第44話 昭和16年帝国国防方針
第44話『昭和16年帝国国防方針』
1941年6月16日
東京府
手にしていた万年筆が机からフローリングの床に転がり落ちた。伊藤はしゃがみ、前に座る山本と石原、そして辻の足元を見張った。彼は顔を上げ、目を細めて3人を見た。その3人の前の机上には1冊の書物があり、万年筆によってその1ページに大きく丸で囲まれた目印が記されていた。
「つまり……EU海軍の東洋艦隊はアテに出来ないと?」
辻の問いに対し、伊藤は物憂げに頷いてみせた。「主導国であるイギリスの考えた極東防衛戦略を見れば一目瞭然だ。彼らは太平洋方面の戦争を楽観視し、脅威が本国に行くのを恐れて大西洋や北海に新鋭戦力を補充、駐留させている」
事実、EU海軍の総戦力――主に英・独・仏・伊――は西大西洋方面最高司令部のイギリス-ポーツマス基地と、北海方面最高司令部のノルウェー-オスロ基地に集中配備されていた。しかし、極東方面はイギリス海軍のこれまでの極東防衛戦略に従い、旧式艦艇で固められていた。
既存の極東防衛戦略は2つの仮定に基づいていた。仮定の第一は、米海軍が西太平洋における有力な連合国軍側勢力として、シンガポールの英国東洋艦隊とともに存在し続けるということであり、フィリピンが東洋艦隊の前進基地として使用出来る――ということだった。仮定の第二は、帝国海軍の技術的能力と打撃力が過大評価されることだった。これら2つの仮定から、日本艦隊と戦うのは米太平洋艦隊だと前提し、東洋艦隊の戦力は補助的なものであった。ドイツやイタリア海軍の脅威に対抗する為に新鋭艦の多くは本国に置かれ、残った旧式艦艇が東洋艦隊に配備された。
そしてEU極東方面艦隊は、そのイギリスの2つの仮定を若干変更した防衛戦略の下に組織されていた。即ち――米太平洋艦隊やフィリピンを、連合艦隊や日本列島に変更したものである。
「大変だったんだろうな、海軍の気鋭の戦略家達は」伊藤の目のまわりに皺が寄り、そこに気遣いと後悔が滲んだ。「EUとの経済関係を考慮した外交屋や、イギリスを過大評価する海軍上層部の横槍がこの結果を招いたかどうかは分からんが、これで全ては変わってしまった。連合艦隊はシンガポールや極東方面の防衛――という重責にその戦力を割かねばならんことになった……。イギリス東洋艦隊やオーストラリア海軍はともかく、他国海軍は雑魚も同然の戦力しか極東に置けんからな。もし戦争が44年以降となれば、数十と空母を保有する太平洋艦隊が相手となってしまう。それでは、さしもの英国東洋艦隊も圧倒されてしまうだろう」
この会談はほんの2~3時間前に表明された『改定第4次帝国国防方針』に端を発する。帝国国防方針とは、戦略と政略上における基本的な国防方針の国家機密文章である。帝国軍の用兵要領の3部より構成される。第1部は国家戦略、第2部は所要兵力と軍艦数などの数値目標、そして第3部には大日本帝国の軍事ドクトリンと仮想敵国に対する個々の作戦計画大綱が述べられている。EUの発足により、改定の必要が迫られた為に出された今回の方針はEUの戦力や地理的優位点、そして外交政策を配慮し、刷新されたものだった。
『改定第4次帝国国防方針』
