第57話 賽は投げられた
第57話『賽は投げられた』
1942年11月30日
東京府/千代田区
霞ヶ関の一角、海軍省は1丁目2番地1号、現在の農林水産省の敷地に建っていた。『赤レンガ』の俗語で海軍内に知られるその施設はイギリス人建築家、ジョサイア・コンドルの設計によって築かれたもので、ヴィクトリアン・ゴシックの雰囲気がある。
この日、そんな煉瓦造りのこの建物の海軍大臣執務室には、山本海相と山口多聞海軍少将の姿があった。部屋の真ん中には彫刻の施された長いテーブルが置かれ、そのまわりには、部屋の雰囲気からすると少々華奢な感じの椅子が並んでいた。そしてその部屋の全てを、見事な東郷平八郎の肖像画が見おろしている。
山本がデスクに座り、粛々と書類整理をしている間、山口は東郷平八郎を仰いでいた。黒いフロックコートの正装が黄土色の肌と口や顎に蓄えた白髭と黒い瞳を引き立てている。胸には幾つもの勲章がちりばめられていて、それらが誇らしげに輝いている。一方の東郷平八郎は威厳に満ちた顔をしていたが、それは画家による意図なのか、不機嫌にも冷徹にも見えるよう描き出されていた。
「――提督、山口提督」
はっと我に帰り、山口は呼び掛けの声の先を見据えた。
「いやはや、つい夢中になってしまいました」山口は微笑して言った。『鬼多聞』の異名を持つ彼にしてみれば、珍しい顔である。少なくとも、10月までの海上生活で彼はこんな顔を一度も見せたことが無い。「偉大な方です、東郷元帥というのは」
山本は頷いた。「しかしそんな栄光も、帝国が灰塵に帰せば意味を成さないのだよ」山本は神妙な顔を浮かべた。「つい、一週間前まではそんなことも考えんかったよ。世界戦争が再勃発してしまう――とは」
1942年11月26日午後、『マイニラ砲撃事件』が史実通りに勃発した。
事件の舞台は“マイニラ”と呼ばれるフィンランド-ソ連国境線上に位置するソ連の辺鄙な村である。この何の変哲も無い村落に訪れたのが――フィンランド軍の榴弾だった。このフィンランド側の砲撃でカレリア地峡付近の国境線を防衛していたソ連軍兵士13名が死傷するという事件はソ連側から発表され、それを口実に『カレリア地峡付近の国境線からのフィンランド軍の後退』という一方的な要求をフィンランド側に求めたのである。
無論、フィンランドがそのような要求を呑める筈も無かった。元々、今回の『マイニラ砲撃事件』はソ連による自作自演で、ソ連軍兵士13名を死傷させたのもソ連軍の榴弾であった。フィンランドは外交的解決を望み、共同調査を要求した。
しかしソ連はフィンランド側の要求を退け、同日、1932年に締結した『ソ芬不可侵条約』の破棄を通告してしまった。そして29日には国交断絶を通告し、ソ連軍の越境、侵攻が開始された。時に明日、1942年11月30日のことである。
「ソ連というのは、これまでにもフィンランドの批判キャンペーンを展開していたと聞きますが」山口は言った。「外交的な面では沈黙を続けていたと聞きます。今回の一件は外国の目を惹きつけ過ぎでしょう。少々横暴が過ぎる……というものですな」
「スターリンの暴虐は今に始まったことじゃない」山本は言った。「粛清、強制労働、情報統制。例に挙げ切れない横暴がソ連国内では続けられていたんだ。むしろ、犠牲が13人に済んだのが奇跡というべきだろうよ。奴なら村1つ滅ぼしかねない」
「奴は何を狙ってあの小国に戦争を仕掛けたのでしょうか?」山口は訊いた。
「さぁて」山本は言った。「特に意味はないと俺は思うね。フィンランドの戦略的価値は確かにあるが、EUの軍事拠点としては制約が大き過ぎるから必ずしも使えない。あの国は駐留軍を許さないオブザーバー国だからな」
山本は顎を擦った。「マンネルヘイム防衛線とか、バルト艦隊の障害の排除とか、EUの援助で造ったロバニエミ空軍基地とかは確かに有用だとは思うがね。それにしたってたかが知れてるというもんだよ。むしろスターリンはそういう設備とかフィンランドの資源とかじゃなくて、EUと全面戦争に打って出る時の保険が欲しかっただけなんだよ」
いわばソ連にとって、フィンランドは敵軍の侵攻路だった。
