第28話 腹が減っては戦は出来ぬ
第28話『腹が減っては戦は出来ぬ』
1939年10月2日
長野県/西筑摩群
戦前、大日本帝国で海外向けの製品として大きな人気があったのは、シロバナムシヨケギクというキク科の多年草だった。原産は南東ヨーロッパのセルビアで、胚珠の部分にピレスロイド(ピレトリン)を含む為、殺虫剤の原料として使用されていた。この除虫菊は、1886年に種子が渡来し、1889年から対米輸出を開始した。
シロバナムシヨケギクは、1914年に開戦した第一次世界大戦以降、大日本帝国が世界的地位を確立し、経済成長の基盤となった。先進国の一国へと押し上げる上で、重要な役割を担ったのである。そして第二次世界大戦以降、真珠湾への奇襲後には対米輸出が停止され、日本は大事な収入源を失う事となる。ただし、アメリカはそれで除草剤を失った訳ではない。代替となる除虫剤――DDTを実用化したのである。
太平洋戦争以降、米国ではシロバナムシヨケギクの供給が途絶えた。その代替品として白羽の矢が立ったのが、DDTという有機塩素系の殺虫剤だった。
DDTの歴史は古い。1873年、つまりは日本で除虫菊の生産が始まる前には、DDTはドイツの学者によって合成されていた。発見以来長きに渡って放置されていたDDTだが、1939年にスイスの製薬会社『ガイキー社』所属のパウル・ヘルマン・ミュラー博士によって除虫効果が発見された。DDTの高い殺虫性、非常に安価で量産出来る面、また誤った安全性への認識から、1943年以降、瞬く間に米英で生産された。工業化されたDDTは爆発的に生産され、除虫菊の代替品となった。
米軍は1944年、ペリリューの戦いにおいて初投入され、少なからず多くの命を救う事となった。戦死体や排泄物に沸くハエや蚊を殺菌し、疫病の蔓延を防いだのだ。終戦後には、衛生状態の惨状を知った米軍の手により、大量のDDTが日本に持ち込まれて、日本人の身体を真っ白にするほどにDDTをかけて回った。これはチフスやシラミなどの防疫対策で、実際にその成果を挙げた。
壊滅し、崩壊した街の通りを実際に歩いていた時、米兵にDDTをかけられそうになった事を伊藤は覚えている。筋骨隆々のその米兵は、野生動物を見る様な目で伊藤を見据え、バケツ1杯分はDDTをかけようとしたていた。その前には彼等の大上司に当たるレイモンド・A・スプルーアンス海軍大将とも面談した伊藤は、流暢な英語でその丁重な行為を断り、再び未舗装道路を歩いていった。
やがてチフスが撲滅され、シラミもあまり出ない様になると、余剰のDDTは農業用の除虫剤として出回るようになった。戦時や、終戦日本においてその成果の程を知ったアメリカでは、これでもかというほどにDDTが生産され、使用され続けた。
「で、それを新たな農薬に?」
山本は言い、伊藤は頷いた。伊藤はDDTを大量生産し、戦場での殺虫剤や農薬として使いたいと考えていたのだ。
ただ、伊藤は知らないのも無理はないが、DDTは危険だった。1950年代、アメリカはDDTを大量に用い、それによって環境破壊を引き起こした前例がある。伊藤もそうだが帝国海軍人は科学方面に疎い面がある。それに1946年から舞い戻ってきている為、そんな事とは露もしらないだろう。
2人は今、試製輸送機のD1号輸送機に搭乗している。ダグラスDC-3の国産機である『零式輸送機』の試作機であるD1号輸送機は史実の二二型に相当する機体で、金星エンジンの搭載や機体強化といった数多くの改良が加えられている。
「我が国は農業生産において米英に立ち遅れている」伊藤は言った。「全面での機械化が無理な以上、量産化には強力な農薬が必要と考えるのが当然でしょう」
当時の農業は各地域による少量生産であり、化学肥料などではなく堆肥を用いていた。作物の品種もそれにあった、地域に元々あった伝統品種を使用しており、病気や虫に強かった。その為、農薬は必要なかったのである。しかし大量生産となれば話は違ってくる。
大量生産の弊害の1つに『連作』がある。稲作の場合、水が栄養を運び、病気の元となるカビが自然と死ぬので連作してもいいが、畑の場合はそうはいかない。畑は連続して使用すれば連作障害が発生してしまう。その為にも、農薬は必須だった。
「そのDDTというものを如何に入手するかだな」山本は言った。
「ドイツ経由で手に入れればいいかと」伊藤は言った。「同時に、機械化を進められれば、帝国の食糧自給率は飛躍的に上昇することでしょう」
先進国の近代農業――の基礎は、機械化や大量生産に合った品種の開発である。しかし、未だ自動車が普及せず、重機類の国内生産もままならない日本としては、機械化は夢のまた夢であった。だが、大量生産に向いた品種開発という面では、まだ少しでも可能性はあった。
戦争の発端となるのは、銃声や国家間のいがみ合いばかりではない。日々の糧など、食物にも由来する。山形県出身の石原莞爾、岩手県出身の板垣征四郎は、東北軍人としての責務として、かの満州事変を起こしたことで知られる。1930年代、東北地方は凶作に見舞われ、飢饉が相次いでいた。しかし世界恐慌を受け、政府が東北を気に掛ける暇も義理も無かった。こうして東北救済の為、立ち上がった石原ら東北軍人達は、満州事変を引き起こす。