“一、帝国国防ノ本義ハ建国以来ノ皇謨ニ基キ常ニ大義ヲ本トシ、倍々国威ヲ顕彰シ国利民福ノ増進ニ在リ――帝国ノ国防ハ帝国国防ノ本義ニ鑑ミ、我ト衝突ノ可能性大ニシテ、且強大殊ニ武備ヲ有スル米国、露国ヲ目標トシ、欧羅巴同盟ト戮力シテ之ヲ備フ。又欧羅巴同盟ニ中立ヲ示ス支那ニ備フ之ガ為帝国ノ国防ニ要スル兵力ハ、支那大陸並東太平洋ヲ制シ、帝国国防ノ方針ニ基ク要求ヲ充足シ得ルモノナルヲ要ス。”
帝国軍ノ戦時ニ於ケル国防所要兵力左ノ如シ。
陸軍兵力
七十師団及飛行五十戦隊
海軍兵力
艦艇 主力艦十八隻 航空母艦二十四隻 巡洋艦三十六隻
水雷戦隊九隊
潜水戦隊八隊
航空兵力 三十四戦隊
帝国軍ノ用兵綱領
“一、帝国軍ノ作戦ハ国防方針ニ基キ陸海軍協同シテ先制ノ利ヲ占メ、攻勢ヲ取リ速戦即決ヲ図ルヲ以テ本領トス――。
二、米国ヲ敵トスル場合ニ於ケル作戦ハ左ノ要領ニ従フ。
東洋並東太平洋ニ在ル敵ヲ欧羅巴同盟軍ト挟撃シテ之ヲ撃破シ、其ノ活動ノ根拠ヲ覆滅シ、且本国方面ニ停泊スル敵艦隊ノ主力ヲ撃滅スルヲ以テ初期ノ目的トス。
之ガ為海軍ハ作戦初頭速ニ欧羅巴東洋方面海軍ト協同シ、東洋並東太平洋ニ在ル敵艦隊ヲ撃滅シテ両洋海面ヲ制圧スルト共ニ、陸軍ト協同シテ呂宋島及其ノ附近ノ要地並瓦無島、布哇諸島ニ在ル敵ノ海軍根拠地ヲ攻略シ、敵艦隊ノ主力東洋及東太平洋方面ニ来航スルニ及場合、機ヲ見テ之ヲ撃滅ス。
陸軍ハ海軍及欧羅巴東洋方面陸軍ト協同シテ速ニ呂宋島及其ノ附近ノ要地ヲ攻略シ、又海軍ト協力シテ瓦無島並布哇諸島ヲ占領ス。
敵艦隊ノ主力ヲ撃滅シタル以後ニ於ケル陸海軍ノ作戦ハ臨機之ヲ策定ス。
三、露国ヲ敵トスル場合ニ於ケル作戦ハ左ノ要領ニ従フ。
極東ニ在ル敵ヲ速ニ撃破シ、併セテ所要ノ彊域ヲ占領スルヲ以テ目的トス。
之ガ為陸軍ハ先ツ鳥蘇里方面(概ネ興凱湖及ウォロシロフ附近一帯ノ地域ヲ指ス以下之ヲ以テ做フ)敵就中其ノ航空戦力ヲ迅速ニ撃破シ且海軍ト協同シテ所要ノ兵力ヲ以テ浦潮欺徳等諸要地ノ攻略ニ任ス。次テ黒竜方面(概ネ「ブレーヤ」河及「ゼーヤ」河各下流流域ヲ指ス)、及大興安嶺方面ニ於ケル敵ヲ撃滅ス。爾後、作戦ノ推移ニ応ジ釆攻スル敵ヲ撃滅ス。
又状況ニ応ジ海軍及欧羅巴同盟軍ト協力シテ必要ニ応ジ北樺太、樺太対岸及勘察加方面ノ諸要地ヲ占領ス。
海軍ハ作戦初頭速ニ極東ニ在ル敵艦隊ヲ撃滅シテ極東露領沿海ヲ制圧スルト共ニ、陸軍ト協同シテ鳥蘇里方面ニ於ケル敵航空戦力ヲ撃滅ス。又陸軍ト協同シテ浦潮欺徳等ノ他ノ要地ヲ攻略シ、且黒竜江流域ヲ制圧ス。
欧州ニ在ル敵艦隊来航スル場合ニ於テハ欧羅巴東洋方面海軍並地中海方面海軍ト協同シ、之ヲ撃滅ス。
四、支那ヲ敵トスル場合ニ於ケル作戦ハ左ノ要領ニ従フ。
北支那ノ要地及上海附近ヲ占領シテ帝国ノ権益及在留邦人ヲ保護スルヲ以テ初期ノ目的トス。
之ガ為陸軍ハ北支那方面ノ敵ヲ撃滅シテ京津地区ヲ占領スルト共ニ、海軍ト協同シテ常州ヲ攻略シ、又海軍ト協同シテ上海附近ヲ占領ス。
海軍ハ陸軍ト協同シテ青島ヲ占領シ、又揚子江流域ヲ制圧ス。
五、米国、露国、支那ノ内二国以上ヲ敵トスル場合ニ於テハ、概ネニ乃至「四」ヲ準用及欧羅巴同盟トノ連携ヲ緊密ニシ、此等数回ニ対シ為シ得ル限リ逐次ニ作戦ヲ行フ。
六、参謀総長、軍令部総長ハ本綱領ニ基キ各作戦計画ヲ立案シ、相互ニ商量協議ヲ重ネタル後、裁可ヲ奏請スルモノトス――。”
EUの存在を全面に推し出した今回の第4次改定国防方針は、仮想国家が大きく修正されていた。まず、前回に初登場したイギリスは再び軍事同盟を締結したことにより、除外された。また、外交部門が大きく考慮されており、帝国軍の軍事行動にEUが関わっていることも真新しいものだった。
