第37話 大和、戻ル
第37話『大和、戻ル』
1940年10月29日
神奈川県/横浜港
『天皇陛下』であり、『大元帥陛下』で在らせられる昭和天皇の御料車が御発輦なされたというのに、東京湾上空は今にも雨露を降らしそうな、不気味で分厚い黒雲に覆われていた。然る1940年10月29日の早朝、宮城を御発輦、鹵簿を横浜港へと進めさせ給う。沿道にて幾重にも整列された地元民達は、老人から赤ん坊まで、背後や前方にて睨みを利かせる憲兵や警察官の視線に身体中を穴だらけにされた。そして彼等は数ヶ月前からそうしたように、陛下の御料車メルセデス・ベンツ770グローサーが眼前を駆け抜ける前に頭を垂れ、跪いて迎えた。これに従わなければ、憲兵や特高の手によって引き摺り出され、天誅を受ける。
「陛下の御着輦というのに、嫌な雲行きだな」
御召桟橋にて、颯爽たる御英姿で御召艇に僑居なされた昭和天皇の姿を見て、米内光政総理は呟いた。米内内閣始まって以来、自身が関与する海軍関連の中では最大規模となるこの一大行事を成功裏に収めることは、内閣と帝国海軍双方に益を成す。それが1日でも多くの期間を事が起こし易い海軍主導の中で進められることと直結する。
「天候もありますが、警察と憲兵隊との間の溝のこともあります」山本海相は言った。「恐らく、6年前の『桐生鹵簿誤導事件』が未だ残っているのでありましょう。憲兵隊は、警察には任せられぬと言い張り、その管轄を全て憲兵隊に移譲するように要請したとか……」
1934年、群馬県桐生市にて起こった『桐生鹵簿誤導事件』は、観兵式の視察に訪れていた昭和天皇一行を先導していた警部が誤って誘導した事件である。同事件は前代未聞で、関係者一同が処分されただけに留まらず1名の自殺未遂者を出したことでも知られる。事件は警察の権威を失墜させ、軍国化に直走る日本の中において憲兵隊の権力を助長させるのにも繋がった。
「で、君はどうしたのかね?」米内は訊いた。
「無論、その要請は却下させ、警察には引き続き近辺警備の方を務めて頂きました。警察の動員なくして陛下の御身体を万全にお守り致せません故」
米内は静かに頷いた。「それがいい」2人は御召艇に随伴する為、国務大臣専用の内火艇――供奉艇に乗艇する。灰色の波を蹴立てて、御召艇とその供奉艇、更に後ろを行く列外艇は進む。
前方の先導艇が鋼鉄の巨躯を発見するのにそう時間は掛からなかった。御召艦である金剛型戦艦第2番艦『比叡』は、昭和天皇一行を乗せた御召艇が近付くや否や、奉礼砲を天空に撃ち放った。比叡の咆哮が東京湾にこだまし、御召艇艦首に掲げられた天皇旗がはためいた。
殷々たる砲声の中を駆け進む御召艇とその一群は、その奉礼砲の後に始まった“奇跡”に目を疑うしかなかった。奉礼砲の砲声が殷々と轟き渡る中、黒雲に覆われていた筈の空は見る間に晴れ渡ってしまったのである。それまでは雲に隠れていた太陽が顔を見せ、紺碧の空が広まっていった。米内と山本は顔を見合わせ、信じられないといった具合の表情を浮かべた。
「幸先が悪い……と思っておりましたが」山本は呟いた。
「そうだな」米内は頷いた。「案外、この国も運に見捨てられた訳ではなさそうだ」
御召艇艦首にて、堂々とはためいていた天皇旗は儀仗兵の手によって外された。戦艦『比叡』に臨御なされた天皇陛下が乗艦されると、その天皇旗は大檣頂に掲揚された。
先導艦という重務を担う重巡洋艦『高雄』が荒波高し横浜沖を動き出した所から、紀元2600年特別監艦式は幕を開けた。
第1列、その先頭の位置を陣取ったのは、満艦飾を纏った空母『赤城』だった。次に同じく同型艦を持たない空母『飛龍』、その後ろを空母『蒼龍』が続いた。本来ならば空母『加賀』も参加する所だが、改装中ということで参加は見越された。
次に水上機母艦『瑞穂』、軽巡洋艦『五十鈴』が並び、その後ろからは9隻の潜水艦が続いた。これら空母3隻、水上機母艦1隻、軽巡1隻、潜水艦9隻によって構成された第1列は縦一列に並んだ。空母群からは艦載航空機の大編隊が飛び立ち、空を埋め尽くした。その中には、今年採用された新型艦戦『零式艦上戦闘機一一型』も含まれている。軽快な機動と卓越したパイロットの技量によって空を駆る零戦に、御召艦『比叡』艦橋にてその帝国海軍機動戦力の英姿をみそなわせ給う昭和天皇は魅了されていた。