史実、ソ連はナチス・ドイツの急激な『東進政策』に怯えていた。ドイツはチェコスロバキアを解体し、オーストリアの併合を実現させるなど、東欧への進出を進めていて、将来的にはソ連領内へ侵攻することも視野に入れていた。
その中で、ソ連はフィンランドがドイツ軍の侵攻拠点とされることを危惧した。ドイツがソ連との戦争を行うにあたり、そのドイツ軍の左翼がフィンランドを通ってソ連領内に攻め込んでくる見込みがあるとして、安全保障体制の確立のためにフィンランド島嶼の割譲を内密に要求していたのである。結局それは実現せず、39年の『冬戦争』に至る。
「スターリンは臆病者ですね」
「“病的”な程にな」山本は言った。「だからこそ粛清なんてことをやっているんだ。スターリンの考えはどうか知らんが、ソ連の人民と軍需産業が本腰を入れたら、EUだろうがアメリカだろうが、敗北を喫してしまうだろうよ」
山口は咳をした。「で、ご用件とは?」
「あぁ、すっかり話込んでしまったな」山本は言った。「山口少将、君を『遣欧艦隊司令官』に任命する。第一航空戦隊並びに第三航空戦隊を中核とする1個機動艦隊を指揮し、フィンランドにて悠久の大義を貫いて作戦を遂行せよ」
当の山口は――呆気に取られていた。
「だが、悠久の大義を読み間違えるなよ。君には陛下より預かった『遣欧艦隊』と乗員をヨーロッパの海に沈めさせない責任がある」山本は言った。「無論、その守るべき乗員の中には君も含まれていることを忘れるな」
史実、『悠久の大義』という言葉に良い意味など無かった。本来は『国家・天皇への忠義』を意味するなのだが、大抵その言葉は『死』や『犠牲』を伴っているからである。
「これは……その……何というか……」山口は途切れ途切れに言った。「ですが、私は“少将”です。1個艦隊を指揮出来ません。『艦隊参謀長』や『戦隊司令官』なら分かりますが……」
山本は頷いた。「そうだ。だから君には『戦時特例』に則って“中将”に進級してもらう。それなら異存はなかろう?」
「戦時特例?」山口は聞いた。信じ難くて聞き返したのだ。
「今年決まったものだ」山本は静かに言った。「君がその第1号だよ、山口少将。いや、中将か。未だ正式なものではないから、そうホイホイと進級もさせられんのが残念だがね。だが、帝国海軍の年功序列制度では、秀逸な人材も活かされんというものだよ」
史実、帝国陸海軍では『年功序列制度』が根強く残っていた。これは卒業年次が人事異動における絶対基準とされ、先の卒業生を後の卒業生が追い越しような昇格は許されなかった。
では、先の卒業生が同じ階級に居続けた場合はどうなるか。その場合は、先の卒業生はとっとと予備役に編入され、その席を後輩達に譲るのである。こうなってくると、もはや病的と言わざるを得ない。とにもかくにも帝国陸海軍はそうやって人事を決めてきた。
今回決まったという『戦時特例』は、そんな軍を根底から覆す新たな試みといっていいものであった。戦時に限り、有能なものを追い越し昇格させ、要職へと優先的に着ける。ただ、逆に失敗続きのものは、積極的に降格させる――とまではいかなかった。しかしながら、これは『第2の南雲』の到来を予期させるものだった。
「し……しかし……」
山口は渋った。特例とはいえ、帝国軍の上下関係は世界に誇るものだった。いうならば、この人事は誇りを捨てさせるものである。
「何だね。司令官職は要らんのかね?」山本は言った。「まぁそういうなら、他にも候補がいるから、私としてもいいのだが――」
「いえッ!謹んで、拝命致します!」
山本は笑みを浮かべ、琥珀色に輝くウィスキーを山口に勧めた。
1942年11月30日
イギリス/ウェストミンスター地区
ホワイトホール――と呼ばれるこの道は、『イギリスの霞ヶ関』と言うべき官庁街だった。パーラメント・スクエアからトラファルガー広場にまで至る通りに面して政府の各省庁の建物が立ち並んでおり、政府の中枢というべき道だった。その道、ホワイト・ホールという名称の由来は1698年に焼失した『ホワイト・ホール宮殿』だが、今やその姿は無い。
