第58話 雪原の狐
第58話『雪原の狐』
1942年11月30日
フィンランド/東スオミ州
車はぐっとスピードを落としていて、窓が開けてあった。その窓枠の中に、灰色の髪を短く刈り込んで目鼻立ちが整った若年の男の顔が浮かんでいる。彼は洋服屋に仕立てて貰ったオーダーメイドの革コートを身に纏い、その下にヴァイマル共和国軍の将校用野戦服を着用していた。その隣には、オーバーコートとドイツ国防軍のM36野戦服に似た形の軍服を着用した将校クラスと思われる人物が鎮座していた。彼は物珍しそうに、また凍えるな表情を浮かべ、右隣に座る革コートの男の顔を覗き込んだ。襟元には、ドイツ国防軍の徽章が付けられている。
「ここはどういう所なんですか?」将校、もといフリッツ・バイエルライン中佐は革コートの男に訊いた。「気温は零度を軽く下回り、吹雪は止む事を知らず、一面は銀白に染まっている……。このような環境は全く初めてです」
「そうか、君も初めてか」
革コートの男は言った。「やはり紙の上に並べられた言葉だけでは、この状況は想像し難かったのだろう。私も全くその通りだよ」車はとある師範学校の前で停まった。
「さっさと出てさっさと入るんだ」革コートの男は学校の正面入り口を指して急ぎ言った。「天候が悪い。これではゲーリングの支援は受けられんな!」革コートの男は苛立ちながら言い、車のドアをぴしゃっと閉めた。そして十数mの白い道を駆け走った。
学校の中に入ると、淡い白熱電球の光が微かに瞬いていた。まるで光の聖霊が宙を舞い、2人の来訪者を幻惑しているかのようだった。一方、床は大量の紙と、色どり豊かなコードと、山積みの学習机に包まれていた。
「ここで何があったんだ?」バイエルラインは不安を滲ませた声で言った。彼が常に見ている“最高司令部”の姿は埃ひとつ、黴菌ひとつに至るまでないような清潔で実用性に満ち溢れた場所である。しかし、『ミッケリ』という小さな町に佇むこのフィンランド軍最高司令部は、そんなイメージからは完全にかけ離れていた。戦力が不足し、一兵卒に至るまで最前線に駆り出されている今のフィンランド軍の現状から司令部には衛兵の姿が見えず、故に師範学校時代の散らかったゴミを片す人手も足りない。そんな結果から誕生した空間を見つめるバイエルラインの顔には表情が無く、何も言いたくないとでもいうように口はきつく結ばれていた。
しかし、革コートの男は気にせず進んだ。床には絶望的な点数が書かれた答案用紙の他、つま先に大きな穴の開いたぼろぼろの白い靴下が一足と、踏み潰されて粉々になったチョークと、薄汚れた歯ブラシ等が落ちている。恐らくソ連軍の侵略と、フィンランド軍からの接収命令を受けて疎開を急いだ生徒達の置き土産なのだろう。その恐怖の色が垣間見えた。
「ソ連軍には無能な指揮官が多い。故にそこへ付け込むのが最高の戦術だ」
フィンランド軍最高司令官、カール・G・マンネルヘイム陸軍元帥は幕僚達に言った。しかし、彼は思わず胸の中で悪態を吐く。自分やフィンランド人ではなく、ロシア人の失敗が頼みの綱だというのは、職業柄にしても私的感情にしても悲し過ぎる事実だからだ。
彼はEUからの十分な支援がくるまでフィンランド軍が持つかどうか確かめようと、円卓の上に広げられた巨大な地図に目を通した。そこから、マンネルヘイムはフィンランドの生命線が『カレリア地峡』にあることを再認識出来た。
カレリア地峡は天然の要塞である。ソビエトとフィンランドの領土を貫くラドガ湖とフィンランド湾によって両側面からの敵の侵入を許さず、左右翼から回り込んでの包囲殲滅作戦も成り立たないので、ソ連軍は正面から侵攻せねばならない。しかしインフラ設備は最悪で、鬱蒼と生い茂る森林には対人・対戦車地雷やブービートラップ、更には方向を見失うという思わぬ障害が立ちはだかる。故にソ連軍は20万人以上の兵士と1400輌を超える装甲車両を通過させるのに、未舗装で雪の堆積した道路を使用しなければならなかったのである。
