第35話 鷲は舞い立った
第35話『鷲は舞い立った』
1940年10月14日
アメリカ合衆国
その日、ウィリアム・J・ドノヴァンはホワイトハウスの2階、大統領のプライベート・ルームで、フランクリン・D・ルーズベルト大統領とその特別外交顧問ハリー・L・ホプキンスとともに居た。ポトマック川を渡り、吹き付けてくる秋風が窓ガラスを鳴らしていた。炎を滾らせる暖炉の前でドノヴァンはソファに腰掛け、2人と向かい合っていた。
ドノヴァンとルーズベルトは過去にも面識があった。2人はコロンビア大学ロースクール時代からの友人であり、現在でも親交は深い。また、『ワイルド・ビル』の愛称を持つ彼はニューヨーク・ウォール街の敏腕弁護士――という訳だけではなく、第一次世界大戦時の英雄でもあった。
「ミスター・プレジデント……」
ドノヴァンは心配そうに言った。「私を第一線に出すということは、随分と参られているようですね。例の――『チェンバレン・ショック』ですか?」
「うむ、そうだ」ルーズベルトは頷き、部屋の窓に一瞥をくれた。横なぐりの風の他に、別の雑音が響き、窓ガラスを震わせていた。その原因は、ホワイトハウス周囲を取り囲み、プラカードを掲げて街路を行進し続ける英国人デモ集団だ。
「先週のことだ。イギリス人も執念深い」ルーズベルトは言った。
1940年10月10日、イギリスはハンプシャーの自宅にて、英国首相ネヴィル・チェンバレンは人生の幕を閉じた。史実では11月9日にその人生を終える筈だった71歳の老人は、ドイツによるヨーロッパ蹂躙――第二次世界大戦が勃発しなかったが為に英国首相を務めていたが、やはり死に至ってしまった。
その死因は――暗殺である。9mm銃弾を受け、心臓を損傷したチェンバレンだが、その犯人のほどは分かっていない。しかし、英国内の親独派や世界中のドイツ人諜報員の暗躍により、その犯人は『アメリカ人』と、位置付けられた。米英両政府はこの不明確な噂を掻き消そうとしたが、英国政府内の親独派の耕作により、英国側はこれを『狂気のアメリカ人』――精神的疾患を患った、“ジョン・W・ブース”に憧れを抱く誇大妄想癖のアメリカ人男性――の犯行とした声明を発表。結果的に世界各地の英国人は反米意識を持ち、不買・デモ運動を開始したのである。
「しかし10月10日、確かに英国首相ネヴィル・チェンバレンは暗殺されました。犯人は『狂気のアメリカ人』――という噂で持ちきりですよ」ドノヴァンは言った。「どこぞの輩の仕業とはいえ、とにかくイギリスに誠意と真実を示さねば、我々は孤立します」
「だから君を呼んだんだ。それにハリーもな」眼鏡を外し、ルーズベルトは目頭を抑える。「元々我が国は第一次大戦の反省から、諸外国に介入しないという“孤立主義”を貫く構えだ。私も合衆国の青年を戦地に送ることはしないと約束してしまった。だからこそ、アメリカという国は今回の一件に関し、力に訴えた行動や浅はかな言動は実施出来ない」
「では、女性を戦地にでも送りますか?」ホプキンスは言った。
「そういう言動が、浅はかだというんだよハリー」ルーズベルトは言った。「我が政権の支持率は1日に1%の割合で落ち込んでいる。これ以上の不信感を与えてはいかんぞ。例え冗談でもな」
全てを見抜かれ、ホプキンスは瞠目した。喉元まで出かかっていた「一世・二世の黄色猿や、黒い連中、古来よりアメリカに住みつく野生動物も」という言葉は、胸の中に押し込めてしまった。
「チェンバレンが死んだ今、次の首相には誰がなるのでしょうか?」ドノヴァンは首を傾げ、訊いた。
現在、というよりそれまでにも英国内には首相の正統後継者のポストはなかった。それは憲法上の問題で、そのポストとなる『副首相』が成立したのは、1942年2月のチャーチル戦時連立内閣である。チェンバレン亡き後、次の首相が誰になるかは確実には決まっていなかったのだ。
「例の『戦艦Y』は知っているかね?」ルーズベルトの問いに、ドノヴァンは頷いた。世界中――政府機関から一般新聞社まで、広域に公表された『戦艦Y』の存在は、多方面に恐怖と不安を招いていた。それは一般人から政府首脳陣まで、幅広く広まっていた。「チェンバレンはあの日本が建造を表明する戦艦に脅威を抱き、海相にチャーチルという男を擁立していた……」
「では、次の首相はチャーチルが?」