その日、軍高官を乗せた公用車がこのホワイト・ホールに長大な一列を築いた。その内、パーラメント・スクエアから進入した車列には、イギリス海軍本国艦隊司令長官のジョン・C・トーヴィー大将や北アフリカのEU第8軍を指揮するバーナード・モントゴメリー中将の乗車する車もあった。彼らは夜中や朝方に叩き起こされ、このホワイト・ホールの一角にある『国防省』へと召集されたのである。
最初に目に飛び込んできたのはケンブリッジ公爵ジョージの騎馬像だ。パーラメント・スクエアからホワイト・ホールへと至る道の入口に鎮座している。馬にまたがったイギリス陸海軍最高司令官がトーヴィーには慈悲深い目で自分を見下ろしているように見えたが、モントゴメリーには威厳に満ちた、将来を有望するような目で自分を見おろしているように見えた。道はやがて十字路に行き着き、右に曲がると壮麗な国防省庁舎が眼前に溢れ返った。
「……ジョン・クローニン・トーヴィー大将」
そう告げたのは、イギリス首相アンソニー・イーデンだった。「ついにソ連は我々EU諸国に宣戦布告を叩き付けた。貴官の意見を聞きたい」
「はッ。私の見解ですが、このまま何もせず動かないというのは得策とはいえないでしょう」トーヴィーは言った。「フィンランドという同盟国が不当な攻撃を受けたのです。これはEU憲章にも明記されている『外の敵』からの攻撃です」
「では、即時に艦隊を派遣すべきと?」
トーヴィーは首を振った。「いえ、首相閣下。これは海軍に限る問題ではありませんが、戦争拡大や今後の補給体制の確立を考えても、形振り構わない行動は慎むべきです。ここはあえてドイツに先鋒を任せ、我々は中堅としての最大の努力を成し得ましょうぞ」
「ならば可能な範囲で艦隊を送ることとしよう」イーデンは言った。「しかるに、海軍からどれほどの戦力を割けるかね?」
「まず、東洋艦隊に派遣した『リヴェンジ級戦艦』を2隻と、巡洋戦艦『レナウン』は引き戻すべきだと思います。それに派遣が決定していた空母『イラストリアス』はとりあえず、本国に残留させます。地中海艦隊からは空母2隻と戦艦の一部を引き上げさせ、本国艦隊に加えましょう」トーヴィーは言った。「問題は『フッド』です。現在、41cm砲への換装と装甲強化がなされていますが、戦線復帰にはまだまだ時間を要します。ですから、フッドは今戦争には除外すべきかと」
「潜水艦部隊はどうする?」
「ドイツ海軍のUボートと連携を固め、ソ連軍艦への攻撃を開始させます。通商破壊作戦が今回、功を奏するかどうかは正直わかりませんが……」トーヴィーは言った。「何しろ、奴らは陸続きで膨大な物資を送り込んできます。フィンランド湾が機雷封鎖されたとなると、バルト艦隊との直接対決はずっと後になるでしょうね」
「それだよ、トーヴィー大将。私が危惧しているのは」イーデンは言った。「旧式艦ばかりとはいえ、奴らも海軍には違わんのだ。勝算は如何ほどかね?」
「ロイヤル・ネイヴィーはいつも世界最強であります!首相閣下」トーヴィーは声を張り上げて言った。「戦艦が砲を並べ、航空機が制空権さえ確保すれば、万事全てが上手くいきましょう」
イーデンは頷き、窓からロンドンの朝陽を仰ぎ見た。
1942年11月30日
ドイツ/ベルリン
所変わってベルリン、フォス街の総統官邸。朝を心地良く目覚めるに至ったドイツ総統アドルフ・ヒトラーは総統執務室で横一列に並んでいる3人の男達の前に立ち、窓のカーテンを豪快に開け放った。ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ陸軍上級大将、エーリヒ・レーダー海軍元帥、ヘルマン・ゲーリング空軍元帥の陸海空三長官は微動だにしなかったが、目は絶えず動いていた。
「諸君、遂に私はドイツの黎明を示したぞ!」
ヒトラーの言葉に、3人は目を白黒させた。
「総統閣下、それは一体……」ブラウヒッチュは言った。
「それはつまり――我が国はEU加盟国のどの国よりも早く、ソ連に宣戦布告したということだ」ヒトラーは言った。「宣戦布告の通告は現在時刻の午前6時00分、リッベントロップの使節団がスターリンに送り付けた。眠りを乱されて、あの男はさぞ怒っていることだろう。ソ連の外交官に粛清の嵐が吹くかもな」