一方、フィンランド軍は地の理を得ていた。元々戦車を殆ど保有していないので劣悪な道路で装甲部隊を運用するという問題自体が存在しない。また、ソ連軍にとっては忌々しい森林も、フィンランド軍にとっては裏庭のようなものであり、防衛の要でもあった。フィンランド軍は森林各所に地下壕や偽装トーチカを設置し、敵の通過を見越して奇襲攻撃を掛けるなり、後方の砲兵や空軍機や装甲列車にその位置を報告して間接攻撃を仕掛ける等の手段を講じていた。
更にフィンランド軍はスキー部隊やマンネルヘイム線を有している。
しかしその一方で、フィンランド軍は少数の兵力をもって50万を超えるソ連軍と正面を切って戦わねばならない――という事実にも対峙していた。フィンランド軍は圧倒的に戦力が不足しており、主戦線となったカレリア地峡には3個師団、約6万5000名のフィンランド守備戦力が集結していたが、一方のソ連第7軍は7個歩兵師団、及び5個戦車師団、更に予備の6個歩兵師団を含めた計20万名以上の大軍勢である。同軍だけで装甲車両1400輌、重砲及び迫撃砲1000門超を保有している。これはフィンランド軍の総兵力29万6000名に肉薄する程の数であり、戦車や砲に至っては百倍程は数の差がある。
「アイロ、やはり部隊を後退させて正解だったな」
マンネルヘイムは親しい友人であり腹心でもあるアクセル・アイロ少将に言った。フィンランド軍の補給・戦略の最高責任者たるアイロは数々の作戦を立案し、それをマンネルヘイムが実行することによりフィンランド軍は常識では考えられない程の戦果を挙げてきた。
「EU、特にドイツ軍からの情報は正確です。20万をくだらないソ連カレリア方面軍に真っ向から戦力をぶつけるよりは、地峡深部に侵攻させて消耗した所を叩くのがこの場合は正解といえる戦略ですよ」と、アイロは言った。
史実でもそうだが、兵力に劣るフィンランド軍はカレリア地峡を攻略するソ連第7軍と国境付近で交戦することを良しとせず、マンネルヘイム線まで後退させた。同時に、ソ連軍の進撃を少しでも遅らせるべく、フィンランド軍はありとあらゆる破壊工作を行って遅滞戦術を展開した。利用可能な道路や橋を破壊し、避難が完了した村落もソ連軍が暖を取れないように焼き払い、井戸も埋め立てて撤退した。また、フィンランド軍はこのような焦土作戦と並行して、ブービートラップを用いていた。体重計や腕時計に爆弾を仕込み、ソ連軍兵士を葬ったのである。特に腕時計による被害者は後を絶たなかった。
アイロが練る戦略は、こうした焦土作戦・ブービートラップ・ゲリラ戦術といったありとあらゆる破壊工作を用いてソ連軍の進撃を停滞させ、フィンランドの酷寒と食糧不足と過酷な行軍によって疲弊したソ連軍に前進・後退を繰り返して攻撃を断続的に浴びせ掛けるという残酷且つ合理的な遅滞戦術で戦争緒戦をしのぎ、EUの本格介入を待つ――というものであった。
「しかし、それはソ連側も織り込み済みでしょう」アイロは言った。「ソ連軍はラドガ湖北から第8軍を進撃させ、後方から我が軍の本体に迫り、その退路を断つ筈です。もしそれが成功すれば、ソ連軍は史上最大規模の包囲殲滅作戦を展開させ、我が6万5000余名の兵を葬ったとして、後世の歴史に書き連ねられることでしょうね」
実際、アイロの予想は正しかった。ラドガ湖の北ラドガカレリア地区には、6個歩兵師団と1個戦車師団からなる第8軍が配置されていた。同軍はラドガ湖の北を回ってカレリア地峡の背後を突き、主力の第7軍を助け、一部はそのままフィンランド中央部に侵攻する予定だった。
