第56話 東條死すとも日本は死せず
第56話『東條死すとも日本は死せず』
1942年10月4日
東京府/世田谷区
用賀1丁目。ほんのりと黄を混じらせた薄紅色が、濃黒の闇を1枚ずつ剥がしながら、穏やかに暁鐘を鳴らす。それが天の上のこと。しかし地は違う。むせび泣くようなサイレン音が鳴り響き、夜気を引き裂いた。漆黒に包まれていた大地には人工の光が灯った。また1つ。さらにもう1つ。やがて一軒の邸宅が数え切れないほど沢山の小さな光に満たされた。直径数cmから数mまで、各種様々な光芒がちらちらと瞬いている。
その時、伊藤整一を乗せた黒塗りの公用車は世田谷の住宅地を爆走していた。目的地に到着すると、伊藤は急いで車を降り、警察車両や軍用車両の犇めく横道に出た。警察官と憲兵が睨み合う只中を潜り抜けて、封鎖線の内部に入った。すると、現場の警察官を率いる岡警部補と憲兵隊を率いる中溝中佐の姿が視界に飛び込んできた。
「先刻連絡を入れた、帝国海軍の藤伊中将だが……」
仁王立ちしていた2人ははっと振り返り、その藤伊中将と視線を合わせた。
「承知しております、閣下」中溝は言った。「どうぞこちらへ」
警察と憲兵隊の両者は対立しているが、実質的に現場を支配しているのは憲兵隊だった。何しろ今回の事件の被害者は陸軍関係者であり、それも中将だったから当然といえる。そんな中を全くのお門違いの海軍中将が介入出来たのは、やはり『大和会』あってのことだろう。もっとも、今回の事件は『大和会』に関わるものだったから、お門違いともいえない。
「これか?」
書斎の一角に敷かれた、純白の布を指して伊藤は言った。布は若干膨らんでいる。「顔を見ても?」伊藤は訊ねた。
「大丈夫です」中溝は答えた。
伊藤は1本の指でそれに触れてみた。布のさらさらした表面の下から、冷たげな感触が伝わってくる。そして静かに布を捲り上げると、その中を恐る恐る覗いた。
伊藤は眉を顰めた。「やはり……」
中溝は頷いた。「東條閣下は――死去なさいました」
――『東條英機暗殺事件』
後世にも語られる今回の事件は、帝国陸軍史を震撼させる一大事件であった。
事の成り行きはこうだった。1942年10月3日午後、東京は世田谷区用賀に私邸を構える東條英機陸軍中将は、土曜日ということもあり私邸で休暇を取っていた。そこに共産主義者の暗殺者が侵入、持っていた拳銃を東條に発砲し、逃亡した――という。これにより東條は死亡、帝国陸軍も共産主義者に中将――それも新職の『陸軍航空総監』を暗殺されてしまったということで、面子が立たなかった。犯人はその後、陸軍の懸命な捜索によって捕縛され、尋問の末に犯人は自殺してしまい、事件は収束する。
「腑に落ちませんな」
事件の数日後、藤伊邸に訪ねた山本海相が発した第一声がそれだった。
「……腑に落ちないとは?」伊藤は鋭い口調で訊いた。
「何故、共産主義者が一介の……それも変哲も無い陸軍中将を暗殺しますか?」山本は低い声で言った。「どうせ暗殺するなら、重職の陸軍三長官を狙うでしょう。それに、ご存知とは思いますが、今回の事件の捜査の裏には、“あの男”の存在がありますよ」
「石原莞爾」伊藤はすぐに言った。「あの男なら、確かに陰謀の1つや2つを思い付くのはお手のものでしょう。事実、彼は『英国首相暗殺計画』の中核にあり、東條とは犬猿の仲ですからね」
「共産主義を憎んでいるのもお忘れなく」山本は言った。「あの男がEUに『共産主義打倒』の精神を吹き込んだ張本人ですからな。今回の一件で共産主義者に罪を擦り付ければ、事件に加担した証拠を抹消でき、後の共産主義者の摘発強化も行えて一石二鳥というものでしょうから」
「成程……」伊藤は頷いた。「それに付け加えてですが、一言言わせて頂いても?」
山本は頷いた。
「どうやら、陸軍内では東條は疎んじられていたようです。約束されていた筈の次期首相の地位も危うくなり、航空総監も来年には辞めさせられて、要塞司令官のような閑職に左遷されようと中枢部が考えていたらしいです。それを一早く察知した東條は、中枢部にこの『大和会』の存在を報告して、面子を保とうと画策していたようです」
「我々を……売ると?」
伊藤は頷いた。「あれは陛下には忠実な男ですが、人間誰しも自身の保身が最優先です。『P-51』のような戦闘機を造るという、時と金が途方も無く掛かる計画を考案したり、『ノモンハン事件』でソ連軍の追撃に積極的でなかった以上、その能力が中枢部に疑われるのは当然のことでしょう。それで『大和会』の全貌を暴露しようと考えたのでしょう」伊藤は言った。「もっとも、これは石原の受け売りですが」
「結局、今のこの会話も、今後我々が行うであろう我々の行動も、全ては石原のシナリオ通り――ということですか」山本は言った。「何とも後味が悪いですな、これは……」
伊藤は静かに頷いた。
「憲兵隊と警察双方の筋の話では」伊藤は言った。「東條私邸を度々訪問する軍人が居たらしいです。何でも、仕草や外見が特徴的な男で、階級は中佐。そして眼鏡を掛けている――とか」
「それは……まさか?」
「恐らくですが、辻政信でしょう。あれは東條の懐刀ですから」伊藤は言った。「問題は、辻が石原の腹心となったことと、その辻が事件当日にも東條邸近くで目撃されていることです」
山本は言った。「歴史とは数奇なものですな。東條はどうやら懐刀を鞘に差し間違えて、腹を裂いてしまったようだ。東條の人徳も地に墜ちたと見える」
「辻は合理的な男です。東條に利用価値が消えたと見れば、例え旧知の関係でも容赦はないでしょう」伊藤は言った。「事実、辻はそれを証明してきていますから」
「これからどうなりますかな?」山本は言った。「このまま米内閣下主導の海軍内閣が続けばいいが、東條が消えた今、もし陸軍内閣になりでもすれば、『大和会』は国政に手出し出来なくなりますよ」
「むしろ、石原はそれを狙って今回の一件を起こしたのかもしれません」伊藤は言った。「東條が逝き、対ソ戦の迫る今、近い内にもこの日本に政変が起こるでしょう。そしてその政変によって日本に成るのは、陸軍による実権の支配、アメリカによる介入の余地、そして軍部支配の確立……。石原はそれらを自らの手の内で動かし、歴史の舞台の主役として戦争を迎えようと考えているのかもしれない」
「つまり……」
「そうです」伊藤は頷いた。「石原は首相の座を狙っているのです」
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