3人は顔を見合わせた。
「一体何故?」レーダーは言った。「EUでは、オブザーバー国に対しては『軍事支援』という名目での介入のみが原則とされ、敵対国への直接の宣戦布告はしなくていいと明記されています。我が軍は新兵器開発とその導入態勢の構築の為、三軍ともにまだ戦力が整っていません。ソ連との全面戦争は時期尚早です」
「レーダー元帥、君は大げさだよ。問題無い」ヒトラーは言った。「野蛮な北方民族が西ヨーロッパという聖域に踏み込んだのを、ただみすみす傍観する気かね?それがEUかね?『集団的防衛』という理念に沿わないではないか」
「いえ閣下、私が申し上げたいのは――」
「レーダー元帥、総統の命令は絶対だよ」そう言ったのはゲーリングだ。「相手は力押しが自慢のソ連赤軍だ。あんな奴ら、華麗且つ大胆な我がドイツ軍の足元にも及ばぬ虫けらだよ。フィンランド戦線での制空権を私が取り、バルト海と北海の制海権を君が取れば、もはや隔たる障害は消え失せよう。ブラウヒッチュ君がしかるべき制裁を地上の野蛮人共に思い知らせてくれる」
ブラウヒッチュは嫌々ながら頷いた。
「しかるのち……」ヒトラーは言った。「しかるのちフィンランドで一定の決着が着いたら、我々は更に東へとその進路を進める。ソ連領内だ。そしてスターリンと取り巻き共の居るモスクワまで赴き、今回の償いをさせてやろう」更にヒトラーは続けた。「そして建国するのだ。『東方ゲルマン帝国』を!」
「ハイル・ヒトラー!」ゲーリングは叫んだ。
「ハイル・ヒトラー!」ブラウヒッチュも続けて叫んだ。
「……ハイル・ヒトラー!」渋々、レーダーも叫んだ。
ヒトラーは満足したように頷いた。「ブラウヒッチュ上級大将、守備はどうだ?」
ブラウヒッチュは頷いた。「上々です。ロンメル中将の第1緊急即応集団を乗せた船団はドイツを発ち、明日にもフィンランド入りをはたします」
「ゲーリング元帥、空軍はどうか?」
「ロンメル中将の第1緊急即応集団傘下におります第2降下猟兵師団が、当時国フィンランドを除けばEUでもっとも早くフィンランド入りを成し遂げた戦力となります。次に続々と降下猟兵師団がフィンランドの各都市へと降下をはたし、フィンランド軍とともに防衛体制の構築に移りました」ゲーリングは言った。「更に、ロバニエミ以下フィンランド空軍の各飛行場に爆撃機、攻撃機を配置。メッサーシュミット、及びフォッケウルフの戦闘機パイロット達は、ソ連空軍との対決を心待ちにしています」
ドイツ軍のフィンランドにおける基本戦略はまず、ロンメルの第1緊急即応集団と空軍の降下猟兵師団を中心とした先鋒を各都市、並びにマンネルヘイム線上に集中配備して防衛体制を構築。続いて『ヒトラーの火消し屋』の異名を持つ防衛戦の天才、ヴァルター・モーデル大将の第3集団が中堅としてフィンランドの防衛体制を盤石化、そして予備兵力を逐次投入し、防衛しつつもソ連への侵攻を目指す――というものだった。ヒトラーはそうして、フィンランドを橋頭堡にソ連へと侵攻しようと画策していたのである。
「レーダー元帥、海軍はどうだね?」
「UボートというUボートをバルト海、及び北海に投入し、狩りを開始しました」レーダーは言った。「『ビスマルク』、及び『ティルピッツ』を主軸とする派遣艦隊を編成し、我が海軍初の空母『グラーフ・ツェッペリン』も投入しました」
ヒトラーは頷いた。「ついにドイツは空母を持ったか」
「えぇ、しかしながら『Z計画』はまだ未完遂であります」レーダーは言った。「私が危惧しますのも、それが要因にあります。我が海軍は主力艦を殆ど保有していません。ソ連の貧弱な海軍ならともかく、今回の一件でアメリカなどが介入するとならば大問題だからです」
ヒトラーはかぶりを振った。「それは杞憂というものだよ、元帥。アメリカとソ連というのは、水と油だ。決して交わらんものなのだ」
「ですが、油に水を注げば、油に着いた炎はより燃え盛るものです」
「なら、空気を抜いてやるまでだ」ヒトラーは言った。
1942年11月30日
アメリカ合衆国/ワシントンD.C.
