第42話 雨垂れ米を穿つ
第42話『雨垂れ米を穿つ』
1941年4月13日
千葉県/裾野
夜の帳はじれったいほどゆっくりと下りてきた。雨脚は徐々に弱まり、細かい霧雨に変わっている。辻の首元に掛けられた懐中時計が戌の刻を差した頃には紺碧の空は暗くなって、インクを垂れ流したような黒一色に塗り潰された。湿った夜気を切り裂く一筋の爆炎が漆黒の闇から抜き出たかと思うと、伊藤が持つ双眼鏡は閃光に紅く染め上げられた。
「だんちゃーく、今!」
頭上では雲が月をのみこんでいた。こぬか雨が降り注ぎ、標的に向けられた戦車の砲身に滴った。熱せられた砲身からは、俄かに冷却音が漏れていた。砲撃を放った戦車はその重厚な車体を軋ませ、ジャラジャラと音を立てながら砂利道を進む。
「一式砲、斉射用意……、射ッ!!」
伊藤ら観覧の目の前を一式砲戦車の砲口から放たれた75mm九四式榴弾が駆け抜けていった。鋭い風切り音が砲弾の後に続いた。そしてその後、雷鳴が如き爆音を響いたかと思うと、架空の敵防御陣地の位置する山麓部に土煙が舞い上った。まるでミニチュアサイズの火山が噴火したように見える。畏怖と興奮に目を潤ませて、辻は激しく手足を引き攣らせていた。
明りが付き、サーチライトの光線が山麓に注がれる。敷石道を踏む靴音、笛の甲高い音、そして双眼鏡を手にした着弾見張員の口元からの息遣い。それから少しの間は、編上靴が大地を踏み締める音と自分達の静かな息遣いしか聞こえなかった。
「初弾、だんちゃーく、今!」着弾見張員が報告した。
サーチライトの光源が遮断され、再び観覧席の向こう側は漆黒の闇に包まれた。山麓の敵防御陣地は見えない。熱風と低気圧からくる突風が渦を巻いて観覧席に吹き込んだ。双眼鏡を下ろしていた辻の眼鏡は薄汚れてしまっている。一方、一式砲戦車の車内の砲手は射撃照準器の十字の輝点を次目標――お役御免となった九七式中戦車――に合わせ、射撃用意を完了させた。
「次弾装填急げ!」
車長は装填手に下命する。装填手はトランク型の弾薬ケースから一式破甲榴弾を取り出し、急いで装填した。その作業を終えると、車長は砲塔から防弾ガラス越しに外を覗いた。九七式中戦車の子ぶりな車体がぼんやり見える。
「一式砲、斉射用意……、射ッ!!」
微かな物音がしたかと思うと突然、眩しい光が正面から伊藤達の顔を照らした。一式砲戦車の咆哮だ。榴弾は闇を衝いて、一筋の火柱を生み出した。
「だんちゃーく、今!」
「うむ……」辻は唸った。双眼鏡の先には、炎上する車体があった。
伊藤は夜の闇に包まれて立っていた。山麓に設置された九七式中戦車は一式破甲榴弾の直撃を受けて空を突き破るかのような轟音を響き渡らせた後、残り火を燻ぶらせる灰まみれの屑鉄の山と化していた。雨脚の強まったこぬか雨は霧雨へと再びその姿を変え、熱せられた鋼鉄を冷やした。
「これだ、これ!」辻は勝ち誇ったように声を上げた。「轟音、爆発、粉砕――そして、炎上!これこそ陸戦の醍醐味という奴ですよ!」
目を大きく見開いて興奮の色を隠せない辻とは裏腹に、伊藤は無表情で一式砲戦車の巨躯を見張っていた。「戦争の醍醐味?」伊藤は呟いた。「これが?」
辻は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。「敵を討ち、戦果と成す。それ以外、戦争の醍醐味と呼べるものがありましょうか?」
伊藤は首を振った。
「あれは標的であって敵ではない。敵を討ち、戦果と成すのが戦争とあらばこれは間違いではないか」
それから伊藤は前に歩み寄った。「だが、とりあえずはその第一歩を踏み締めたことに変わりはない――ということだろう」伊藤は言った。「帝国陸軍はアメリカと対等に渡り合える戦車と砲戦車を得たのだ」
4年前の失態――俗に『シャーマンショック』といわれる陸軍中枢部の逆鱗に触れた技術部の刷新未遂事件以来、帝国陸軍は新型戦車、砲戦車の開発に尽力していた。『精神論』と海軍への対抗心に燃える中枢部は少なからず『大和会』の介入を受けながらも、M4『シャーマン』を基としたM4中戦車に勝る次世代新戦車を推進した。
それが一式中戦車である。その性能諸元は――。
■『一式中戦車』性能諸元
全長:7.43m
車体長:6.08m
全幅:2.63m
全高:2.67m
重量:31.2t
懸架方式:平衡式連動懸架装置
速度:38km
行動距離:200km
兵装
主砲:一式38口径75mm戦車砲×1
(弾薬搭載量:70発)
副武装:九七式7.7mm車載重機関銃×1
(弾薬搭載量:3670発)
装甲
(砲塔)
前面:75mm 側面:50mm