また、さらに北、クフモからサツラにかけては中部攻略を担うソ連第9軍が布陣していた。この地域はインフラ設備が万全ではなく、『ノモンハン』の教訓によって得た機甲戦力集中式の兵力配置は難しかった。その為、第9軍は分進合撃してフィンランド中央部を一気に分断、ボスニア湾まで到達して、スウェーデン経由のEU支援ルートを遮断する。その後、南下してフィンランド南部を後方から制圧する――というのが、第9軍に課せられた命令だった。
そしてその第9軍のさらに北、フィンランド北部には第14軍が配置されていた。3個師団、約5万名からなる軍で、各方面軍の中ではもっとも弱小の軍であった。しかしながら、当初から第14軍が攻略するフィンランド北部には全くといっていい程、抵抗戦力が残されていなかった。フィンランドの北極海の出口、ペツァモ市には装備も貧弱な歩兵300名余りからなる2個中隊しか配置されていなかった程だ。第14軍はペツァモ地区を押さえ、北極海の出口を確保して内陸部に侵攻するのが主な戦略だった。
これら3つの方面軍が命令通りに事を運べれば、まずフィンランドは1週間足らずで堕ちる筈だった。史実では『ノモンハン事件』の戦績や、ポーランド侵攻時のドイツの電撃作戦の模倣からソ連のみならず世界がそうなるだろうと予測していた。
しかし、マンネルヘイムと不屈のフィンランド兵はその運命を否定した。祖国を踏み躙ったこと、ソ連の捕虜の扱いのこと、そして粛清のことから『敗北=死』に繋がると思ったフィンランド兵は、むしろ祖国の地で勇敢に戦い、ソ連軍に出血を負わせて死ぬことを望んだ。マンネルヘイムと軍上層部は徹底的なゲリラ戦によって戦い抜くことを決意し、緒戦での無用な戦闘を控えて戦力を温存した。そして小国は1週間、1ヶ月とその命を繋ぎ、やがて海外もその不屈の意志を実行するようになった。そうして、フィンランドは奇跡的な講和を成し遂げたのである。
しかし今物語では、『冬戦争』は全く違う始まりと終わりを迎える。
「マンネルヘイム元帥閣下ですね?」
だしぬけにその聞き覚えの無い声は最高司令部の作戦室に響いた。マンネルヘイムが見てみると、部屋の出入口の前に、革コートの男とその付き添いと思われる2人の軍人が立っていた。革コートの男だけが部屋に入り、2人は廊下に残った。
「EU第1緊急即応集団司令官、エルヴィン・ロンメル中将であります」革コートの男は口を開いた。「本日付でフィンランド軍の指揮下に編入され、本日出頭致しました」
マンネルヘイムは彼に訊いた。「もう到着したのか。速いな」
ロンメルはゆっくりと首を振って、彼に全てを伝えた。「残念ながら、私が現時点で直接指揮しているのはそこのバイエルライン中佐とレーマー少尉、そして運転手のランツ軍曹の3名だけです。残りはバルト海の船上であります。私は一早く、飛行機で到着したに過ぎません」
「それは残念だ。残念だよ」彼は長いため息を吐いた。「我が軍には対戦車戦力が欠けている。それを補う為にも、早急に戦車や対戦車砲を得たいのだよ。そうでなければ――」
「あっという間にフィンランド軍は崩壊――ですか?」
「あっという間?」マンネルヘイムは狼狽えたように顔を顰めた。
「ええ、本当にあっという間」ロンメルは言った。「報告ですと、EUの支援した戦車を併せても全軍の戦車保有台数は100輌に満たないと聞きます。それに対戦車砲は博物館並の骨董品だとか。このままでは、ソ連軍に屠られて終わりですよ」
マンネルヘイムは悲しげにぎゅっと唇を結んだ。
「いえ、その点に関しては対応策を出しています」アイロは言った。「『スペイン内戦』の折に使われた火炎瓶です。国内に生産プラントを数箇所確保しており、既にその増産を進めています」