時にイギリス人によって焼き払われ、時に白ペンキを塗ってその焼き跡を誤魔化したという歴史を持つ大統領官邸『ホワイトハウス』は、再び新たな歴史をその身に刻もうとしていた。第32代合衆国大統領のフランクリン・D・ルーズベルトの提案により、『イーストウィング』を増設することになったのだ。防空壕を備えたそれは、不況に喘ぐ人々に雇用を与えるという意図もあって計画された。
EUに経済上の締め出しを食らったアメリカ合衆国の上向き傾向にあった経済は、急降下していた。海外向けの輸出が滞ってしまったことと、『チェンバレン・チャーチルショック』がいまも尾を引いていたからだ。各地で暴動やデモが勃発、数千万単位の人間が動かないということによって産業活動は停滞し、消費は委縮した。すると“不思議”なことに収入は減少して支出が増大した。
この“不思議”な状況を脱する方法を、ルーズベルトは心得ていた。戦争である。
「ミスター・プレジデント、本当にソ連に軍事支援を?」
陸軍長官ヘンリー・L・スティムソンは眉を顰めて訊いた。
「スティムソン君、フィンランドは本当に砲撃したのだよ。ソ連側にね。その事実において、どちらが正義か悪かははっきりするじゃないか」
「その言葉は本気ですか!?」スティムソンは悲鳴に似た声を上げた。「あんな茶番劇を本当に信じるんですか。貴方はスターリンみたいな大根役者がお好きなのですか。フィンランドの悲劇の主人公の方が、よっぽと上手い演技ですよ。まるで“本物”みたいにね!」
「さて、君に批評の才能があったとは驚きだ」ルーズベルトは言った。「そこで劇を見た君は左隣に座っている男の姿を見なかったかね?彼の名は“アメリカ”だ。ついでにいうと、右隣に座っている人相の悪いちょび髭の男の名は“ドイツ”で、背後からナイフで刺された可哀想な老人の名前は“イギリス”だよ」
「全身真っ赤っ赤で体の芯まで冷たい“ソビエト”なら、舞台裏でファンの老人と握手を交わしていますよ。老人の名前を教えましょうか?」スティムソンは皮肉を込めて言った。
「いや、結構だ。私が何を言いたかったかというとだ」ルーズベルトは言った。「アメリカは今や死亡宣告同然の体なのだ。経済は立ち直らず、国際的信用を失い、孤立してしまった」
「だからといって――」
ルーズベルトは頷いた。「だからといってソ連と手を組むのか――と聞かれれば、私はそれに『イエス』と答えよう。ドイツの不正を正し、世界を元の秩序あるべき世界に還すのが我々の責務だ。そのためなら、いまさら手段は厭わんよ」
「しかし……」スティムソンは言った。「しかし共産主義者に手を貸すのはやり過ぎでしょう。あまつさえ、軍需品を奴らに渡すなど言語道断です」
「『昨日の敵は今日の友』というだろ?」ルーズベルトは言った。「我々は中立を守るが、軍需品の供給をソ連に向けて行う。どうせEUは公には買ってくれんだろうし、買ったとしてもその数は知れてる。建前上はソ連が悲劇の主人公な訳だから、既に敵と思っているEUはともかく国内の人間には、それを前提として言いくるめてやるさ」
「国民は憎むでしょうね」
「憎めばいい」ルーズベルトは言った。「憎しみはやがて金に代わる。ソ連が軍需品を買い、その特需が生まれれば経済は立ち直るだろう。戦争の推移によっては参戦し、更に経済は復興するだろう。最終的にドイツの不正が暴かれれば、我々の勝ちなんだからな」
「分かりました、ミスター・プレジデント」
ルーズベルトは頷いた。「では、スティムソン君。報告を聞こうか」
1942年11月30日
中華民国/延安
中国大陸を貫くように流れる黄河の上流や中流域に広がるおよそ40万~50万平方Kmの規模を誇るその高原は、岩石の多い山地を除きどこまでも黄土色の大地が広がっている。黄土の高原には、まばらに草木が生え、緑の川が何本か広い間隔をあけてくねくねと縞模様を描いていた。
そこは俗にいう『黄土高原』であった。黄土高原はその名の通り黄土で覆われた高原で、炭酸カルシウム・リン・カリウム・ホウ素・マンガンといった農作物を生育するのに必要な栄養分を豊富に含んでいる。故に黄土は洪水などを経て堆積し、土地を肥やして農耕文化や黄河文明誕生の一因となった。一方で、膨大に生育していた森林は要塞、長城、武器といった戦争の道具に利用され、多くの国家を滅ぼしてきた。また、数多の戦争の舞台となり、多くの屍とともに不毛の大地を築かれていった。