しかし次の第2列に比べれば、先程の第1列の行進は前菜のようなものだった。
「針路維持、巡航速力16ノット!」
世界最大規模の艦橋にて、腹の底から張り上げられた木下攻呉海軍大佐――森下信衛元海軍少将――の声は、活き活きとしていた。かつて、落日の大日本帝国海軍の象徴――戦艦『大和』4代目艦長を務めていた森下は、再びこの場に戻ってこられたことを心より嬉しく思っていた。しかも、ここは負け戦ばかりで苦々しく思っていた戦場ではなく、天皇の御前となる観艦式の式場である。これほどの名誉は他にはなかった。
『乗員一同に通告する。本日は誉れ高き紀元2600年度観艦式である』森下の声は伝声管から艦内へと駆け巡る。『我々は世界最大、最強の戦艦『大和』の栄えある乗員であり、陛下の誇り高き皇軍である。そのことを肝に銘じ、本日を後世に伝えて貰いたい』
森下は一間置き、更に続けた。『しかしこれを最高の栄誉と捉え、驕って欲しくはない。我々にとっての最高の名誉は、陛下に仇をなす敵が来たる時、これを掃討・撃滅たらしめんことである。その為にも、本日の特別観艦式を期とし、己を高めて欲しい。話は以上である』
戦艦『大和』艦内で喝采が挙がる中、第2列は一糸乱れぬ戦列で横浜の海を駆ける。第2列は殿を務める『大和』を始め、『長門』、『陸奥』、『伊勢』、『山城』計4隻の戦艦が続く。その後方から航行するのは河内型戦艦『摂津』――現在は標的艦――と『涼風』以下12隻の駆逐艦である。10キロメートル間隔で距離を置くこの単縦陣は、空母『飛龍』を先頭とする第1列とともに横浜沖を駆った。
昭和天皇を始め、一同が注目したのは何といっても『大和』である。史実では第2列に参加するどころか、完成もしていなかった『大和』が紀元2600年度特別観艦式に加わったのは、それが1946年の『未来』より時を越えてきた戦艦だからだ。然る1940年1月、帝国海軍が『戦艦Y』の存在を明らかにしたことにより、『大和』観艦式参加が決定された。
「流石は森下君だ。あんな図体の怪物を……」供奉艦『加古』より戦艦『大和』と第2列の勇姿を目の当たりにした山本は呟いた。
「25日にチャーチルが殺害されたことで、今回の観艦式の意味は変わった」米内は言った。
1940年10月26日
イギリス/ケント州
ケント州ヲーターハム2マイルに位置するウィンストン・チャーチルの私邸『チャートウェル』1階の書斎には、死後10時間ほど経過したと思われる男性の死体が3体、床上に横たわっていた。アーロン・ワイアット警部はその場に居るケント州警察捜査班のリーダーだった。50代後半の男で、くしゃくしゃに丸められた紙屑のような、皺だらけの顔には気難しっぽさと熱意が見え隠れする。長年を連れ添ってきた煙草のニコチン臭が染み付いたワイアットは心臓に1発の銃痕を残す男の死体の前に立ち、しかめっ面を浮かべて死体の顔を見張った。
「これが首相か?」鷲鼻を擦りながらワイアットは訊いた。
「えぇ……」ケント州警察のウィンターボトム刑事は哀しげな声色を漏らした。「死亡推定時刻は25日の午後10時30分。死因は――」
「これだろ?」ワイアットはチャーチルの右前方に倒れた男の死体を差して言った。男はデリンジャー拳銃を握り締め、チャーチルと同じく心臓に銃撃を受けていた。「“狂気のアメリカ人”ってのは居たもんだな。こいつは“ジョン・ブース”の1940年版だ。今回のターゲットは英国首相だがね」
「推測するに……」ウィンターボトムは言った。「このデリンジャーを握った男がチャーチル首相を殺害。銃声に気付いたと思われるボディーガードから銃撃を受け、死亡したと思われます」
ワイアットは頷いた。「それならボディーガードは生きてた筈だ。何故死んだか、理由は分かるかね?」
「はい。あ、いえ……分かりません」ウィンターボトムは息を吸い込んだ。「恐らく、ボディーガードは犯人の反撃を受け、死亡したかと思いますが……」