そして、新たにハワイを占領するという『東進政策』が加わっていた。
「東進政策――即ち『ハワイ』を前進基地とし、西海岸に上陸。そこからどんどん東上し、米中西部若しくは東海岸まで侵攻、制圧してしまうという、大胆且つ貧乏国には壮大過ぎる夢のような戦略……」石原は言った。「あの一式戦車を凌駕するものを数万台も造れてしまう国に、果たして我々帝国陸軍の貧弱な機械化軍団が通用するでしょうかね?私は正直、中西部辺りで補給網を切られ、貴方がたが歩んだ歴史で牟田口君が行おうとしたという、『インパール作戦』の二の舞になると思いますね。アメリカも馬鹿じゃない。陸軍が西海岸の補給物資を頼ろうとすることなど、分かりきったこととして廃棄するでしょう」
米軍の補給品は工業力、国力ともに未だ未熟な日本にとっては生命線といえる存在だった。南進政策でも日本軍は米軍の補給物資を掌握し、物資不足を解消した。あの時は四方八方を海に囲まれたフィリピンを奇襲侵攻したからこそ米軍は呆気に取られて退却に次ぐ退却を行ったが、本土が戦場とする今戦略上では、それも通用しないかもしれない。
「アメリカ人は仲間と民間人は見捨てない」伊藤は言った。「それは国民こそが合衆国の主導を握る存在だからだ。黒人や日系人ならともかく、大枚注ぎ込んで造った筋肉質の殺戮兵器や清き一票を持つ白人とならば、政府や軍は補給品など無視して彼らの安全を保障する行動を優先するだろう」
「確かに、窮地に立たされた状況下であればその可能性もありましょう」
伊藤は頷いた。「だからこそ、我々はアメリカを窮地に追い込まねばならんのだ」伊藤は言った。「たってのEUであり、東洋艦隊だが……貧弱過ぎて話にならん。EU軍が米国への攻撃に協同する――という本要綱の文句は無理な話だろう。いざ米国との戦争になれば、本国の財政や軍事の生命線たる植民地を守るのに精一杯になる筈だ」
「しかし、とりあえずは補給には困らんでしょう」山本は言った。「それに戦後のこともある。太平洋で他の同盟国よりも殊勲を立てておいた方が、何かと後に役立つものですからな」
伊藤は頷いた。「ですが、私が懸念しておりますのはEUという関係を盾に、我が軍の兵力を植民地の防衛に割かれてしまわないか……ということなのです」伊藤は言った。「オリンピック、そして『大和』の公表以降、日本という国の世界の印象は大きく変わりつつあります。しかしその根幹に生える侮蔑の意識は決して変わらんでしょう。我々の戦力を逆に利用し、権益を守る為や増やす為の都合の良い存在。そう、まるで使いっ走りみたく扱われれば、迅速に遂行される短期決戦上で必要不可欠な大戦力は期待出来ますまい」
この時期、『東進政策』に基いた陸海軍の方針が着々と構築されていき、それまでの戦略が刷新されることとなった。特に海軍はこれまでの艦隊決戦主義から大きく方向転換した、重雷装の長距離潜水艦から大きくシフトチェンジした、通商路破壊作戦用の中距離潜水艦の開発を決定。更に対空対潜駆逐艦の増加、そして空母の大建造による機動艦隊の増設を進めていた。潜水艦はUボートやガトー級を参考とするものであり、ハワイを占領した前提の下で実行される、西海岸近海域の通商路破壊作戦を基に計画されたものであった。
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