不毛の土地といえば、黄土高原には水が無い。年間降水量は400mmに満たず、地下水脈はあっても深過ぎて入手するのは困難であり、黄河はあっても他の河川は貧弱なものしかない。よって、水の確保は長大な黄土高原に住む人々にとっては、死活問題なのである。
一方で『自然環境』というもう1つの死活問題も存在した。黄土高原は内陸に位置するため夏は35度を超す酷暑で、冬は零下20度を下回る酷寒という厳しい自然条件なのだ。黄土高原に住む人々はそういった問題を解決する為、『窰洞』と呼ばれる横穴式住居を造った。井戸水の温度が一年を通じてあまり変わらないように、地下の家は夏涼しく、冬は暖かく、黄土高原の厳しい自然から人々を守っている。
そんな窰洞の恩恵を毛沢東も享受していた。『長征』――と呼ばれる中国国民政府から逃れるために1934年から1936年の2年間にかけて行われた中国共産党の脱出と再編の取り組みは、結果的な大勢の死者と共産党の新たな拠点を生み出した。それが――『窰洞』であった。
共産党は『長征』を英雄叙事詩的に仕上げて、「長征の過程で多くの革命根拠地を設営し、数千万の共産党シンパを獲得した。そもそもが戦略の失敗で始まった長征であったが、巨大な革命の種まき期であった。物資の調達などで略奪を厳禁したので、このことによる中国共産党に対する人民の信頼を勝ち得た」と宣伝した。実際の所、中国ソビエト共和国が潰え、活動拠点が首都瑞金から辺境の穴ぐらに代わってしまったことを考えれば、『終わりよければ全て良し』とはお世辞にもいえなかった。『信頼を勝ち得た』と自負する点についても、実際は人民裁判による地主・資本階級の処刑と資産没収、そして小作人からの『革命税』の徴収によって食いつないできたというのが実態であり、一概に『信頼を勝ち得た』とは言い難い。
そして、そのことをもっとも意識していたのは中国共産党の毛沢東であった。毛は共産党内の深刻な食糧不足によって痩せ細り、着ていた軍服はサイズが合わなくなってきていた。黒ずんだブリキのコップを手にベッドへと腰を下ろし、水を飲み干す。やがてコップの表面に付いた露が滴り落ちた。
「主席閣下!」
食糧不足にも関わらず恰幅の良い共産党員、李国貴が慌ててやってきた。髪はボサボサで臭いがした。薄暗い静かな部屋に居た毛は不意に現実へと引き戻された気がした。
「何だ、騒々しい……」
「急報です!ソ連とフィンランドが戦争に突入しました」
李の言葉を聞いた毛は一瞬仰天したような顔をしたが、すぐにまた平然とした表情を取り戻した。疲れた老人のような顔である。
「これで我々もこの穴ぐらからさよならできますね!」
「穴ぐらも住み慣れれば悪くない。我々みたいな鼠にとってはな」毛はうんざりしたように言った。「フィンランドとソ連が戦争に突入して、お前は何でそんなに喜んでいられる?」
「しゅ……主席閣下」李は呆気に取られながら言った。「今回の一件はソ連がついにEUと全面戦争に打って出たからではありませんか。これで『日本』と『中華民国』は名実共に敵となったのです。ソ連軍が中国大陸を南下する日もそう遠くないでしょう」
「スターリンは我々を生かしても活かす保障は無い」毛は言った。「例えソ連が今回の戦争に勝利し、中国大陸を我々とともに征服したとしても、満州国のように飾りだけの傀儡政府に成り下がるのが関の山。あの男にそれ以上を期待するのは止した方がいいぞ」
李の目を、かすかな驚きがよどった。毛沢東は何もかも承知なのだ。
「とはいえ、ソ連と合流するのも手かもな」毛は呟いた。「よし、近く遠征に行くとしよう。今の時期は本当に好都合だ。あの“王明”はモスクワに出張中だからな。奴の居ない内に事を進められるのは、実に好都合だ」
この時、中国共産党員の王明――一時期、中国共産党の最高指導権を掌握した男――はある理由からモスクワへ行ったということになっているが、実際に彼が向かったのは日本であった。これは日本で匿われているボルシェビキ――レフ・トロツキーと会うためであった。トロツキーはそれまでドイツに居たが、SSやゲシュタポの捜査網が迫っているのをアプヴェーアが察知し、駐独武官にして『大和会』の一員、品川海軍大尉の手引きによって日本入りしたのである。コミンテルンの力では毛には勝てないと考えた王明は、『第4インターナショナル』の代表であるトロツキーと日本からの協力を得て中国共産党内の主導権を奪回し、中国国民党と国共合作を結んでソ連を撃退、それによって中国共産党を復興し、指導者の地位を確固たるものにしようと画策していた。