火炎瓶――後に『モトロフ・カクテル』の名で知られるこの対戦車兵器は、スペイン内戦やノモンハン事件時にも活躍した。ガソリンエンジンの使用が大半を占めていたソ連軍戦車や装甲車のエンジン部にこれを投げつけることで、フィンランド軍はソ連機甲部隊を翻弄し、甚大な損失を与えた。
「では、それで急場をしのぐとして、第1緊急即応集団のⅢ号・Ⅳ号戦車や37mm対戦車砲の配備を急がせましょう」ロンメルは言った。「問題はラドガカレリア地区とフィンランド中部の防備です。フィンランドの守りが薄く、突破されるのが目に見えています」
「君の意見は?」マンネルヘイムは訊いた。
「第1緊急即応集団と、南北フィンランド軍の戦力を集めて第9軍を葬るべきかと。第9軍はその交通路事情から中部戦線に薄く広く配置されています。師団、連隊規模での各個撃破を進めていけば、第9軍は弱体化して崩壊します」ロンメルは言った。「ラドガカレリア地区への対処は第1緊急即応集団と第2降下猟兵師団以下空軍の空挺戦力で何とかします。空軍の空挺兵は精鋭揃いで、非常に優秀な対戦車兵器を優先的に保有しています。それにフィンランド軍のゲリラ戦術を併用すれば、カレリア地峡に対するソ連軍の攻勢は押さえられます」
「各個撃破か……」マンネルヘイムは唸った。確かに第9軍は排除すれば、ソ連軍のEUとの支援ルートを遮断する――という戦略は瓦解する。上手く持久戦に持ち込めるだろう。それにさらなる増援が加われば、今度はこちら側が攻勢に移り、第8軍も撃破できるかもしれない。
「但し問題もあります」ロンメルは言った。「増援と兵力配置の間、敵の侵攻を停滞させる必要があります。戦車の到着と揚陸作業にも時間を要しますし、空挺師団は空軍管轄ですので、私の一存で指揮は出来ません」
「何か策はあるのだろう?」マンネルヘイムは笑みを浮かべた。
「戦車の戦線到着は1週間後です。それまでは、乗用車を改造した偽装戦車や偽装迫撃砲を配置しておいて、ソ連軍の進撃を牽制します。また、スピーカーを用いてキャタピラの駆動音やエンジン音、さらには歩兵の行軍の足音を流すなどして、聴覚の面でも欺きます」
ロンメルの言う偽装戦車とは、軽自動車等に木製の板や棒を取り付けたものである。史実、ロンメルはアフリカ戦線でこれを使用し、イギリス軍に戦車の大群が来たと思わせて退却させた実績を持つ。その時には付随のトラックが砂塵をばら撒いて砂煙を上げ、偽装戦車とばれないようにしていた。今回はその役割を雪が担う。
「そして88mm高射砲を周辺に配しておけば、その圧倒的な破壊力が戦車によるものだと勘違いする筈です」ロンメルは言った。
88mm高射砲の対戦車使用は、既にドイツ陸軍の中で戦術研究の一環として進められていた。それは実験の域を出てはいなかったが、ロンメルは88mm高射砲であればありとあらゆる戦車を撃破できると確信していた。
「視覚、聴覚による欺瞞工作」マンネルヘイムは言った。「それはいいかもしれない。だが、空軍の問題にはどうやって対処する?」
「それは総統閣下に上申し、総統閣下からゲーリング元帥へ、ゲーリング元帥から現地指揮官へという形で解決していくしかないでしょう。時間を要すとは思いますが、既に総統閣下はその案を快諾してくれましたので――」
「元帥閣下!」アイロが2人の間に割って入り、蒼褪めた表情を向けた。「緊急事態です元帥閣下!」
「どうした」マンネルヘイムは言った。
「先程、ドイツ空軍からの緊急報告を受けました」アイロは言った。「ソ連空軍による空襲です。ヘルシンキ以下各都市に爆撃機が向かっています!」
ロンメルとマンネルヘイムは互いに顔を見合わせた。
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