第33話 海防は成りて
第33話『海防は成りて』
1940年3月18日
神奈川県/横浜市
1940年3月15日、北海道は札幌にて開催された第5回冬季五輪――アジア初の冬季五輪――に日本中が興奮冷め切らぬ所で、皇紀2600年記念万国博覧会が開催された。いわゆる1940年『東京万博』では、月島区は第4埋立地――現在の晴海――が開催地に選ばれた。公募から『晴海町』と命名されたその地で開催されることとなった万博のテーマは、『世界産業ノ発展、東西文化ノ融合、国際平和ノ増進』と、平和や発展を願う趣旨である。
しかしながら、史実ではこの崇高なテーマも泥沼化の表層を見せる対中戦争や国際社会の風当たりの前には、意味を成さなかった。1938年には、冬季・夏季五輪同様、その開催権を返上。中国との戦争や、対米英戦始まる1940年に向け、全ての力を注ぐ所となった。
今史の東京万博は、予定通り1940年3月15日に開催された。それから半年間――8月31日までの170日間――、万博は開催される。
予想統計では4500万人の入場が見込まれる今回の万博だが、まさに異例の万博であった。閉会が8月31日とならば、1ヶ月も満たない内に夏季五輪がとり行われる。これは皇紀2600年という、神武天皇――初代天皇――が紀元前660年に即位してから2600周年の節目となる神聖な年を祝うとともに、夏季五輪による国内外観光客の相乗効果を狙う。夏は湿気が多くて蒸し暑く、冬は厳寒――という過酷で辺鄙な貧乏国日本は、今回の2大イベントにより、大きな躍進を狙っていた。
それから3日後の1940年3月18日に、森下信衛少将――木下攻呉海軍大佐――は鶴見を訪れていた。史実、横浜県鶴見区には、日本銅管株式会社の『鶴見造船所』が存在していた。これは、日本銅管が鶴見製鉄造船株式会社を合併させ、誕生したものだった。戦時中は、小型の海防艦を大量に建造した。当時、帝国海軍予備機関少尉だった石井利雄が海軍省の命により、造船技師として鶴見造船所に移籍した後には、帝国海軍では初となる本格的なブロック工法採用の海防艦を建造。鶴見造船所は海防艦量産に尽力したが、結局日本は敗戦に追い込まれてしまった。
その成功ゆえに、『大和会』は石井予備機関少尉に目を付けた。森下が今日来たのは、その石井予備機関少尉と面会する為だった。
森下は以前にも石井と会っていた。その時は伊藤がおり、山本の人脈の賜物によって築かれた面会だった。今回も山本によるお膳立て――という所は同じだが、伊藤は居ない。代わりに暗躍する参謀辻政信と、そのブレーキ役を務める原が同行する。
3人は鶴見造船所の敷地内を通って、事業所がある建物へ向かった。大量の人員が刷新され、日本銅管の社員や予備役将校の姿がよく目に付いた。その中には石井もおり、日々海防艦の量産に尽力し続けている。
到来した3人を見て、石井は折り目正しく敬礼する。そんな姿を見て、3人とも敬礼を返したが、森下は笑みを浮かべながら温かな握手を交わした。かつて、伊藤とともに面会したことを憶えていて、海防艦の建造具合はどうかね?と、新型海防艦の進捗のほどを訊ねた。
「藤伊閣下から提案なされた、『新型海防艦』の設計案をようやく纏め上げました」石井は言った。「今年度には、ブロック工法・電気溶接式の新型艦量産に着手できそうです」
ブロック工法、電気溶接。量産に対応したこれらの方法は、まさに画期的なものだった。ブロック工法は、前もって船体を適切な大きさに区分したブロックを工場で組み立て、それを船台まで運び、船体を組み立てる工法である。この建造法は、船台で一から建造するよりも効率が良く、品質や作業性が高い為、第二次世界大戦時には急速に普及した。一方、電気溶接は1800年頃より認識されるようになった溶接法で、1930年代には帝国海軍も駆逐艦等に使用している。
