第32話 ワンショットライター
第32話『ワンショットライター』
1940年2月4日
神奈川県/横須賀
その運命の日、1940年2月4日は、第5回冬季オリンピックの開催日であった。『アジア初の冬季五輪』――ということもあり、国内外の関心は高い。日本国内では、国を挙げての一大行事ということもあり、祝日のような盛り上がり――2月4日は日曜日である――を見せていた。札幌は観光客の到来による経済効果のみならず、インフラ整備による近代化が進められ、都市基盤が10年は早く整備された。
この日、伊藤は久し振りの休暇を得た。札幌五輪の影響だろう。一旦帝都麻布に位置する私邸へと戻った後、彼は海軍大臣となった山本五十六と再会した。一回りも二回りも成長した伊藤を見て、山本は大層驚いた。筋骨隆々たるその体躯は、10月末に別れを告げた時とはえらい違いだった。予科練生や艦隊から移動してきた、若輩の練習生達と日々を共にし、過酷な訓練を受けてきた証拠だ。そうやって知識と肉体を潤沢にした伊藤は、必ずや第八艦隊を円滑に運用していくだろう。そう山本は確信した。
2月4日の午後には、横須賀の海軍航空技術廠に到着した。前年度までは海軍航空廠――通称『航空廠』ていう呼称だったこの機関は、『空技廠』と改称・改組がなされた。名称は変わったが、『航空廠』も『空技廠』も、原則は同じだ。横須賀鎮守府管轄下にあり、航空機関連の計画を統括する。
伊藤と山本の乗る車は空技廠の前に停まった。山本は身分を出入り口の警備兵に示して、施設内の会議室に案内された。
会議室の中に居た人間は2人のように軍服姿だったが、中には私服の人間がぽつりと存在した。よく整えられた軍人の体躯とは対称的な痩身で、技術者や科学者を思わせる趣があった。それもその筈で、彼等は三菱重工業の社員だった。海軍航空技術廠長、和田操少将が2人を礼儀正しく敬礼して出迎えた。2人が席に座ると、自身も腰を下ろした。
伊藤は、会議室の一同が送る山本への視線に気付いた。次期航空機の三菱重工・海軍間で行われる第1回目の打ち合わせの場に、米内内閣閣僚――それも、海軍大臣の男が現れれば当然の反応だろう。
「山本海相閣下」そう言ったのは三菱重工側の設計主務者、本庄季郎技師だった。「この度はわざわざこのような所まで足をお運び頂き、有難うございます」
本庄技師は三菱重工屈指の設計技師であり、九六式陸攻や一式陸攻の生みの親である。東大航空学科の出身で、流体力学に深く精通し、気骨のある人物でもあった。後に『ワンショットライター』の渾名で後世に伝えられる一式陸上攻撃機の設計に関し、海軍と行われる第1回目の打ち合わせの時、彼は海軍側が提示した双発機を否定し、四発機案を提唱した。これは海軍が望む四発機並の性能を誇る双発陸攻を製造するとなれば、必ず防弾面や防御火器面が疎かになり、生存性が保障されなくなる為だった。しかし海軍側としては、四発機は中島飛行機に担当させることで割り切っていた為、これを真っ向から否定した。
山本は頷いた。「君の才能の程、期待しておるよ」
本庄が次期陸上攻撃機案を話す間、伊藤と山本は居ずまいを正して、聞き入った。本庄の提唱するのは、一式陸攻の時にも提唱していた『四発機案』であった。
「九六式陸攻の後継機としての同機は、当初も話しました四発機として設計させて頂きました」本庄は言った。「配布した予想性能諸元書をご覧下さい」
■十五試大型陸上攻撃機
全長:23.5m
全幅:32.540m
全高:7.200m
主翼面積:127.00㎡
自重量:16,500kg
全備重量:26,000kg
発動機:火星一一型空冷複列星型14気筒×4
最高速度:470km
実用上昇限界:10,100m
航続距離:3950km(正規)
:6200km(攻撃過荷)
:7400km(偵察過荷)
武装:爆弾・魚雷搭載量4000kg
魚雷:838kg九一式魚雷改二×2
爆弾:60kg爆弾×18、250kg爆弾×8
