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時空戦艦『大和』  作者: キプロス
第4章 戦前の大和~1940年
30/182

第30話 老兵は空に行く

 第30話『老兵は空に行く』

 

 

 1940年1月29日

 茨城県/土浦町


 ワシントンDCで米海軍首脳陣が呼び出しを食らった翌々日、当の一件を起こした張本人の伊藤は、茨城県霞ヶ浦に居た。霞ヶ浦は茨城県南東部から千葉県北東部に広がる巨大な湖で、土浦周辺の湖畔一帯には帝国海軍の航空基地『霞ヶ浦飛行場』が存在する。伊藤は霞ヶ浦航空隊の飛行練習生の一員として、飛行帽を手に滑走路に足を運んだ。だが、ここに至るまでは、そう容易ではなかった。

 霞ヶ浦飛行場の歴史は1916年に遡る。この年、帝国海軍は霞ヶ浦の湖畔一帯に1つの広大な航空拠点『霞ヶ浦飛行場』を建設する。陸地面積80万ha、水上面積290万haというその広大な飛行場の歴史は華々しく、そして闇に包まれていた。1929年には当時世界最大だったドイツの大型飛行船LZ-127――『グラーフ・ツェッペリン』の愛称で知られる――が寄港し、1931年には大西洋単独無着陸飛行を成し遂げたチャールズ・O・リンドバーグ夫妻が来日し、ここを訪れている。しかし、その華々しい歴史の裏で、霞ヶ浦飛行場は日本最大の航空戦力保有地であり、東日本随一の航空訓練拠点でもあった。予科練の訓練学校が設置され、数千の志願者が生まれた。

 伊藤もそんな志願者の1人である。同飛行場の霞ヶ浦航空隊の訓練学校に入学、2年に及ぶ履修期間を過ごす事を決意する。しかし御年60歳、それに海軍中将の彼が遥か下の階級の訓練生達と混じって空の事を学ぶのには、誰もが合意しかねなかった。

 「何故です?」

 誰もが発する第一声に対し、伊藤はある思い出を抱いていた。1945年8月、日本降伏時に再会した親友、レイモンド・A・スプルーアンスとの対話である。

 

 

 1934年、交換留学生として入学した陸軍大学校の卒業間近、ウィリアム・F・ハルゼー大佐は航空局長アーネスト・J・キング少将から次のキャリアに空母『サラトガ』艦長の職を提示された。サラトガはレキシントン級巡洋戦艦の改装艦で、当時としては主力の大型空母だ。しかしながら、米海軍では空母・水上機母艦、航空基地司令官といずれも空に直結する職に対しては、『ウイングマーク』を取得しなければならない。当時、高級士官がウイングマークを獲得する常套手段としては、航空オブザーバー過程という上級士官中途教育コースがあった。

 しかし、ハルゼーは納得していなかった。そこで、正規パイロットの道――パイロットコースを選んだ。これは、実際に飛ぶ経験を得ておかないとパイロットの心理は理解出来ず、航空畑を歩んだ参謀達に頼らねばならなくなってしまうからである。当初は航空オブザーバー過程を選択していたハルゼーは途中、このパイロットコースに変更し、正規パイロット同様の過酷な訓練を受ける事となった。

 20代の若手パイロット候補生に混じり、ハルゼーは奮闘した。彼はその時、52歳という老齢で、体重はゆうに100キロを超えていた。それ以前に視力の問題もあり、パイロットへの道は前途多難であった。ハルゼーは、最初の難関である視力検査を合格――何らかの不正を働いたかと思われる――し、ペンサコラ飛行学校に入学、1年間に及ぶ過酷な訓練を受けた。前述したように、訓練の中には同年代の人間は存在せず、20年代の次の世代を担う若手に囲まれる所となった。訓練は本当に過酷で、100キロ以上あった体重は1年で70キロに落ち込んでしまった。