「では、始めるとしようか」
毛は立ち上がり、蟹股で部屋を後にした。
1942年11月30日
ソビエト社会主義共和国連邦/モスクワ
旧ロシア帝国の遺産、ロシア語で『城塞』を意味する“クレムリン”は現在、共産主義の根城として機能していた。南をモスクワ川、北東を『赤の広場』、北西をアレクサンドロフスキー公園によって囲まれたほぼ三角形の形をしている。城塞に囲まれた構内には、大小新旧の宮殿、聖堂、そして20の塔が立ち並んでいる。その一角である『カザコフ館』――かつての元老院――にはソ連最高権力者がその執務室を置いていた。
ソ連の最高権力者、ソ連共産党中央委員会書記長のヨシフ・スターリンは、まるで短剣のように細くて鋭い眼光を取り巻き達に振りかざした後、巨大な円卓に広げられた世界地図を見た。そこに広がるのはソ連が中心の世界であり、アメリカやイギリスが辺境に追いやられた世界であった。スターリンはゴブリンのような醜い鼻をフンと鳴らして、腕を組んだ。
「ドイツの腐れヒトラーめ。宣戦布告するも苛立つが、あまつさえ儂の眠りを妨げおって!」スターリンは唸った。「フィンランドはEUへの見せしめにしてやろうと考えていたが、こうなると大幅な修正が必要なようだな」
スターリンはご立腹だった。午前6時に行われた宣戦布告により、スターリンの側近達はそのことをスターリンに伝えなければならず、就寝していたスターリンは無理矢理起こされたのである。その起こされたことと、ドイツが宣戦布告を成してしまったことに激怒したスターリンは、眠りを妨げた共産党員の1人にその怒りをぶちまけた。結果として、そのスターリンを起こした共産党員は少なくともクレムリンから姿を消した。
「ヴォロシーロフ、どうだ。対抗し得る戦力はあるか!」
「はい、同志スターリン」ソ連国防人民委員(国防大臣)にして、ソ連邦元帥のクリメント・ヴォロシーロフはきびきびと答えた。「EUによる軍事支援を予想し、予備戦力を十分に用意しております。万が一、戦況が悪化しても農民などからの徴兵で、十分に補填して戦争を遂行出来ましょう」
但し、ソ連陸軍に『電撃戦』という概念が無く、史実よりも烏合の衆に近いものであった。そんなものが何十、何百万いたとしても、フィンランドという大規模戦に向かない地理的条件を含んだ今回の戦争は、ソ連にとっては過酷な戦争であった。
「問題はドイツの重戦車だ。確か……『ティーガー』とかいう」スターリンは言った。「勿論、勝てるんだろうな?」
「はい、同志スターリン」ヴォロシーロフは言った。「現在、陸軍では『T-34』新型中戦車の製造と、対ティーガーの重戦車の開発を進めております。ティーガーは88mm戦車砲を搭載する怪物ですが、製造はまだまだ先でしょう。我が軍がそれまでに対抗重戦車の製造まで漕ぎ着ければ、この戦争は我々の手の内です」
スターリンは口髭を擦った。「よし、しくじるなよ」
「同志スターリン、質問があります」
ヴォロシーロフは言った。「アメリカが我が国に支援を行う――というのは本当なのでしょうか。今後の戦略のためにも、真偽の程をはっきりしたいのです」
スターリンは頷いた。「事実だ。アメリカはささやかな“プレゼント”を送ってきた」スターリンは言った。「M3軽戦車やM3中戦車、P-40『ウォーホーク』にP-38『ライトニング』だ。アメリカも洒落たプレゼントを送ってきてくれたもんだ」
「奴ら、何を考えているのでしょうか?」
スターリンはヴォロシーロフに笑みを浮かべた。「我がソビエトとアメリカの溝は深いが、その幅が広いとは限らない。その幅にしても、手を伸ばせば、かろうじて手と手を触れ合せるだけの余裕はあろうよ」
1942年11月30日
イタリア/ローマ
首相官邸であるキジ宮殿でのベニート・ムッソリーニの気に入っている点は、『マルクス・アウレリウスの記念柱』がたえず目に出来たことである。『トラヤヌスの記念柱』に倣ったもので、五賢帝の1人、皇帝マルクス・アウレリウス・アントニウスの栄誉を讃えたものである。円柱はカッラーラ産大理石のブロックから構成され、内側には螺旋階段が掘られている。また、外側には螺旋状のレリーフが刻まれ、マルコマンニ戦争の物語が描かれていた。
