねないと判断している伊藤の個人的意見によって成立したもので、この時期には異例なものといえた。本来なら、対ソ戦を想定していくべきなのだ。

 しかし、対ソ戦はヨーロッパを主軸とする戦いであるのに違いは無かった。フィンランドから戦線が拡大されるのは何時になるかも分からず、ヨーロッパ方面での情報収集には限界点があった。『アプヴェーア』はSSやゲシュタポにマークされていて、『第4インターナショナル』も現在ではアジアを活動の拠点としている。ならばこの際、将来必ずや勃発するであろう対独戦に備え、準備を整えておくべきだと伊藤は考えたのである。

 「現実はどうなると思います?」

 窪田は訊いた。

 「……戦況が好転すれば、軍部は必ずやその矛先をアメリカに向けることだろう。アメリカは東西からの侵攻を受け、建国以来未曾有の侵略戦争を経験することとなる」伊藤は言った。「だが、その先はどうする?アメリカに勝利しても、ドイツに敗北すれば事は更に悪化する。これは私が保障しよう。ヒトラーは世界の半分を掌握しただけでは終わらん野心の持ち主だよ」

 

  

 1945年8月15日、大日本帝国はドイツの枢軸側に宣戦布告、米英との同盟締結を宣言した。これに対し、アメリカのハリー・S・トルーマン大統領とイギリスのアンソニー・イーデン首相は歓迎した。翌月、アメリカで武器貸与法案である『レンドリース法』が可決、対日・対英軍需物資の輸出が開始され、その見返りとして両国への米軍の駐屯が始まった。帝国陸軍は満州国、及び先の戦争で獲得した旧沿岸地方、樺太、ユダヤ自治州の防衛強化を推し進め、レンドリースで到着した『M4』中戦車や『M1』重戦車が関東軍に配備されるようになった。



 そして帝国海軍は――地中海を目指す。

 

 1945年8月15日、ここに『第二次世界大戦』は勃発した。

 

 

 

 

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