 その訓練の結果は、絶大であった。臨機応変な対応を可能とし、第三者――航空参謀――の意見具申を通さず、即座に行動を起こせるに至った。その経験に驕らず、それでもなおハルゼーは自身を磨き続けた。1936年にはペンサコラ航空基地司令官、1938年には新鋭空母『エンタープライズ』『ヨークタウン』を基幹とする第2空母戦隊に就任し、1940年には米海軍の全空母の指揮権を事実上、握る事となる。

 ハルゼーの話を聞かされた伊藤は、その事をまだ覚えていた。米海軍が飛行経験を持つ人間のみに空母・水上機母艦・航空基地司令官の職を認めるのに対し、帝国海軍はそういった規定は存在しない。妥協人事で第一航空艦隊――世界初の機動艦隊――の司令長官に水雷畑一筋の南雲中将を抜擢したように、畑違いの南雲には航空参謀が付けば何とかなる、と考えていた訳である。実際、参謀長には草鹿少将が就いたが、草鹿は元来砲術畑で育ち、航空面でも時代遅れの飛行船が専攻であった。この点は、正規パイロットとしての訓練を受け、成長したハルゼーとは似ても似つかない。

 そんなハルゼーの例を受けて、伊藤もその道――航空パイロットとしての道を歩もうと決意していた。これは『第七・第八艦隊計画』が米内に受理され、第八艦隊司令長官の職に就任するのを受けての決断であった。第八艦隊は空母『サラトガ』を始め、数隻の空母を含めた機動艦隊である。これまで軍政畑を歩み、空母指揮の経験が無かった伊藤は不安だった。そこで今回、霞ヶ浦航空隊の訓練学校に入学し、パイロットとしての知識と経験を積もうという訳である。

 だが、伊藤は既に齢60を迎え、肉体的・精神的にも心配された。『大和会』、山本派、航空主兵主義派の面々は皆一同に年に見合ったことではないと否定し、事故等も考慮して説得を試みた。しかし、伊藤はそんな声に反発し、一貫してパイロットの道を突き進む。この時期に訓練に参加する理由には、歴史改変の下準備を既に終えた事もあり、彼は自身が死んでも既に計画の行く末は然程変わらない事を知っていた。そんな態度を見てか、徐々に反発の声は止み、次第に応援の声へと変わっていった。

 

 伊藤の決意の裏には、1つの忌むべき過去が存在する。

 1945年4月、伊藤は戦艦『大和』を基幹とする水上特攻部隊を指揮する任に着いていたが、当作戦には空母といった機動戦力は無かったが、少数の護衛戦闘機部隊が就くことになっていた。その1人の中に、伊藤叡中尉という兵士が存在した。その名前から分かるように、伊藤整一中将の息子である。

 史実、伊藤叡は零戦に搭乗、上空より戦艦『大和』と艦隊を護衛する。彼は父親の最期を見送った後、神風特攻隊隊員としながらもF4U『コルセア』艦上戦闘機約16機との激戦の後、沖縄海域にてその生涯に幕を閉じた。時に4月28日、父伊藤整一戦死から3週間ほど経った頃のことである。それまでに彼は、B-29『スーパーフォートレス』迎撃に尽力し、幾度かの戦果を挙げていた。

 それが史実の最期だったが、今物語では全く異なる。戦艦『大和』が坊ノ岬沖で最期を迎えず、父の最期を見送ることは無かった。しかし24日、沖縄海域上空にて、彼は史実通りにF4Uと戦火を交え、壮絶な最期を迎えるに至った。

 息子を先に逝かせてしまった為に伊藤は悔い、泣き続けた。自身の不甲斐なさを常に痛感し、戦後も何度か自殺を考えていた。10歳下の妻や、3人の娘達との確執が生まれたのも、それが原因であった。彼が『大和』を護り、米軍による核実験を阻止しようとしたその経緯の中には、いつかこの戦艦に再び乗艦し、息子の後に続こう――という、儚い願望も少なからず絡んでいた。しかし家族の支え、『大和会』関係者との談話、親友レイモンドとの再会を経て、彼は自身を取り戻した。

 そして今、彼は忌わしき存在――戦闘機パイロットの道に足を踏み入れようとしていた。過去の確執を解消し、背中に背負い込む全てを支えるだけの鋼の身体と精神を獲得することを心に刻み、霞ヶ浦飛行場に足を踏み入れる事を決意した。