「閣下、ドイツがソ連に宣戦布告しました」
イタリア陸軍参謀総長、ピエトロ・バドリオ大将は言った。「ドイツは軍の派遣を決定し、第1緊急即応集団と降下猟兵師団による緊急展開を開始。また、イギリス陸海空軍には厳戒態勢が敷かれ、既に先発の海兵隊召集が始まっています」バドリオは言った。
「で、君は何か違和感を覚えているんじゃないのか?」
「えぇ」バドリオは言った。「何故、ドイツは宣戦布告を……」
「愚か……というべきかね?」
バドリオは頷いた。「あえていうなら」
「むしろこうなるのが遅すぎたと予は思う」ムッソリーニは言った。「どれだけ時間的・戦力的余裕が無くても、ドイツは“1942年”までに戦争をしなければならないからだ」
「戦争を……ですか?」
「あぁ。これはヒトラーの私利私欲という訳じゃないぞ」ムッソリーニは強調した。「ドイツは戦争を起こして、敗戦国から資産を獲得しなければ経済が崩壊してしまうんだよ、来年までにな。何故なら、ヒトラーはドイツを復興するために膨大な負債をしたからだ」
ヒトラーはケインズ政策――国家が公共事業を始めとする投資をして、有効需要を生み出す――を実行した1人であった。このケインズ政策には、通貨発行量の増大するので通貨紙幣の下落、いわゆるインフレが発生するものだが、ドイツ国立銀行総裁と経済相を兼任していたヒャルマー・シャハトはインフレを抑えて好況を実現し、溢れ返っていた失業者を激減させたために『マルクの魔術師』と呼ばれた。
しかし、このマルクの魔術師の扱うものは大きな代償を負うものであった。『アウトバーン』や再軍備といった事業には巨額の資金が必要だったが、この財政は適正な財政規模を遥かに上回る巨額の赤字国債で賄った。しかしこれでも賄いきれなくなると、『メフォ手形』を導入した。
メフォとは『金融調査会社』のことで、いわばダミー会社である。兵器購入をする時、このメフォ社を通してしか購入出来ない仕組みにし、代金は全て『手形』で支払った。但し、これは国立銀行によって完全に保証する。
手形の償還期間は3ヶ月だったが、期限がくると自動的に3ヶ月延長され、5年まで延長を繰り返すことが出来た。これは確かに一種の国債による方式での通貨増発を伴わないので、インフレは起こさないが、いわば『偽装国債』であった。その為、一般には会社の性質は機密とされた。
1934年から1937年に渡り、ヒトラーはその性質をいいことにメフォ手形は増刷され、総額は204億マルクにも上った。しかし既に1930年半ばからは、欧米のあらゆる所で流通して、償還するにも償還できない程、莫大に発行されていた。その為、その莫大な手形を現金に換えるには、ドイツをハイパーインフレに再突入させるほどの通貨を刷らなければならなくなったのである。
ただ唯一、ハイパーインフレ以外にメフォ手形の負債を償還する方法があった。――『戦争』である。戦争によって敗戦国から資産を奪取し、負債を償還出来る。実際、史実でもヒトラーはこの問題を解決すべく、東ヨーロッパへの占領政策を推し進めた。
「ヒトラーに残された最後の選択は戦争だ」ムッソリーニは言った。「ドイツが日本や我が国に『パンター戦車』といった兵器のライセンス生産権を売った理由には、危機的な経済を救う『外貨』取得もあるだろう。いや、むしろその一点に絞られているのかもしれない」
「では、ドイツは全面戦争を?」
ムッソリーニは頷いた。「このフィンランドの一戦線で終わらせる気はないだろう。ポーランドがソ連との全面戦争を恐れて宣戦布告をしていない以上、ドイツはポーランドや他の中立地域からソ連に侵攻出来ない」ムッソリーニは言った。「と、なるとドイツに残された道はフィンランドだけだ。フィンランドを橋頭堡に、ヒトラーは最後の一兵が死ぬまで戦い続けるだろう」
「我が国はどうします?」バドリオは言った。「私としては、積極的な介入は反対です」
ムッソリーニは頷いた。「予も同意見だ。我が国には時間的余裕も、財政的余裕もあるが、軍事的余裕はない。その軍事的余裕の欠如は多岐に渡り、技術的不足・人員的不足、経験的不足が挙げられる。せいぜい、漁夫の利を狙うとしよう……」
ムッソリーニは立ち上がり、窓の外を仰ぎ見た。
「――Alea.jacta.est(賽は投げられた)」
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