:500kg爆弾×5、800kg爆弾×3
武装:胴体上方、尾部各1門 20mm機関砲×2
:機首1門、胴体両側各2門、胴体下方1門 7.7mm機関銃×4
乗員:7名
現時点において、帝国海軍の航空打撃の主力を担うのは九六式陸攻だった。その名から分かる通り、九六式陸攻は皇紀2596年――1936年に制式採用された。史実と違い、伊藤ら『大和会』の活躍により、日中間全面戦争が頓挫し、『渡洋爆撃』時に生じた九六式陸攻の脆弱性も知る機会は無くなってしまった。平時故に予算は限られ、大和型戦艦の建造に多大な費用が掛かっていた為、1937年度には十二試陸上攻撃機――後の一式陸攻――は発注されはしなかった。結果1939年の『ノモンハン事件』まで、九六式陸攻は不動の存在であった。
事態が変わったのは、前述した『ノモンハン事件』に由来する。1939年5月から8月までの間、ソ連赤軍の猛攻に対処すべく出撃した九六式陸攻は、陸海航空部隊が撃ち漏らしたソ連空軍I-153、I-16戦闘機や対空砲火の前に甚大な被害を出してしまった。この戦訓から、九六式陸攻の脆弱性に気付いた海軍上層部は、新型陸攻の開発に取り組むこととなる。
この十五試大型陸上攻撃機は、その後継機としての位置にあった。
「同機主翼はジュラルミン製二本桁応力外皮構造で、燃料タンクはゴムによって被膜します」本庄は言った。「更に炭酸ガス注入装置を加えます。消火設備としては自動消火装置を配備し、火災時には早期鎮火を行います」
自動消火装置は史実、1943年春頃から配備された。この装置は火災を電気的に感知、自動で二酸化炭素を噴出して消火する。防弾設備が無理だった一式陸攻にとっては、唯一の対応策といえた。
「それで生存性は確立されるのか?」と、山本は訊いた。
「理論上は……」三菱の社員は言った。「しかし被膜するゴムは粗製だと聞いています。国内で開発中のクロロプレンゴムやFRPが完成すれば、ある程度の防弾性は確立される筈です」
FRPとは、ガラス繊維の中にプラスチックを入れて強度を向上させた複合素材である。主にガラス強化プラスチックを指す。実用化し、本格的に普及し始めたのは1944年、米陸軍航空軍の主力戦略爆撃機B-29『スーパーフォートレス』の登場以降である。B-29では、燃料タンクと翼外板の間に防弾材として、FRPを挟んでいた。日本人が初めてその存在に気付いたのも、撃墜したB-29の燃料タンクに使われていたものからであった。
1940年の日本人がその存在を知っているのは、何を隠そう『大和会』の影響が大きい。化学業界は1931年からアメリカ・デュポン社が製造を始めたネオプレン――クロロプレンゴムの商名――とともに、このFRPの開発を始めてはいるが、やはり難航していた。史実でも日本は、B-17から回収出来たネオプレン開発に努めたが、結局は挫折している。
「だが、それだけすれば費用が掛かる」和田は言った。「生きるか死ぬかなどは、兵の技量でなんとでもなるものだ。実力と才能、そして不屈の精神があれば幾らでも生き残る」
「しかし和田君、そうとも言えんよ」伊藤は言った。「前年の『ノモンハン事件』が顕著な例ではないか。九六式陸攻には熟練の兵が乗っていた――だが、戦死者は出た。これは機体の脆弱性から生まれた問題であり、十五試陸攻が発注された最大の要因だ。結論が確立しているのに今更、『精神論』など語るものではないよ」
1940年、こうして伊藤や山本らの合意もあり、十五試陸攻は四発機として誕生する。脆弱な一式陸攻の代わりに生まれた十五試陸攻は防弾・運動性ともに優れた機体であり、攻撃能力も非常に高かった。後の戦争において『五式陸上攻撃機』と命名された同機は、B-17にも肉薄する性能を見せ付け、米軍の度胆を抜くこととなる。
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