ルーズベルトは頷いた。「確定ではないがね。チャーチルは英海軍の戦備拡張計画を立案し、新型戦艦の建造に尽力していた。チェンバレンからは信頼されていたようだし、海軍拡張の為に停滞していた景気も良くなりつつあったようだから、国民にも深く支持されていたようだ」
「しかし、そのチャーチルという男、どちら側に付いているのですか?」
「現在は我が方に近い穏健派です」
ホプキンスは言った。「ですが、いつまでもそうとは言えません。新首相就任演説に先掛け、ヒトラーがイギリスに同盟の締結を呼び掛けていますので……」
「あのちょび髭男か……」ドノヴァンは呟いた。「奴はたかだか伍長ですが、口先だけは大将級と聞きます。みすみす手をこまねいていれば、同盟も結びかねませんでしょうね」
「だからこそ」ルーズベルトは卓上のウイスキー・グラスに手を伸ばした。「だからこそ、今日私は君とハリーを呼んだんだよ。君らには、イギリスとの関係改善の為、尽力して貰いたい」2つのグラスにウイスキーを注ぎ、ルーズベルトは更に話を続ける。「ハリー、君には国内に留まって私を補佐してくれ。そしてウィル。君には……」
ルーズベルトは一間置き、ウイスキーの満たされたグラスをドノヴァンの顔の前に掲げ、手渡した。「私の“足”――となってくれ」ルーズベルトは苦笑いを浮かべ、自身の足を示した。彼は半身不随で、足が不自由だった。「イギリスに赴いて、直接チャーチルと談判して貰いたい」
「米英両政府の関係修繕の“特使”――ですか」ドノヴァンは言った。「失礼ながら、私は一介の弁護士ですよ?それにコロンビア大ロースクールでは落ちこぼれでした」
ドノヴァンはコロンビア大学ロースクール時代、成績は御世辞にも良いとはいえなかった。しかしその人柄や性格が親しまれ、教授達のお気に入りだった。
「学歴など然したる問題じゃないよ。肩書きに関しても、情報調整官というのを用意してある」ルーズベルトは言った。「要は結果と実績を残してくれればいいんだよ、ウィル。君は人に好かれる性質だから、この手の件には適任だと私は思うんだ」
ルーズベルトはウイスキーに満たされたグラスを持ち、一気に飲み干した。瞬時に喉仏がかっと熱くなり、胃へと続く。彼は顔を顰め、グラスを机上に置いた。
「2人には私の目となり、足となって欲しい。合衆国の危機の中、障害を持った大統領にはどうしても信頼出来る補佐役が必要なのだよ」ルーズベルトは言った。「分かったかね?」
「了解しました、ミスター・プレジデント」
2人はそう言い、渡されたウイスキーを飲み干した。
1940年10月16日
東京府/下谷区
9月21日から10月6日の間に行われた夏季五輪――『東京オリンピック』は、盛況の内に幕を閉じた。東京五輪に向けた都市美観工事やインフラ整備、英語教育の推進によって世界に認められる国際都市となった東京は、史実より都市基盤が万全に構築され、10年は都市開発が進むこととなる。また、国際的地位の確立、産業活性、大規模な経済効果を得る所となり、国内経済は1920年以来の好景気を迎えることとなった。
この日の午後、帝国図書館地下1階に設置された『帝機関』本部には、東京五輪で影の活躍者となった伊藤整一が訪れていた。彼は現在も霞ヶ浦航空隊の練習生として、実習に励んでいるのだが、9月21日の東京五輪開催初日、何故か東京の空を飛ぶという大役を任されていた。
「閣下でしたか。私にあのような晴れ舞台を用意して下さったのは」
伊藤が言う相手は、海相山本五十六である。9月21日の東京五輪開催式典時、伊藤は『式典特別航空隊』に抜擢、大日本帝国海軍の次期主力戦闘機たる『零式艦上戦闘機』に搭乗し、簡素な曲芸飛行をやって見せた。開催式典の目玉はこの曲芸飛行隊によって上空に描かれる『五輪』だったが、流石に10~11ヶ月程度の練習量しか熟していない伊藤には回ってこなかった。伊藤自身は己の未熟さを確信していたので、逆に喜んではいたが、天皇陛下や世界の前で『メインイベント』という栄誉を成し得られなかったのは悔しい所だった。
「零戦はどうでした?」
「あれは速いですよ。老体に堪えましたね」伊藤は苦笑いを浮かべながら山本に言った。「三式初歩練や九三式中間練とは訳が違う。あれの操縦桿を握っていた時、腕が捥げて飛び墜ちないものかと不安でしたよ」