「ふむ……」ワイアットは3体の死体を見下ろして唸った。「だが、銃弾を受けた状態で眉間や心臓を1発で撃ち抜けるだろうか。全弾を撃ちまくったとしても、銃撃を受けたパニック状態ではその確率は極めて低い」ワイアットは顔を上げ、ウィンターボトムと顔を見合わせた。「これは複数犯の犯行だ」
ワイアットの中で何かが目覚めたことを、ウィンターボトムは悟った。ワイアットは一見、ヨレヨレのコートを着た老人だが、その奥底には途方もない怪物が眠っている。裏に大きな『真相』が眠っている事件に際し、ワイアットは“洞察力”や“直感”が異常なほどに冴えるのだ。
「その点に関しては、ある報告があります」ウィンターボトムは言った。「どうやら、ロンドン首都警察が密告によりリッツ・ロンドンを捜索したところ――ルーズベルト大統領直筆の特別権限書と首相殺害の計画書が見つかったらしいんです。スコットランドヤードは今回の一件を“国家規模の陰謀”と断定し、捜査にあたっています」
「きな臭い話だな」ワイアットは言った。「それなら複数犯の可能性は高くなる。それに――アメリカが計画した殺人事件だともな」
ワイアットはポケットから煙草を取り出し、書斎を後にした。
首相を2度もアメリカ人に殺されたことによる政治・軍事不信、『チェンバレン・ショック』と『チャーチル・ショック』を受け、イギリスは逆境に立たされていた。ウィリアム・J・ドノヴァンとーによってデリンジャーで殺害されたチャーチルは、最期に対米戦争の必要性を訴える一文『チャーチルの遺言』――ドイツによって造られた偽装文書――と、暗殺前にチャーチルが考案していた、『チェンバレン・ショック』によって経済不況に陥った英国経済を救う経済復興計画『チャーチルの遺産』を残していた。これを元手に勢力を強める英国議会対米強硬派はドイツ・イタリア、そして『戦艦Y』を表明した大日本帝国との軍事同盟を望んでいた。
「議会の若手議員や親独派が議会の大半を占め、国民の対米意識の最高潮に達した今に『戦艦Y』を世界にアピールする行事が行われるとは……」米内は言った。「運命とは時に都合が良過ぎる時もある。これがまさにそうだろう。今、『大和』の勇姿を見せ付ければ、英独伊三国との軍事同盟締結は簡単に至ってしまうだろうな」
「しかし、それは望まぬ所でした」
山本の呟きに米内は頷いた。「伊藤君には悪いがな。元々、我々は平和の世を望んでいた筈だ。だが……」米内は唸った。「我々には3つの道があった。『平和』『継続』『戦争』だ」
「今や、我々に残されたのは『戦争』ですね?」
「そうだ。背後の道が閉ざされた今、残された道を全力で突っ走るしかない」
「伊藤中将の話によれば」山本は言った。「伊藤中将の話によれば、今回の一件はドイツとの攻勢に備えたこと――との話です。アーリア人のみを唯一の存在とするドイツと帝国は相容れぬ関係であり、そんなドイツと帝国の間の友好関係を完全に断ち切るには帝国陸軍を解体するに等しいこと。だからこそ、共通の敵である『アメリカ』を英連邦及びヨーロッパ各国とともに叩いて講和を果たした後、最終的にはアメリカとドイツを除く同盟各国とともに――ドイツと戦火を交える」
「血の為に血を――という所か」米内は呟いた。
横浜沖に6つの艦列が刻まれ、水平線の彼方まで連なる。紺碧の空には500機余りの航空機が無数の編隊を築き上げ、銀翼を連ねて式場に進む。その光景は日本国内にてニュース映画として放映され、世界にも公表された。そして、この中でその存在を知らしめた『戦艦Y』とその大艦隊によって、2人の首相を殺害され反米意識を高める大英帝国は――その同盟締結を切に願うドイツ・イタリア、そして日本との同盟締結を決意した。『日独英伊軍事同盟密約』の締結である。これは加盟4国が共通の敵に対する侵略行為を受けた場合、若しくは4国総一致による宣戦布告時に発動される秘密同盟であった。
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