伊藤ら『大和会』が纏めた戦後日本の食料事情報告書を読んだ山本は、農業の近代化と通商路防衛の重大さに、少しは分かったような気になっていた。だが、報告書を読んだだけでは、徹底的に破壊され、『食料』が無くなった戦後日本の全貌を見たときの打ちひしがれること必至――というような衝撃への感情移入は出来なかった。
東京、大阪、名古屋と、戦争末期、日本各地は爆弾や焼夷弾により、クレーターと焼け崩れた家々や灰に染まった大地に変わり果てていた。満州、朝鮮、台湾といった地域を失い、内地のみでの食糧生産を余儀無くされた日本だが、既にその頃には食糧は尽き掛けていた。
「食糧の不足の一因には、今我々が乗っている『コイツ』が関係します」
と、伊藤は言った。戦争以前から、窒素・リン酸・カリウム等、日本は農作物を育てる為の化学肥料の殆どを輸入に頼っていた。現在にしてみても、リン酸等を中国に頼っている。戦争末期には当然ながら、これら化学肥料は底を尽き、農業生産量は低下した。そこへ更においうちをかけたのが軍部である。本土決戦に備え、内地軍備が拡張される中、飛行場の増設の為には化学肥料が欠かせなかった。軍部は残り少ない化学肥料を徴発し、それによって農家へと肥料は行き渡らなくなってしまった。
ただ実際の所、その頃にすればまだ化学肥料は高価なもので、一般農家は専ら人糞尿、魚粉、菜種油粕といった類の肥料を使っていた。
「ふむ」山本は頷いた。「食糧生産の安定と増産は急務だな。だが、相手は物凄い国土と世界を相手に出来るアメリカ合衆国だ。やはり軍事方面に金と労力を掛けるべきではないか?」
伊藤は落胆した。やはり理屈より現実を見せるしかないのだろうか?タイムスリップでもして、また1946年の東京に戻れればいいのだが。
「『腹が減っては戦は出来ぬ』とはよく言ったもの」伊藤は言った。「あの広大なアメリカを攻めるには膨大な量の食糧がなければなりません。せめて西海岸を抑えるだけでも……」
西海岸を落とせば、大量の物資――車両・食糧・飲料水・燃料・医療品――が手に入る。イギリスとの同盟を結び、カナダを橋頭堡と出来ればまた話も変わってくるかもしれないが、可能性の乏しい今は現実的な手段を講じなければならない。
「それにまだイギリスと同盟を組めるかも決まっていません。決裂した状況下の中、戦争に突入するやもしれません」伊藤は言った。「東南アジア全土を抑え、その上でアメリカの攻め入るとならば、それなりの蓄えが必要となるでしょう。数十万の胃袋を支える為、後の未来の事を考えても、今時期からの農業改革は急務と言える。そう私は確信しています」
そう伊藤が強く言う理由は、敗戦後の日本の惨状からだった。物が不足し、各地に『闇市』が出来るのは当たり前の事だった。配給食料もあるにはあったが、足りなかった。そんな惨状を目の当たりとしつつも、元海軍中将として幾らかの蓄えがあった伊藤は、然程不自由はしなかった。しかし、食料を望み、餓死者が当たり前のあの時の光景は、鮮明な記憶として残されていた。
D1号輸送機は旋回し、縦横無尽に空を駆る。伊藤らの眼下に映り込むのは、食料の大量生産の確立には欠かせない――ダムだ。長野県に新たに建造される常盤ダムは、日本初の多目的ダムである。1939年に着工、1941年に常盤ダムは完成する。
そんなダムでは若い日本人男子や朝鮮人が働く。後に彼等は戦争へと徴兵されていくのだが、それこそが農業の衰退に関係していた事を伊藤は知っていた。1941年以降、急速に進む徴兵は農業を担っていた若い男手を奪い、従事者の基盤は老年者・婦女子・子供によって支えられる事となる。機械化も進まず、荷役馬や農耕牛馬といった、唯一の労働力も徴発されていた。工業面でも熟年職人を徴兵するのが問題であったが、農業面では若者の徴兵が深刻な問題だったのだ。
これら問題を解決する為にも、機械化は欠かせない。また、少子化対策もだった。しかしそれ以上に、敵の食糧や人手を奪う事もである。史実とは違い、米内内閣組閣後も東條英機はあの『生きて虜囚の辱めを受けず』の一節を出さなかった。逆に相手側の捕虜となった場合には、お国の為にと1日1日を確実に生きて暮らし、また皇国の土を踏み締めろ――いうような趣旨の一節が交えられる所となっている。降伏は極力抑え、万が一の場合は生存を重視せよ――という帝国軍人に許されない行為を奨励する様な内容を東條は記したのである。これには昭和天皇の大御心と、後に待ち受ける『敗戦』という辱めを防ぐ為にも、泥水を啜っでも勝とうという、決死の覚悟を決めた東條の意志が深く関わっている。
後世の歴史家達はこの点から、辻同様に史実以上の評価を付けている。もっとも、彼は後々壮大な舞台の上で、英雄の1人として果てていく事となるのだが――それはまた別の話である。
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