伊藤が搭乗することとなった零戦一二型は金星エンジン搭載の暴れ馬で、最高速度は500kmをゆうに超える。航空機という面は同じでも、最高速度が210kmの九三式中間練習機『赤とんぼ』や、それ以下の三式初歩練習機では月とすっぽん程に、勝手が違い過ぎるのだ。
2人の談話はドイツ特務機関少佐、エヴァルト・オイゲン・ルートヴィヒ・シュミットの到着により、頓挫する。ヒトラーの特使であり、『帝機関』特別顧問であり、ドイツ特務機関少佐である彼は、伊藤整一とヒトラーとムッソリーニが描いた『絵』を知る、数少ない人間の1人であった。
「アメリカが動きました」
開口一番、シュミットは言った。「今月末、米国政府より英政府に対し、ルーズベルト大統領の“代行”――つまりは特使が送られ、次期英首相ウィンストン・チャーチルの元に赴くという話です。チャーチル次期首相は『穏健派』であり、『現実派』に属します。つまり彼は、現政権や議会野党の血の気が多い若手・中堅派議員達のように、親独・反米強硬思想を持たない……という訳です」
「それは……厄介だな」伊藤は唸った。チャーチルは第二次世界大戦時、英国民の心を1つにし、挙国一致内閣を築き上げた人物である。米国の経済・軍事力の程を知り、穏便な事態収拾を望んだ後に本件の日独伊3国の関与が露見すれば、戦争は必至であるばかりか、英国――英陸海空3軍は史実以上の力と憎しみをもって襲い掛かってくることとなる。そうなれば、戦局は分からない。
「その特使は誰だ?」山本は言った。
「諜報員の報告によれば、ウィリアム・J・ドノヴァンなる人物と」
「――罠に掛かったな」そう呟いたのは、伊藤だった。「原の報告によれば、そのドノヴァンなる人物は、第二次大戦時代に設立される『OSS』局長という話だ。我々の計画には、絶好の人物だ」
伊藤の言う『計画』とは、英首相暗殺計画であった。これは1回の暗殺のみならず、2回の暗殺が含まれた計画であった。
「筋書きはこうだ」伊藤は言った。「米国大統領代行のドノヴァンは――実は英首相暗殺の命を受けた諜報員で、2度目の暗殺計画を企んでいた。そして、新首相ウィンストン・チャーチルを暗殺。自宅は焼き払われ、家族ともども皆殺しにされ、証拠はことごとき消え去る。しかし、暗殺現場近くで何者か……ここはボディガードでいいと思うが、何者かによってドノヴァンは殺害され、遺体として横たわる。そして後日には、彼の宿泊したホテルの部屋からは暗殺を企てた証拠が次々と見つかり、イギリス警察は本件が、米国政府による陰謀だと断定する……」
「手が込んでいるな」山本は唸った。
「当初から計画されていたものですよ」伊藤は言った。「作戦名は『三重殺作戦』」
三重殺――つまりは野球の『トリプルプレイ』に由来するこの作戦は、英首相暗殺を米国の陰謀と仕立てる為、米国人を暗殺者に立てて殺害。ドイツの諜報員が英首相を抹殺するというものだった。第1回目では憶測だけで、濡れ衣を着させる米国人は仕立てはしないが、2回目ではこれを仕立てる。そして2人を殺害してしまう。
「3人の死で、イギリスに反米意識を植え付けるのか」山本は言った。「戦時であらば、3人の死は許されるどころか歓迎されよう。しかし……」
「分かっています。無論、今は平時にあります」伊藤は渋面を浮かべた。「ですが、このドノヴァンという男、その男はOSSという米軍諜報機関の親玉。ブーゲンビル島上空にて、閣下を暗殺至らしめた一件に、少なからず関わっていたであろう男なのです」
「それに」シュミットは言った。「イギリスに決定的な反米意識を植え付けるには、2人の首相の死と、ドノヴァンという暗殺者は欠かせません。1度の暗殺において甚大な反米意識を植え付けられたイギリスですが、それも憶測として風化しつつあります。大英帝国を崩壊せしめるというアメリカの陰謀――という、確固たる既成事実を作ってしまえば、今度こそイギリスは反米意識にドイツ・日本・イタリアの盟友となることを望む筈です」
そして大いなる陰謀は実行に移される。ドイツ諜報部員はイギリスに侵入し、アメリカ合衆国よりやってくる“友人”――ルーズベルト大統領の『秘密の足』――ウィリアム・J・ドノヴァンの到着を待つ。その歓迎の挨拶は拘束、感謝のプレゼントは――濡れ衣。そして英国史上最悪の人殺しという称号だった。
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