 

 

 パイロットの育成は手間と時間を要する。そこで制定された制度が『海軍飛行予科訓練生』であった。これは志願制の制度で、将来の航空人材の養成の為、1929年に設けられた。その中でも最大規模の養成拠点がこの霞ヶ浦航空隊であった。

 伊藤は15歳~20歳までの青少年練習生達と混じり、訓練に参加する。履修期間が2年間であることや、体力面では年齢や階級から考慮される部分はあったが、待遇は殆ど変わらない。基礎的な座学を終えた後、彼は教官とともに三式陸上初歩練習機に乗り込む。60歳とはいえ、伊藤のその堂々たる風貌は老いを感じさせない。タイムスリップの影響も関係しているのかもしれない。

 プロペラの風圧を避けながら、後席に乗り込む。座席バンドを締め、前席と後席を繋ぐ伝声管が連結する。前後席双方の意思疎通の為、伝声管は使用される。エンジンは唸りを上げ、出発の時を待つ。

 「よーし、準備出来たな。出発するぞ!」

 と、訓練教官は言う。階級にしてみれば伊藤は大上司に当たるが、あくまでも練習生である。その点は割り切り、全力で当たって欲しいと伊藤は訓練開始前に伝えていた。そうでなければ今回の訓練の意味が無い。1942年には第八艦隊が完全成立するので、履修期間は2年と予科練に比べれば少ない。常人以上に努力しなければならない訳である。

 教官の声とともに、整備員が三式初歩練に駆け寄り、チョークを取り払う。機体は動き始め、所定の離陸位置へと向かっていく。心臓部たる『神風』二型エンジンが徐々にその唸りを上げていき、離陸位置に辿り着く。

 一拍置いて、エンジンから轟く爆音がその音量を上げたかと思うと、強烈な風圧が機体を包み込む。速度が増していき、大地を滑走する。やがて機体は宙に浮き、気付けば空に上がっていた。

 それは普段、旅客機に搭乗するのとはまた違う感覚であった。四肢を迸る物凄いG、肌を伝う爆風、360度全方位に広がる空中のその光景は、戦闘機に乗った証拠である。猛烈に吹き付ける風の風圧に顔を顰めつつ、伊藤は目を見開いて今を見据え続けた。

 「よし、感覚を掴んでおけよ!」教官は言った。「手を離すから、一人で水平飛行をやってみろ!」

 教官の指示を受け、伊藤は緊張と興奮を覚えつつ右手を操縦桿、足をフットバーに置く。慣れない手付きで舵を取るが、三式初歩練は安定性の高いので、多少のミスも機体がカバーしてくれる。三式陸上初歩練習機は1930年に制式採用された機で、その理想的な性能から太平洋戦争時も使われ続けられた。

 「よーし、離せ!」

 無意識の内に、操縦桿とフットバーから手足が離される。操縦を再び担う教官は、急旋回して霞ヶ浦飛行場へと針路を向けた。

 「筋は良いぞ」教官は大声で伝声管から言った。「なーに、2~3ヶ月もあれば十分だ」

 伊藤は笑みを浮かべ、伝声管越しに感謝の意を伝えた。そうこうしている内に機体は霞ヶ浦飛行場に到着し、伊藤の初飛行は幕を閉じた。

 

 

 訓練開始から2ヶ月半、基礎的な技術を習得した後、三式初歩練を伊藤は完全に乗りこなすに至っていた。60歳とは思えない体力と気力により、伊藤の駆る三式初歩練は優雅に舞い、宙返りを繰り返す。そんな光景に、教官一同も驚きを隠せなかった。

 そして1940年1月29日、いよいよ九三式中間練習機での訓練が始まる。飛行帽を手に滑走路上に現れた伊藤には、三式初歩練による曲芸飛行や長時間の滞空経験から培われた気迫がみなぎっていた。

 

 彼は飛行帽を被り、曙光に煌めく銀色の滑走路を歩み始めた。

 

 

 

 

 

 

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