後面:50mm
(車体)
前面:75mm 側面:30mm
後面:30mm 上面:20mm
エンジン
統制型一〇〇式
空冷4ストロークV型12気筒ディーゼルエンジン
乗員:5名
「一式中戦車。全長7.43m、全幅2.63m、全高2.67m……。主砲は九〇式野砲を基とした一式七糎半戦車砲で、史実において開発、採用された三式七糎半戦車砲とは違い、独伊の技術協力によって“真の戦車砲”となっております」
「真の戦車砲?」
伊藤は辻に尋ねた。
「即ち、野砲ほぼそのままではないということです」辻は言った。「もたらされました三式中戦車のカタログスペックから分かるように、三式に使用していた戦車砲は急時ということもあり、戦車用に改良する時間的余裕が無かったのです」
1944年、米陸軍の晩成はまさに成し得られようとしていた。太平洋戦線の主役戦車はこれまでのM3からM4へと更新されたのである。一方で、劣勢の帝国陸軍はこの比類無き新型戦車に対抗し得る戦車を保有していなかった。これまで太平洋戦線で奮戦した九七式中戦車の後継車となる一式中戦車『チヘ』は未だ量産体制も整っておらず、配備されても米軍を相手にすれば期待外れの性能であった。1944年には四式中戦車や五式中戦車の開発も進んではいたが、実用化はまだまだ先のことだった。そこで同年5月に、一式中戦車を火力強化させた新戦車が、三式中戦車である。
M4中戦車に対抗し得る75mm戦車砲を搭載し、性能面の向上を目指す三式中戦車だが、時間的余裕が無い為に中途半端なできとなった。現在生産中の一式中戦車に既存の75mm砲をそのまま搭載する等、最小限に抑えられた改造戦車――即ち、一式中戦車に九〇式野砲を取って付けたという戦車である。
まさに死に物狂い、血眼、といった言葉が該当する過酷な突貫作業により、僅か5ヶ月で量産体制に移行した同車だが、駐退器の砲塔外露出や、砲塔が車体に比べて過大になるなどの不利な点が複数生じることとなり、決して良いとは言える代物ではなかった。
今物語における一式中戦車は、そんな問題点を改善し、M4中戦車と対等に渡り合える戦車であった。M4中戦車を基とした車体の実現による車内の空間的余裕と装甲強化、エンジン面や車体面の改修による機動性の大幅な向上。そして戦車砲としての3年に渡る改修を受けた九〇式野砲の主砲化により、帝国陸軍初の75mm砲搭載中戦車となった。
「米陸軍において、M4中戦車は九七式中戦車同様に歩兵支援を主とする戦術ドクトリン上で成立した戦車だと聞く。ならば帝国陸軍の九七式は何故敗北に次ぐ敗北を成し得たのか?」伊藤は言った。
「質の問題では無いでしょうか?」辻は言った。
伊藤は頷いた。「私もそう思った。経済的・技術的・工業的に発展途上の我が国は、あれ程の戦車を造ることはおろか、それを一般歩兵支援に使えるほどの数の戦車を造れるだけの余裕は無い。一方、米国の圧倒的な国力は数万台のM4を製造し、輸送し、運用出来るだけの余力がある」
歩兵支援を運用上の主任務とする両車だが、その大きな違いは装甲車両の柔和な箇所を『戦車』として突き、粉砕出来るかどうかである。米陸軍は対戦車戦には駆逐戦車を使用するという戦術ドクトリンの下、M4はそれの補助的役割を担う存在であった。工業的に完成度が高く、呆気無い日本陸軍の戦車を敵にしたM4は、太平洋戦線でその歩兵支援という域を逸し、個車でも十分に戦える戦力となった。一方、同ドクトリンの下に成立した筈の九七式中戦車は工業的にM4中戦車には遠く及ばず、戦車にあるまじき肉薄攻撃という戦法によって装甲車両の柔和な箇所を突くという、戦車とは言えない戦車であった。
「だが、その質はこれで大きく変わった」伊藤は言った。「後は発展した工業力と忍耐の問題だ」
辻は頷いた。「現在開発中の三式砲戦車が制式採用されれば、我が帝国陸軍も米英に肉薄する駆逐戦車を保有する所となります。この一式戦車も運用の幅が広がるでしょう」辻は言った。「そうなれば、帝国陸軍は強大な機械化軍と成り得る筈です」
「『雨垂れ石を穿つ』というからな」霧雨の雫が伊藤の頬を伝う。「時は我々にとって。そしてアメリカにとって、もっとも大切な財産だ。我々のちっぽけな試みが持続において功を奏したとしても、その雨垂れが穿とうとするアメリカという敷石が時を重ねて強固なものになれば、どうしようもない」
「今、我々が願うべきなのは、アメリカの国力が我々の想像の域を達する程に発達してしまわないことだ」伊藤は言った。
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