これら2種類の技術は、戦艦『大和』にも一部使用されていた。ブロック工法は、46cm砲3基を搭載する戦艦には似合わない程にコンパクトな船体を実現し、しかも短期間に建造出来た。この工法を良く反映したのが『大和』で、同型戦艦『武蔵』とはコスト面や建造期間といった面において、大きな差をつける所となった。
一方、電気溶接もまた、『大和』に使用されていたが、その大部分を支えたのは――専らリベット接合だった。これは1935年に発生した『第四艦隊事件』に由来し、台風等の自然災害に脆弱と判断された溶接は、リベット接合という元来の建造に立ち戻ることとなった。しかし、リベット接合は衝撃に弱く、被弾被爆時には、被害が拡大してしまう。しかしそもそも溶接技術は未熟で、元々、純度の高い鋼鉄を要することもあって、日本では中々採用されなかった。
実際、溶接不備は米国の『リバティ船』にも起こっている。溶接はリベット接合と違い、作業が簡易で量産向けの技術だった。リバティ船はそんな溶接を全面に用いた、全溶接構造船であり、ブロック工法も同時に行ったことにより、1941年から短期間で2600隻――という驚異的な数を建造した。しかし、その代償として疎かになった溶接手法の不備、不適合品質の鋼鉄の使用、構造上の問題が露見。これにより、沈没事件が多発した。一方のドイツは溶接技術に精通しており、ビスマルク級戦艦やUボートにも、高度な技術や溶接性鋼を使用していた。
しかしながら、アメリカの建造数は目を見張るものだった。フレッチャー級の『日刊駆逐艦』や、カサブランカ級の『週刊護衛空母』しかり、リバティ船は戦時中に大きく貢献した。
戦争を『数』で戦う米国に対し、東條英機曰く『精神力』で戦っていた大日本帝国は、大量生産された潜水艦ガトー級により、護衛駆逐艦、タンカー、輸送艦を壊滅させられた。補給線を失い、敗戦に追い込まれていた帝国海軍は最後の手段ともいえる艦艇――『コンクリート船』を建造した。これは1945年8月までに4隻造られたが、結局敗戦に至った。元々、上手く行く筈もなかったが、敗戦間近や危機的な状況下ということもあり、25隻も建造するという計画も存在する。
コンクリートを使用した船は以前から存在するし、実際に活躍している水上コンクリート建造物もあった。ただ、船ではなく、浮きドックである。『夢幻の艦隊』の中に含まれていたARDC-13も、コンクリート製の修理浮きドックだった。
「藤伊閣下より戴いた海防艦案を基に、設計を行ってみました」石井は言った。「対潜・対空設備を充実させる為、四十五口径十二糎高角砲2基及び25mm三連装機銃で対空面をカバーし、対潜面では新型爆雷投射機を18基、最高120個の爆雷を搭載させます」
「建造期間は?」森下は言った。
「9~10ヶ月を見越しております」石井は言った。「経験と機械類の充実が進めば、更に早い建造・量産が行えるかと」
その石井の答えに森下は頷いた。
「ところで……藤伊閣下は?」石井は言った。
「軍務に就いておられる」森下は言った。「じき、閣下も視察なさるだろう。それよりも、君には多数の海防艦を造って、来年には創設される海上護衛隊に送って貰いたい」
「了解しました」石井は言った。
戦争に際し、政治・経済的な現実は理解出来る。だからといっていいとも言えない。うわべの戦果――主要海戦や大規模作戦時――を繕う為だけに兵站面の注意を欠き、用兵を疎かにするのがいいとは、誰もが思わないだろう。しかし時に、戦艦や空母といった大捕物を成す為には、多少の犠牲は厭わない。補給線の防衛が不備となり、数多の輸送船・タンカーが太平洋上に沈んだのも、見過ごされた。伊藤はその結果も知っていたし、それに対処する『海上護衛隊』の長として、補給を絶やさぬことを固く心に決めていた。
そして1940年3月18日、その決意の第一歩となる海防艦が、産声を上げた。
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